古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者 石田三成の虚像と実像~第12章 慶長の役に対する石田三成の「肉声」~「うつけ共か色々事申候ハ、不入事候」

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 慶長の役に対する石田三成の「肉声」を伝える文書が、毛利家の『萩藩閥閲録』に残っています。

 以下は毛利輝元が慶長二(1597)年十二月二十三日に伏見で豊臣秀吉に拝謁した際に、秀吉に近似していた石田三成が話していたことを聞き取った書状の一部です。

 以下、中野等氏の『石田三成伝』から引用します。

 「一、国替之さたもやミ候、治少被申事ニ、人かなにと申候共、気二かけ候ましく候、うつけ共①か色々事申候ハ、不入事候、高麗か日本之様二おさまり、九州衆もありつき候ハてハ、九州之知行上む(表)ハ候ましく候、さて上む(表)候上にてこそ、国ふり二より備前・中国の衆、其心得も可入候、それハさたまらぬ事候、其上二年・三年二さ様おちつき候事ハ候ましく候時ハ、国替之心得も以来不入物にて候二、人かわるき推量候て申事うつけにて候と被申候、

 ◇国替えも中止になった。(これについて)石田三成(治少)が次のように言っている。人が何を言おうと、気にすることはない。愚か者①が色々言っても無益なことである。朝鮮半島が日本と同様に治まり、九州の諸大名の(朝鮮半島への)転封先が決まらなければ、九州(大名)の知行収公はない。知行収公がなされた上で転封先が決定すれば宇喜多家(備前)・毛利家(中国)の衆にもその覚悟が必要となる。(しかし)朝鮮半島の状況は安定しないし、さらにこれから二、三年は落ち着かないであろう。(したがって)国替えの覚悟など今後は非必要であり、人の悪意ある推量による発言など意味がない。 

 

 このなかに、慶長の役に関する三成の「肉声」が残されている。三成は国替えを憂慮する輝元に対して、戦況を踏まえつつ当面その心配は不要であると述べている。

 慶長の再派兵は、朝鮮半島南部を実力で奪取するためのものであった。三成ら政権中枢②は、征服後の朝鮮半島に、九州大名を転封させる心算であった。さらにその上で、宇喜多家や毛利家をその跡の九州へ移すことを計画していた。しかしながら、三成はすでに朝鮮半島の戦況を悲観的にみており、九州大名の朝鮮転封はいうまでもなく、宇喜多家・毛利家の転封も数年間はあり得ないことを。告げたのである。いささか後年の伝聞史料にはなるが、日本に抑留された朝鮮の儒者である姜沆(カンハン)が遺した『看羊録』(ここでは平凡社東洋文庫四四〇を使用)によると、石田三成はつねづね「六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」と言っていた、とある。」(*1)(下線・番号筆者)

 

 さて、ここで三成の言うところの、「うつけ共=愚か者①」とは、誰のことを指しているのでしょうか?中野氏の解説を読みますと、この「うつけ共」とは、「三成ら政権中枢②」を指すことになるようにもみえますが、そうすると、この発言は三成がみずからを自虐して否定した台詞になりますが、そうなのでしょうか?

 

 私見を述べますと、このような「うつけた」ことを言っていると三成が考えているのは、政権の中枢である主君豊臣秀吉その人であり、その秀吉の言う事に逆らわない秀吉側近、三成以外の四奉行(浅野長吉、前田玄以増田長盛長束正家)のことを指しているのだと思われます。

 

 以上から考えますと、三成は慶長の役の秀吉の朝鮮出兵の方針が非現実的だと批判的であり、その秀吉の方針に無批判な他の四奉行に対しても批判的だった上、その批判を表立って発言していたことが分かります。(「うつけ共」とは、かなりの痛烈な批判です。)

 それにしても、この発言は三成が太閤秀吉の意向を批判したと輝元に受け取られかねず、三成の身が危うくなるような、かなり危険な発言と言わざるを得ません。

 

 文禄の役の時は、軍目付(増田長盛石田三成大谷吉継)は小西行長の講和交渉に同調し講和派でした。

 しかし、この講和は結局うまくいかず、慶長の役に突入すると、講和の失敗を秀吉に責められた長盛・行長は主戦派に転じます。吉継は、病でしばらく政治の表舞台から退場しています。

 

 中井俊一郎氏によると、はじめ朝鮮出兵の日本側拠点である名護屋の三成の陣は名護屋城に程近い北方の波戸岬の高台にあったが、その後に本営から南に大きく隔たった野元に移った可能性を指摘しています。

 このことは(はじめ文禄の役の時には)戦略・外交・講和交渉の主役だった三成が、(慶長の役の時には)秀吉と見解が対立し、朝鮮の役の(戦略・外交・講和交渉の)主役から降ろされたのかもしれない、としています。(*2)

 

(*1)の三成の発言を考え合わせますと、かつての講和派が秀吉の意向を受け、主戦派に転じる中で、三成のみは慶長の役の時も出兵を反対する立場となっていたことが考えられます。このため、この頃の三成は、朝鮮の役の戦略・交渉の主役からも下され、奉行衆の中でも孤立した苦しい立場にあったのではなかったのでしょうか。

 

 注

(*1)中野等 2017年、p345~346

(*2)中井俊一郎 2016年、p50~53

 

 参考文献

中井俊一郎「第七章 肥前名護屋 謎残る三成の陣跡」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年