古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

読書メモ:小和田哲男『戦国大名と読書』~『先哲叢談』における直江兼続と藤原惺窩のやり取りについて

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

 

 小和田哲男氏の『戦国大名と読書』(柏書房、2014年)を読了しました。 

 上記の書籍において、上杉景勝の重臣・直江兼続儒学者・藤原惺窩とのやり取りを描写した記述で、印象に残った箇所を引用します。(前掲書p155~157)

 

「兼続が中国の古典籍に親しんだのは、一面で古典籍蒐集を趣味としていたからであるが、それだけではなかった。次第に儒学にのめり込んでいった様子が見られる。『先哲叢談』(*1)(『日本逸話大事典』第六巻所収)に興味深いエピソードが載っている。

 慶長五年(一六〇〇)の関ケ原に戦いの少し前(*2)、景勝・兼続主従がまだ京・大坂に滞在中のことである。兼続が儒学者の藤原惺窩を訪ねたことがあった。惺窩は、あとで触れるように、中国の政治論書『貞観政要』を徳川家康に講義したことで知られる当代一の儒学者だった。兼続はどうしても惺窩の意見を聞きたいと考え、惺窩の自宅を訪ねている。

 その日、惺窩は在宅していたが、訪ねてきたのが兼続だと知ると、居留守を使って会おうとしなかったという。居留守を三回使ったというのだから、訪ねる方も訪ねる方だし、居留守を使う方もよく使ったものだと思う。惺窩としては、兼続から「昨今の家康の行動は、儒学からの立場からはどうなのか」と切り出されるのを嫌って、兼続を避けていたのかもしれない。

 その日はあきらめて帰った兼続だが、別の日、もう一度惺窩のもとを訪ねている。ところが、その日は本当に惺窩は外出していた。兼続は応対に出た惺窩の弟子に、「私はこのまま会津に帰らなければなりません」と言い置いて去っていった。

 帰宅した惺窩は、弟子から兼続の来訪のことを聞くと、何を思ったか、兼続のあとを追い、近江の大津で追いついた。兼続は惺窩に「急いでいるので、一つだけ聞きたい」と、次のような質問をぶつけている。

  夫(そ)れ絶えたるを継ぎ、傾けるを扶(たす)くるは、今の時に当つて将(まさ)に行ふ可きか否や。

 要するに、兼続は、慶長三年(一五九八)の秀吉の死後、豊臣家が傾きつつあるという認識を持っていて、「傾きつつある豊臣家を助けるべきなのかどうなのか」との質問である。これに対して、『先哲叢談』は「惺窩答えず」とのみ記している。

 兼続としては、これまで自分が何人もの禅僧から習い、身につけてきた儒学の教えに照らし、秀吉死後の家康による豊臣家簒奪の動きをどうみたらよいのか、それを確かめたかったものと思われるが、惺窩からの答えはなかった。結局、兼続の最後の拠りどころは、上杉家の家風、つまり謙信以来の「義」だったのではないか。「義」を貫くため、家康の戦いも辞さずとの腹を固めることになったものと思われる。」((*数字)は筆者) 

 

 上記を補足しますと、

(*1)『先哲叢談』とは、江戸時代初期から中期までの儒学者を対象とした伝記集です。江戸後期の儒学者の原念斎の著によるもので、文化十三(1816)年刊行されました。

(*2)上杉景勝が伏見から領国の会津に戻る前の話ということですので、慶長四(1599)年8月以前の話ということなります。

 

 『先哲叢談』は、江戸後期の儒学者の著作ですので、上記の兼続と惺窩のやり取りも現実にあったのか不明ですが、江戸後期の儒学者による「関ヶ原の戦い」観がどのようなものであったかがうかがえます。