考察・関ヶ原の合戦 其の七 (1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交⑤ 奥羽仕置・朝鮮出兵・秀吉の御成、そして五大老へ
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関東出兵以後の上杉景勝の動きについて、以下に記載します。
その後、秀吉の奥州仕置を共に行うため、景勝は出羽に向かいます。
8月1日に、景勝は木村常陸介、大谷吉継を助けて出羽の検地を命じられます。(*2)
8月17日には出羽仙北郡大森に着陣します。(*3)
検地に反対する一揆が仙北や出羽由利、庄内で起こりますが、景勝は吉継らを助けて、これを鎮圧します。11月上旬までに出羽の一揆を鎮圧した景勝は、同月下旬に春日山に帰還します。その後、上京。(*4)
〇天正十八(1591)年6月、秀吉は奥両国の再仕置に着手し、豊臣秀次・徳川家康、そして景勝らに出陣を命じます。景勝は一旦帰国して、その上で7月、奥両国へ軍勢を進めます。7月晦日に出羽米沢周辺に着陣した後、陸奥葛西へ進み、8月に柏山城の普請に当たります。(その間、陸奥二本松で秀次らと会談した可能性、仙北大森城に入った動きなどが指摘されています。)10月上旬に国許へ帰還します。(*5)
〇天正二十(1592)(文禄元)年 3月1日、景勝は軍勢を率いて国許を発し、上洛。上洛後、肥前名護屋に向かいます。唐入りのためです。しばらく名護屋に在陣の後、翌文禄二(1593)年、秀吉の「御代」として、朝鮮へ渡海、熊川倭城の普請に当たることになりました。実際に渡海したのは、7月頃のようです。(*6)
熊川倭城の普請には、既に渡海していた、軍目付である石田三成・大谷吉継らも、共に携わっていました。(彼ら軍目付は朝鮮在陣緒将の在番体制の構築に全面的に関わっています。(*7)
景勝は、熊川倭城の普請を終えると、9月8日に名護屋へ帰還します。その後上京し、10月中に国許へ帰還します。(*8)
上記のような、朝鮮在番諸将の兵糧他所物資の確保、将兵の帰還の指揮も、石田三成ら軍目付の仕事です。(*9)諸将への手当てを終えた石田三成も帰還する最後の組に編成され、9月23日に名護屋に着岸しました。(*10)
〇文禄三(1594)年10月28日、秀吉が諸大名や公家衆を引き連れ、京都の上杉邸に「御成」し、景勝を権中納言へ昇進させます。(*11)
天下人・太閤秀吉の「御成」は、景勝にとって大変名誉なことであり、また、景勝の権中納言へ昇進を伴っており、景勝にとっても非常に重要な儀式でした。
「三成と増田長盛(筆者注:これまで述べた通り、二人は上杉家に対する豊臣家の取次(外交官)です。)は、上杉邸への御成に際して、準備が整ったとして景勝から事前の点検を依頼されている。(大日本古文書『上杉家文書』八六一号)。」(*12)
秀吉の上杉邸「御成」を準備したのは、豊臣方では、石田三成・増田長盛、上杉方では、直江兼続であり、この準備には三者の綿密な打ち合わせがあったことがうかがえます。
〇文禄四(1595)年(と中野等氏は比定しています)正月四日、浅野長吉が、上杉領における金の採掘を促す書状を、石田三成に充てて発しています。
分かりにくいのですが、浅野長吉は秀吉の意を受けて、書状を発し、直接、中納言に昇進した景勝を宛所にするのは、非礼にあたるので、上杉家の取次である三成を発したということのようです。(*13)
おそらくこの後、石田三成から、上杉家における豊臣家の取次にあたる直江兼続充てに同様の依頼を行う形になったのではないでしょうか。
〇文禄四(1595)年7月、関白豊臣秀次切腹事件が発生します。この知らせを受けて、8月4日に景勝は、上洛します。そして、この年の8月に、いわゆる御掟・御掟追加が発令されます。この法令は、徳川家康・宇喜多秀家・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・上杉景勝の名のもとに出されました。(*14)
上記の6名のうち、慶長二(1597)年に死去した小早川隆景を除く5名は、いわゆる後の「五大老」であり、「五大老」の原型は、この頃から作られたとされます。
〇文禄四(1595)年9月、景勝の伏見城普請が開始されました。(*15)(ただし、伏見城普請そのものは、文禄三(1594)年正月から始まっていますし (*16)、中野等氏の記述を見ますと、景勝の普請は文禄三年から始まっているように見受けられます。(*17))
〇文禄五・慶長元(1596)年、9月1日に大坂城内で明の使節が、秀吉と対面します。この時、宣教師ルイス・フロイスの記述によると、徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川秀俊(秀秋)・中納言(宇喜多秀家カ)・上杉景勝らが列席していたとのことです。(*18)
〇慶長二(1597)年7月27日に来日中の呂宋(ルソン)国の使者を饗応するため伏見城内で能が行われ、景勝は徳川家康・前田利長とともに列席しています。また、8月9日、秀吉の命により、家康とともに伏見城へ出仕します。秀吉の朝鮮渡海計画のことで召されたようです。(*19)
このように、豊臣公議の重大な案件について、家康とともに秀吉の相談を受ける程、景勝は豊臣公議において、重要な位置をしめていたことが分かります。
次回は、これまでのまとめについて書きます。
※次回エントリーです。↓
注
(*1)尾下成敏 2011年、p262
(*2)児玉彰三郎 1979年、p118
(*3)児玉彰三郎 1979年、p118
(*4)尾下成敏 2011年、p262~3
(*5)尾下成敏 2011年、p263
(*6)尾下成敏 2011年、p263~4
(*7)中野等 2017年、p211
(*8)尾下成敏 2011年、p264
(*9)中野等 2017年、p208~213
(*10)中野等 2017年、p213、中野等 2011年 p301
(*11)尾下成敏 2011年、p264
(*12)中野等 2017年、p234
(*13)中野等 2017年、p237~238
(*14)尾下成敏 2011年、p265
(*15)尾下成敏 2011年、p265
(*16)児玉彰三郎 1979年、p138
(*17)中野等 2017年、p233
(*18)尾下成敏 2011年、p265
(*19)尾下成敏 2011年、p265
参考文献
尾下成敏「上杉景勝の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)
児玉彰三郎(児玉彰三郎氏遺著刊行会編)『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年(初出1979年)
中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)