古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の十五(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相④~処分の決定時に「石田三成外し」があった?

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※前回(ではないですが)のエントリーです。↓

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 前回の続きです。

 

9.軍目付の帰還・報告

 

 蔚山城はその後どうなったのかと思いましたが、第二次蔚山城の戦いが、慶長三(1598)年八月に行われていますので、蔚山城の放棄は(秀吉の指示で)取りやめになり、結局清正が在番に入ったようです。

 さて、慶長三(1598)年五月二日、朝鮮在陣諸将軍の軍目付である福原長堯・垣見一直・熊谷直盛が秀吉の御見えを果たし、翌日朝鮮の状況を報告します。この時、三成は未だ帰国途中です。(*1)

 その時の内容については、長堯・一直・直盛の三名が島津義弘・直恒に宛てた書状によって、詳細を知ることができます。以下、引用します。

 

一、我ら三人事、去る二日に御見目仕り、翌日朝鮮において去年以来の儀、御尋ねなされ候条、具(つぶさ)に申上げ候

一、蔚山へ唐人取り懸りに付(つけ)て後巻(うしろまき)の次第、唐人河を越え、少々山に乗揚げ候といへども、蜂須賀阿波守(筆者注:家政)・黒田甲斐守(筆者注:長政)、その日の先手の当番に有りながら、合戦仕ざる趣(おもむき)申上げ候処に、臆病の由御諚なされ、御逆鱗大形ならず候(①)

一、御手先(ママ)の城ども引き入るべき由、各(おのおの)言上仕り候儀、言語同断の曲事に思し召す旨、御諚なされ候、私通り申上げ候へば、聞し召されざる以前より島津・小西・対馬守[宗義智]三人の城を引き入れ、御為になるべき族(様ヵ)三人の城主、私方へも度々に書状を越し申し候へ共、御諚を受けず、下として御城引き入る儀、覚悟に及ばざる趣、三人の城主も返事仕り候に付て、その以後各(おのおの)手を失ひ言上仕らせたる儀候、即ちこの書状の談合衆并(ならびに)早主[早川長政]・竹源[竹中重隆]・毛利民[毛利高政]書状にて御座候とて、御目に懸け候処、猶以て御逆鱗なされ、三人の城主(筆者注:島津義弘小西行長宗義智)ども同心仕らざる儀、丈夫に思し召し、事の外、御感なされ候、阿波守(筆者注:蜂須賀家政)・甲斐守(筆者注:黒田長政)儀は後巻の合戦を仕らず、臆病者と思し召し候に、剰(あまつさ)え御先手の城を引き入れる興行人、旁(かたがた)以(もって)取りわけ阿波守に対し、曲事に思召候、只今進退を取り消さる儀に候へ共、永く御思案を加えらるの間、追て様子仰せ出さる迄は在国致すべく候、甲斐守、是も後巻の合戦をへり臆病者、殊に主(あるじ)居城の所さへ見定めず、諸卒の苦労を顧みず、詮無く城ども仕捨て候儀、曲事浅からず思召し候といへども、先づ御思案を加えらるの条、進物の儀は申すに及ぼすに及ばず、御注進等の一通も進上仕るべからず候、様子追て仰出さるべく候、次に早川主馬頭・竹中源助・毛利民部大輔事、御目付の身として惣談(そうだん)に相加わり、御城を引き入れるべき族(様ヵ)、城主方へ書状を遣し、同じく御目付の間へも書状を遣す儀、第一の曲事と思し召す間、召し寄せ、御成敗ありたく思し召し候といへども、是も御思案なされ候間、豊後にこれ有るべく候、右の様子、彼者ども方へ奉行三人(筆者注:前田玄以増田長盛長束正家の3名と考えられます。)、弾正[浅野長政]相加わり、申遣すべき旨仰せ出され候(②)

 (中略)

一、両三人(筆者注:福原長堯、垣見一直、熊谷直盛)の事、前後の様子を聞き召し届けられ、御褒美として、豊後において新地を拝領候、仕合においては御心易かるべく候、兼(かねて)又来年には御人数を相渡され、赤国の筋、都河(辺ヵ)まで働き仰せ付けられ、蔚山のかたへ打入り候様にとの御有増(あらまし)候(中略)猶日本の様子追々申し述ぶべく候(③)、

恐煌謹言

                             福右馬

                               長尭(花押)

「慶長三年(ヵ)」五月廿六日

 

                             垣和泉

                               一直

                             隈内蔵(花押)

 羽兵庫[島津義弘]殿

 嶋又八郎[島津忠恒]殿

        人々御中」(番号筆者)(*2)

 

 大意について解説します。(内容が省略されている部分を、以前の書状等から一部補っています。)

 

①・蜂須賀家政黒田長政は、蔚山城救援戦において当日先手当番でありながら、合戦をしなかったのは「臆病」と御諚をなされた。秀吉はこの件に激怒している。

 

②・三城(蔚山・梁山・順天)と南海島の放棄を十三将は独断決定・実行したが、島津義弘小西行長宗義智の3人の城主がこれに同心しなかったことは「丈夫に思し召し、事の外、御感なされ」た。

 ・蜂須賀家政黒田長政蔚山救援戦に参加しなかった上、家政は三城放棄に賛同したため、とりわけ秀吉は家政に対して曲事と思い、「進退を取り消させ(改易)」ようかと考えたが、思案するため、追って沙汰するまでは、(帰国して)所領の阿波国に在国せよとのことだった。

 ・黒田長政もまた、蔚山救援戦に参加しなかった上、在番していた梁山城を諸卒の苦労も顧みず、放棄したのは「曲事浅からず」と思ったが、まず思案するので、追って仰せ出す(のを待ちなさい、とのことだった。)(*長政は、十三将に入っていませんが、在番していた梁山城を放棄したことによって、放棄に同意したとみなされたということでしょう。結局長政の梁山城放棄は、秀吉に咎められたということです。

 また、長政は、他の処分を受けた武将達とは違って、帰国は命じられず朝鮮に在陣し続けます。これも少し変な話であり、秀吉は長政に対して何らかの配慮があったことがうかがえます。)

 ・(軍目付の)早川長政・竹中重隆・毛利高政は、軍目付の立場でありながら、十三将の相談に加わり、三城の放棄の書状を城主及び他の目付にも遣わしたことは、(職権濫用であり、)これは第一の曲事であり、成敗(死罪)に処そうかと思案したが、これも思案するので、その間所領の豊後に在国すべきであるとのことだった。

 以上の事は、彼ら(処分を受けた者)へ、奉行三人前田玄以増田長盛長束正家)、浅野長政が相加わり、申し遣わすように仰せがあった。

 

③・福原長堯、垣見一直、熊谷直盛には、褒美として豊後に新地の拝領を受けた。

 ・来年は、また軍勢を発して赤国の筋、都(漢城?)辺まで働き仰せつけ、蔚山の方まで打ち入る予定だとのことだった。

 

 ここで、ポイントなのは、この慶長の役時の黒田長政蜂須賀家政等の処分の決定を行ったのは、②で分かるように秀吉の前で前田玄以増田長盛長束正家浅野長政が相加わって、決定したことなのです。

 つまり、この黒田長政蜂須賀家政等に対する秀吉政権の処分が間違っていると、誰かから糾弾されるとするならば、(主君の秀吉の責任は咎められない以上)、まず咎めをうけるべきなのは、この四名(前田玄以増田長盛長束正家浅野長政である、ということになります。

 石田三成は処分の決定協議に加わっていません。(繰り返しですが、この時会津からの帰国途中で不在のためです。)

 

 次に、以下の書状を見ていきます。慶長三年五月三日付の軍目付福原長堯による石田三成宛て書状です。福原長堯は、石田三成の妹婿であり、縁戚です。一部を除き、中野等氏の現代語訳のみ引用します。

 

「◇態々(わざわざ)、急ぎの手紙によって申し入れます。

一、朝鮮半島の一部割譲については、(日本勢駐留のための城郭)普請が出来ましたので、太田一吉(飛騨守)・熊谷直盛(内蔵允)・垣見一直(和泉守)と同道して、日本へ帰還しました。

一、昨五月二日、伏見において(秀吉)に拝謁しましたが、大変良い具合でした。(本来な事前に)内々ご相談の上、御拝謁するところですが、ご不在でしたので協議もできませんでした。(筆者注:原文「内々万得貴意、御見目へ可仕と存候処ニ、御留す二候て、無計方候つる、」)①しかしながら、増田長盛(増右)に相談して、(秀吉の御前に)出で、右のように次第となりました。②私に対しましては、ありがたい決定を下され、表向きも実際もこの上なく悦んでおります。細かなことは(意味とれず)ですが、きっとご配慮いただいた結果と存じております。③朝鮮半島に残って御普請にあたっている諸将も、近いうちに日本へ戻ることと思います。

 

一、さてさて奥州会津(相津)に御越しとのこと、遠路といいながら諸々の御苦労申しあげる言葉とてございません。(しかしながら)すでに務めを終え、近日中に御帰洛とのことですので、満足いたしております。拝見していろいろ積る話も申したく思いますので、委しいことはここに記しません。

 

 返々申しますが、(秀吉への)拝謁も終え、すべて順調ですので、ご心配には及びません。なお、朝鮮半島の諸将から書状なども言付かっておりますが、こちらで御目に懸かれると思い、飛脚などで送達することはいたしません。以上。」(*3)(下線部、番号筆者)

 

上記書状について、意見を述べます。

①のように、軍目付であり、三成の妹婿である福原長堯が、「(本来な事前に)内々ご相談の上、御拝謁するところですが、ご不在でいたので協議もできませんでした。」とあるように、今回の事件の処分決定の事前の協議を受けておらず、三成は、決定に関与していないことが分かります。そして、

②「増田長盛(増右)に相談して、(秀吉の御前に)出で、右のように次第となりました。」とあるように、先ほど述べた秀吉の処分決定に関わった四人の奉行(前田玄以増田長盛長束正家浅野長政)のうち、増田長盛が中心的な役割を果たしたことが分かります。

③「きっとご配慮いただいた結果と存じております。」というのは、前述したような、三軍目付が「褒美として豊後に新地の拝領を受けた」恩恵の配慮が、石田三成によるものだと、福原長堯は考えている訳ですが、事前に協議も情報提供も受けていない、処分決定時にも不在の石田三成が、三軍目付に恩恵を与えるような進言を秀吉にできる訳がそもそもありません。三成の配慮があったと長堯が考えたのは、長堯の勘違いです。

 

 軍目付の仕事は、秀吉の軍令の諸将への伝達、戦場からの秀吉への戦況報告及び、諸将の賞罰の評価基準となる戦功・失敗・命令違反等、武将の行動の報告です。当然報告については正確な報告が求められます。独断で勝手に書状を発行して各将に指示するなど、権限を踰越した職権濫用行為であり、処断(死罪)されても当然な大罪です。軍目付の早川・竹中・毛利が秀吉から処分されるのは当然であり、助命されたのは秀吉の温情でしょう。

 

 また、秀吉の軍令に違反する行為を咎め、正確な報告をした三目付福原・垣見・熊谷が秀吉から評価されるのも当然のことです。軍目付が軍令の遵守徹底を諸将にさせ、正確な戦況報告をしなければ、総司令官である秀吉は、正確な状況報告も受けられず、正しい指揮命令もできなくなり秀吉軍は崩壊します。

 

 そして、軍目付には秀吉の裁定に関与する権限はありません。秀吉の裁定に関与できるのは、秀吉の側に仕える奉行衆のみです。

 

 五月五日に三成は、入京します。裁定が下ったのは五月三日。なぜ、三成の入京を待てなかったのでしょうか。一月に起こった事件の裁定であり、しかもほとんど思案中としており、裁定を急ぐ必要はなかったはずです。

 

※ここから、「推測」です。↓

 

 ここからは推測ですが、おそらく四奉行は裁定が秀吉の意向に沿う形になるように、裁定前から協議を進めていたのでしょう。しかし、三成が帰国してこの協議に参加してしまうと、この協議を引っくり返されてしまう可能性があります。

 

 三成は、過去に秀吉に諫言を行い、サン・フェリペ号事件・二十六聖人殉教事件における秀吉の裁定を一部引っくり返した事があります。三成が帰京して協議に参加すれば、三成の性格上、黒田長政蜂須賀家政の弁護を行うため、秀吉に「諫言」しかねません。

 二十六聖人殉教事件では、秀吉の裁定を一部引っくり返した三成ですが、奉行衆は今回ばかりは本当に秀吉は激怒しており、三成の諫言は通らず、かえって秀吉の逆鱗に触れ粛清される危険性があると判断したのではないかと思われます

 

 二十六聖人殉教事件については、下記をご覧ください。↓

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 そして、特に玄以・長盛・三成・正家の四奉行は一体として連帯責任を負っており、三成が処分されれば、連座して他の奉行も処分を受けかねません。

 

 このため、三奉行と浅野長政は、三成の帰京を待たずに今回の事件の裁定を急ごうという判断があったのではないかと、推測します。

 

 この「推測」は、もとより史料に基づくものではなく、前後の史料の状況から推量したものにすぎませんので、結局推測に過ぎません。特にこれが「史実」に違いない、と述べている訳ではありませんので、ご注意願います。

 

 ↑「推測」終了です。

 

 以上から、今回の慶長の役黒田長政蜂須賀家政処分事件の裁定を行ったのは、秀吉自身であり、その裁定に関与したのは、奉行衆である前田玄以増田長盛長束正家浅野長政の四名で、福原長堯の書状によれば、特に増田長盛が中心になって動いていたことが分かります。

 

 七将襲撃事件の直前に、この慶長の役黒田長政蜂須賀家政処分事件が七将によって、この処分はおかしいと問題視され糾弾されるわけですが、秀吉死後の豊臣公議を代表する五大老五奉行のうち、奉行の前田玄以増田長盛長束正家浅野長政の四名は当時の秀吉の裁定に関与しており、また五大老のうち、宇喜多秀家及び、毛利秀元の元養子であった毛利秀元が、問題となっている十三将連署状の一番・二番目に連署しており、本来は処分されておかしくないにも関わらず、その罪は不問(おそらく、貴人であり実質豊臣御一門とみなされていたため)とされているのです。

 

 裁定に関与した四奉行(前田玄以・浅野長様・増田長盛長束正家)及び、その裁定によって罪を不問とされた大老宇喜多秀家及び毛利秀元の元養父である毛利輝元が、裁定のやり直しなどできる訳がないのです。彼らが裁定のやり直しができないのは、彼らの事情によるものであり、石田三成とは本来関係がありません。

 

 ところが、軍目付が石田三成の妹婿福原長堯であった事から、黒田長政蜂須賀家政をはじめとする七将は、慶長の役黒田長政蜂須賀家政処分事件を主導したのは、石田三成に違いないと誤解し、これが七将襲撃事件の一つの要因となります。

 

 江戸時代中期の二次史料である『常山紀談』になりますので必ずしも事実か分かりませんが、関ヶ原の戦い後に、捕縛された三成が大津の陣にあった時、「黒田長政が通った時には、長政は馬から下りて、「不幸によって、このようなおなりになってしまった。これを」と着ていた羽織を脱いで三成に着せたという。」(*4)という逸話があります。

 

 七将襲撃事件の時には黒田長政は、慶長の役黒田長政蜂須賀家政処分事件を主導したのは、石田三成だと誤解していたが、その後、その誤解が解けたため、三成に謝したという事でしょうか。 

 これもまた推測ですが、七将襲撃事件以降に、黒田長政が正室であった蜂須賀家政の妹を離縁し、家康の養女と再婚した事実も、家政に対する不信感(家政のせいで、縁戚である長政がとばっちりの処分を受けた)が長政に芽生えたという側面もあるのかもしれません。

 

 注

(*1)中野等 2017年、p353

(*2)笠谷和比古 2000年、p139~141

(*3)中野等 2017年、p353~354

(*4)湯浅常山 2011年(原文の完成は1770年)、p227

 

 

 参考文献

笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦-』文英堂、2000年所収)

中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

湯浅常山(訳注大津雄一・田口寛)『続 戦国武将逸話集 訳注『常山紀談』 巻八~十五』勉誠出版、2011年