古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成と甲賀と忍者

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 2017年8月26日付の河北新報によりますと、

 

青森県弘前市内で昨年秋に見つかった忍者屋敷に、戦国武将石田三成の子孫が居住していたことが25日、青森大忍者部の調査で分かった。同部は観光資源としての活用を呼び掛けており、全日空は11月、屋敷を含めた三成や忍者ゆかりの地を巡るツアーを始める予定。
 調査によると、関ケ原の戦い後、三成の次男重成が津軽地方に逃げ延び、杉山源吾と改名。宝暦5(1755)年の屋敷の居住者を記した地図から、杉山家の子孫である白川孫十郎が住んでいたことが判明した。
 実在した弘前藩の忍者集団「早道之者(はやみちのもの)」は重成の子の吉成によって結成されたことも分かった。杉山家は代々、早道之者を統率し、蝦夷地の調査や監視活動を指揮したとされ、屋敷は拠点として使用されていた可能性が高いという。」

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201708/20170826_23002.html

 

との記事があります。

 

 なぜ、石田三成の子孫が弘前藩の忍者集団を結成することになったのでしょうか?

 これに関連すると思われる事項を、白川亨氏の『石田三成とその一族』(新人物往来社、1997年)より、引用・紹介します。(ページは上記書籍の該当ページです。)

 

「石田家も、かつては近江守護大名・佐々木氏の配下にあり(『一向宗極楽寺系図』)、甲賀の諸族も石田氏同様に佐々木氏の配下にあった(『江州佐々木南北諸氏帳』)。甲賀の入り口に当たる野洲郡赤野井村(現・守山市石田町)は、石田一族が大永年間から地頭?として配されており、現在も石田町の半数近くは石田姓が住んでいる。」(p104)

  

 そして、三成は(元服後から)十八歳まで「武芸と兵法の修業」のために、甲賀の多喜家に預けられたと、白川亨氏は『極楽寺系図』や『霊牌日鑑』より述べています。

 三成の祖母(祖父為広の妻)は甲賀の多喜家の出であり、そのため三成は多喜家に預けられ、甲賀独自の武芸と兵法の習得を図ったのであろうとしています。(p106)

 

 従来、三成が秀吉に仕官した時期については、天正元(1573)年~天正二(1574)年までの秀吉の横山城代か小谷城主の頃(三成十四~十五歳の頃)の説が多いですが、白川氏は当時の家臣知行配分記録には、石田左吉の名は載っておらず、また三成嫡男宗享禅師(重家)の遺した『霊牌日鑑』には、三成は十八歳(天正五(1577)年)の時、姫路にいる秀吉に仕官したと記録されている、としています。(p106)

 

 また、三成の次男杉山源吾重成(「杉山」姓は関ヶ原の戦い後に、津軽に亡命した際に名乗った姓)は、戦前は秀頼の小姓として「杉山の郷」を拝領していたという杉山家の伝承があり、この杉山の郷とは、現在の滋賀県甲賀郡信楽町大字杉山に当たると白川氏はしています。この甲賀の地は隣接する伊賀の地と同様に忍者の里として知られています。(p104・106)

 

 以上のように、三成の祖母は甲賀の多喜家の出であり、三成はその多喜家の元で武芸と兵法の修業に励みました。また、三成の次男重成が秀頼の小姓として拝領したのも甲賀の杉山の郷でした。

 こうした石田家と甲賀忍者との関係が三成の子孫にも受け継がれ、弘前藩の忍者集団を結成するに至ったのだと考えられます。