古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の八 (1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交⑥ 豊臣公議のルール(「惣無事」令等)、石田三成ら取次と上杉家の信頼関係、上杉家はいかにして「親豊臣大大名」となりしか

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※前回エントリーです。↓

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 これまで、上杉景勝と豊臣公議の関わり、取次(石田三成増田長盛ら)との昵懇の間柄、そして、いかに上杉家が外様大名ながら親豊臣大大名の地位を確立し、のちの五大老の地位を占めるに至ったかについて、述べてきました。今回は、これまでの説明をまとめます。

 

※                  ※                 ※

 

 豊臣公議の傘下の大名(全国統一が果たされた後は、日本の全ての大名)には、以下のルールが適用されることになります。

 

1.豊臣公議において、上洛とは「臣従」の証です。

2.豊臣公議においては、傘下の大名の「私戦」は認められません。

3.豊臣公議においては、傘下の大名同士の「国郡境目相論」(大名同士の国境線の確定)は、豊臣公議の裁定に委ねられます。

4.豊臣公議においては、傘下の大名は軍役・普請等の「貢献」が求められ、「貢献」を十分に果たした大名は、官位上昇・領地加増等の恩恵を受けることになります。

「貢献」が果たせない大名は、最悪、改易処分になります。

 

 以下、順に見ていきます。

 

1.豊臣公議において、上洛とは「臣従」の証です。

 

 天正十四(1586)年六月に景勝は上洛を行い、豊臣公議に臣従します。(秀吉に対する豊臣賜姓は、天正十四(1586年)九月なのですが、便宜上「豊臣公議」に統一させていただきます。)

 この上杉家臣従のために奔走したのが、豊臣公議の対上杉家取次であった石田三成増田長盛らです。

 特に石田三成は、景勝上洛の際に、加賀まで出迎え、京・大坂までの案内を行い、上坂後は自邸にて景勝一行を招き饗宴をはります。このように、景勝上洛の儀式の一切をとり仕切ったのは石田三成でした。この事により上杉家も、取次であった三成も大いに面目をほどこし、両者はその後も昵懇の間柄となったのです。

 

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2.豊臣公議においては、傘下の大名の「私戦」は認められません。

 

 上記が明確化するのは、天正十三(1585)年十月に九州地方、天正十五(1587)年十二月に関東・奥羽地方に発令されたいわゆる「惣無事」令になりますが、豊臣傘下の大名については、天正十三(1585)年十月頃から、豊臣公議としての「惣無事」の意思決定は、明確なものになっていったものと考えられます。

 

「惣無事」令は、あったかなかったか、長らく歴史学研究界では論争が続いていますが、個人的な意見といたしましては、豊臣公議としての統一的・継続的意思を示す政策としての「惣無事」令は、あったと考えています。

(「なかった」と唱える方も、「惣無事」令自体は存在している事は認めており、恒久的成文法としての「惣無事令」はなかったという意味のようですが。)

 

 このため、大名にとって必要があり、戦争を起こすためには、豊臣公議の許可が必要になります。上杉家においては、新発田重家の討伐、佐渡出兵がこれに当たります。

 

 豊臣公議の取次は、大名の許可要請に応じて、秀吉がこの戦を許可し、「公戦」と認めるように、周旋するのが仕事です。

(取次の仕事は、豊臣公議にとっても利益になる範囲内において、取次先大名の利益を最大に図ることです。

 もちろん、その大名の求める「利益」が豊臣公議の「公議益」(左記ワードは、私個人的につけたものです。現代風に言うなら「国益」が近いニュアンスですが。)に反するならば、その大名の要請は拒絶する必要があります。

 取次が、その周旋によって取次先の大名の利益を図ることに成功すれば、これは取次と取次先大名双方の「面目」を大いに上げることになります。)

 

 しかし、新発田重家のケースを見ると分かるように、大名にとっての敵にあたる大名・領主・国衆(この場合は新発田重家)にも、「豊臣公議」の別の取次がついている場合があるのです。

 これは、当然上杉家にとっては、二枚舌外交のように見えますが、当時の戦国大名にとっては、複数の手筋を使って、複数の勢力と交渉に当たるのは常識的な行動であり、秀吉のみが、そのような行動をしていた訳でありません。また、戦国大名の一般的な外交交渉は、基本は「和戦両様」であり、当初敵対していても、条件次第で和睦になることも多いのです。

 

 三成と長盛は、上杉家の取次として、取次先である大名の上杉家が有利になるように当然動きます。一方で、豊臣家における新発田重家の取次は、当然新発田重家の有利になるように動くのです。(ただし、今回の新発田重家の取次は、ある時期から秘密交渉であった可能性が高く、さらにややこしい話になっています。)

 

 そして、取次先の利益を図れた取次は、取次としての面目を上げ、取次先の利益を図れなかった取次は、取次としての面目を失うのです。

 

 このように、取次という制度は、(豊臣公議に限りませんが)豊臣公議内の別の取次と必然的に利益が衝突する可能性が出てくる構造になっている、危ういものでした。

 これは、取次の構造そのものが、そのようなものになっているので、個人の性格とは関係のない話となります。(「取次」という仕事は、「コミュ強」でないと成り立ちえません。)

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 新発田重家の乱・佐渡出兵については、三成・長盛の奔走もあり、最終的に上杉景勝の主張がすべて認められ、新発田重家・反抗した佐渡の在地領主は滅ぼされることになります。

 この事によって、景勝・三成・長盛は面目を上げることになります。

 

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3.豊臣公議においては、傘下の大名同士の「国郡境目相論」(大名同士の国境線の確定)は、豊臣公議の裁定に委ねられます。

 

 出羽庄内における上杉家と最上家の対立が、これに当たります。このような傘下の大名同士の「国郡境目相論」が豊臣公議で発生した場合、双方の取次は、取次先の大名の利益を図るために、いわば、裁判の大名側「弁護人」として、周旋に望むことになります。

 当然、この裁判に「勝訴」すれば、「弁護人」としての取次及び、弁護された大名は、面目を上げることになります。この「裁判」は上杉家の「勝訴」に終わり、このケースにおいても、上杉家・三成・長盛も面目を上げることになります。

 

 だいたい分かるかと思いますが、裁判で負けた側の大名・弁護人たる取次は面目を下げることになり、勝った側の大名及び取次を恨んでも不思議はありません。これもまた、取次の構造的なものであり、こうした事が当然に発生する事自体が「仕事」なのですから、一部から嫌われても当然な、過酷な「仕事」なのです。

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4.豊臣公議においては、傘下の大名は軍役・普請等の「貢献」が求められ、「貢献」を十分に果たした大名は、官位上昇・領地加増等の恩恵を受けることになります。

「貢献」が果たせない大名は、最悪、改易処分になります。

 

 これまで見てきたように、上杉家は、北条攻め・出羽仕置(一揆鎮圧)・朝鮮出兵伏見城普請と、豊臣公議の軍役・普請等の要請に答え、豊臣公議への「貢献」を十分に果たします。

 権中納言への官位上昇(その結果としての、後の「五大老」就任)、後のエントリーで触れます、会津への加増転封は、こうした上杉家の「貢献」が豊臣公議にとって、十分満足行くものであると秀吉に評価されたがゆえの、「恩恵」です。

 

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 これに対して、文禄の役で敵前逃亡した大友義統は「貢献」がまったく果たせていないと、改易処分となります。

 

 この後見ていく、島津家については、「唐入り」について、十分な「貢献」が果たせず、「日本一の大遅陣」の失態を起こしてしまいます。更には「朝鮮出兵反対」の梅北一揆を領内に引き起こしてしまい、改易の危機に陥ります。

 

 これにより、島津家の取次であった三成が、島津家改易の危機を救うために、必死に島津家の仕置に介入し、島津家を「指南」することになります。

 取次先の大名が潰れてしまう事態とは、取次にとって最大の恥辱であり、これ程の「不面目」はありません。三成が島津家の「指南」に必死(他の取次先大名に対して、三成自身も含み、これほど細かく「指南」した取次の例はありません。)なのは、必死になるだけの理由があったのです。

 

 少し外れますが、三成・長盛・大谷吉継ら軍目付は、文禄の役において朝鮮に在陣し、在陣する大名(景勝含む)たちの兵糧等兵站管理、大名たちの日本帰還への準備作業に従事しています。

 関ヶ原の戦いにおける「西軍」とは、文字通り西軍諸将が主力なのであり、戦地に近い大名ほど重い軍役が課された当時の戦役の慣例において、西軍諸将が「唐入り」の主戦力なのです。

 

 最近言う人はさすがに少なくなりましたが、時々、「唐入り」で石田三成ら軍目付が、朝鮮在陣「諸将」と衝突し、これが関ヶ原の戦いの一因となった、と述べる方がいますが、仮にそうであれば、関ヶ原の戦いにおいて、朝鮮在陣の主力である西軍諸将が軍目付=三成・長盛・吉継ら奉行衆側に付く事などはありえないことです。

 

 むしろ、西軍諸将は、軍目付(三成・長盛・吉継ら)の在陣大名の兵糧等兵站管理、日本帰還への準備作業に対する感謝の念が高く、この事が関ヶ原の戦いに多くの西軍諸将が「西軍」に付いた要因になったと考えられます。

 

 文禄の役における一次史料から確認できる、軍目付(三成・長盛・吉継ら)と衝突した武将は、加藤清正のみです。加藤清正が軍目付と衝突した理由は、よく知られているように、小西行長・奉行衆らが進めた、対明講和交渉への不満です。(また、加藤清正は、謹慎処分は受けていません。従来の通説は誤りです。)

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 慶長の役における処分において、奉行衆に対する不満を抱いたのは、蜂須賀家政及び黒田長政ですが、実はこの件については、石田三成は、それより以前に景勝の会津転封作業のため会津へ行っており、その帰国途中であり、また事前の協議も受けておらず(慶長の役時の軍目付福原長堯の石田三成宛書状で分かります)(*1)、一切関わっていません。

 

 関与しているのは、当然、主君豊臣秀吉自身の意思決定が最大で、石田三成を除く他の奉行衆、浅野長吉・前田玄以増田長盛長束正家が意思決定の場に同席していました。

 

 この件については、他のエントリーで詳細に検討したいと考えます。

 

※                  ※                 ※

 

*まとめ

 

 上記で見たように、上杉景勝は、臣従以後、豊臣公議へ最大限の貢献を行っており、外様大名であるに関わらず、秀吉自身も含む豊臣公議から絶大な信頼を受ける親豊臣大大名でした。

 また、後の五奉行となる石田三成増田長盛は、古くより上杉家の取次を務めており、彼ら個人にとっても、外様大名の中でも、まず信頼するのは景勝であり、強固な信頼関係にありました。

 そして、最大限の信頼をする取次先の大名が、豊臣公議に対する謀反の疑いを理不尽にもかけられ、その大名を潰されるような事態は、彼ら取次にとって最大の恥辱であり、最大の不面目であり、武士の面目にもかけても、これは阻止しなければいけない事なのです。 

 この事を、考慮に入れて関ヶ原の戦いを再検証していく必要があります。

 

 次回は、上杉家の会津転封について、検討します。

 

 

 注

(*1)中野等 2017年、p353~355

 

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

 

※他の注、参考文献については、過去のエントリーを参照願います。また、「取次」の一般的な権能・役割については、丸島和洋氏の『戦国大名の「外交」』講談社、2013年等を参考にしました。