古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の五 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交③ 出羽庄内における上杉(及び大宝寺)家と最上家の対立事件について

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 天正十六~十七(1588~89)年における、出羽庄内における上杉(及び大宝寺)家と最上家の対立と、その問題の解決については、石田三成及び増田長盛の対上杉外交の要素としても重要な事件ですので、以下に記載します。

(以下のカッコ内のページは、参考文献の中野等『石田三成伝』で参照しました、該当ページです。)

 

天正十五(1587)年十月、上杉景勝新発田重家を滅ぼします。(p58)

 

天正十六(1588)年五月七日、上杉景勝は入京、十二日に秀吉と対面を果たします。五月二十三日付で正四位下、参議に昇任することになります。(p58)

 

天正十六(1588)年八月から、天正十七(1589)年七月にかけて、出羽庄内を巡る上杉家、最上家、大宝寺家を巡る騒動が起こります。

 

 それには、以前から以下のような経緯がありました。

 

 出羽庄内の大名、大宝寺義興は、天正十五(1587)年十二月二十三日に、最上義光に攻め滅ぼされ自害することになりました。

 

子のいない義興は、その以前より上杉家重臣本庄繁長の実子千勝丸(のちの義勝)を養子に迎えていました。繁長を通じて、上杉の援助を頼みとしていたためです。

 しかし、新発田重家の乱により、越後に釘付けになっていた本庄繁長は、義興救援に動けず、義興は最上義光によって自害に追い込まれたのです。からくも逃れた養子千勝丸は実父繁長の元に逃れます。

 

 天正十六(1588)年八月、本庄繁長・大宝寺千勝丸親子は、上杉景勝の後押しを受けて、最上義光の支援する、元大宝寺重臣だった(ただし、東禅寺義長は、大宝寺義興の兄であり大宝寺当主だった義氏を暗殺した人物です)東禅寺義長・勝正兄弟と十五里ヶ原の戦いで激突します。結果、上杉(本庄)・大宝寺連合軍は勝利し、東禅寺・最上連合軍は敗北し、出羽庄内は大宝寺の元に取り戻されることになりました。

 

 しかし、この戦いは、天正十五(1587)年十二月の、豊臣秀吉による奥羽惣無事令の発令後であり、最上義光は、これを奥羽惣無事令違反であると豊臣公議に訴えることになります。(最上家に対する豊臣家の奏者は富田一白です。)

 

 最上と本庄、双方の言い分を聞くために、秀吉は両者の召還を命じます。上杉・本庄方の奏者には、増田長盛石田三成が、最上方の奏者には、富田一白が付きます。

 

 これにより、本庄繁長あるいは大宝寺千勝丸の上洛の速やかに求められたものの、繁長は政務で忙しく(他の事情があったのかもしれませんが)、千勝丸の上洛も結果的に大きくずれ込むことになりました。

 

 結局、千勝丸が上洛したのは、天正十七(1589)年六月二十八日、秀吉に拝謁したのは、七月四日でした。京で元服した千勝丸は、武藤(大宝寺)家の継承を秀吉から承認され、実名を「義勝」と称することになります。

 また、義勝は従五位下左京大夫の官途名を許され、出羽守を称することになりました。つまりは、庄内問題における上杉家・本庄家・大宝寺家の弁明が、すべて豊臣公議によって認められたのです。

 

 この間、石田三成増田長盛とともに、上杉家・本庄家・大宝寺家の弁明の周旋を行っていたことが『大宝寺義勝上洛日記』などから確認されると、中野等氏は述べています。(p71~74)

 

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 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年