古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

津軽家と石田三成の次男重成、三女辰姫

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1.津軽為信津軽独立戦争

 

 陸奥戦国大名津軽為信は、南部氏の支族でしたが、津軽氏側の史料によると、元亀二(1571)年から、津軽において南部氏から独立をはかるための戦いを始めます。(*1)そして、天正十六(1588)年頃に津軽為信は、津軽地方の一統をほぼ完了します。(*2)

 これに対し、南部氏の記録によれば、為信が南部領(津軽)を「横領」したのは、天正十八(1590)年であるとしていますが(*3)、「津軽の記録では、官選史書のみならず、民間の記録である『永禄日記』まで、為信の津軽一統戦の開始を、元亀二(一五七一)年の大渕ヶ鼻・石川城攻略戦であるとし、そのとき南部信直の父・石川(南部)高信(津軽郡代)が自害したことになって」(*4)おり、これらの記述の流れが自然かと思われます。

 

 天正十五(1587)年12月、大名同士の「私闘」を禁止する関東奥惣無事令が豊臣政権によって出されます。

 この頃の豊臣家津軽為信評価について、白川亨氏は以下のように述べています。

「当時、中央に於ける為信評価を知る上で最も参考になるのが、天正十七年(筆者注1589年)八月二十日付の、前田利家から南部信直宛の書状である。この書状の中で前田利家は、この年に発生した秋田安東氏の内紛について触れ、この合戦を豊臣政権は私戦と見做し、「惣無事令」違反として、秋田安東氏に対して討伐軍を派遣し、上様(秀吉)自らが出陣し、秋田は豊臣の直轄領にするつもりであると述べている。そして、利家はなおも南部氏の内紛に言及し、津軽が遠謀を企てていることを述べ、「反逆の族(やから)」と為信を認定している。

 すなわち、「津軽=為信」は「惣無事令」違反者として認識されており、秀吉が秋田に出陣したときには、南部氏の永年にわたる恨みが晴らされるであろう、と述べている。

 すなわち、そのときの段階まで、中央政権としては為信を逆賊と認定し、征伐の対象者としていたのである。その陰には当然のこととして南部氏の前田利家を介しての活発な中央政界工作があり、為信を「反逆の族」と認識させることに成功していたのである。」(*5)

 

 このままいけば津軽為信は、秀吉政権によって惣無事令違反の(南部氏に対する)反乱軍として滅ぼされるところでしたが、同じ時期に為信もまた秀吉政権に対する必死の中央政界工作を行うことになります。

 

2.津軽為信の中央政界工作と石田三成

 

 為信は天正十五(1587)年頃から自ら上洛を図り、秀吉政権と接触しようとします。

 しかし、天正十五年六月には南部信直に妨げられ、天正十六(1588)年一月には秋田(安東)実季に妨げられて上洛を断念しています。(『封代事実秘苑』、『永禄日記』、『津軽一統志』)(*6)

 

 天正十七(1589)年に至り、為信は秋田安東氏との和解に成功し、家臣の八木橋備中を上洛させ、石田三成を頼って秀吉と誼を通じることに成功しました。

 これは天正十七年十二月二十四日付の南部右京亮(=津軽為信)宛豊臣秀吉朱印状で分かります。この書状の内容は、為信が家臣(八木橋備中)を通じて秀吉に献上した黄鷹・青鷹への秀吉からの礼状となっています。(*7)

 

 なお、天正十七年に起こった北羽の安東家に起こった、檜山(能代)城の実季(さねすえ)と、湊(秋田)城の湊通季(みちすえ)との抗争において、安東実季と津軽為信が結んだこと(これが、為信は秋田安東氏との和解に成功した理由と考えられます)、惣無事令違反を問われた安東実季が、石田三成を通じた中央政治工作を行い、三成の尽力もあり本領安堵を許されたことについては、以下のエントリーに書きました。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 その翌年の天正十八(1590)年には、為信は自ら僅か十八騎で上洛し、公家の近衛前久に謁見し、その猶子として認められます。続いて小田原出陣途上にある秀吉の後を追い、沼津において三成の斡旋により秀吉に謁見し、津軽三郡の所領安堵を受けています。

 この時、為信の長男・平太郎(後の宮内大夫信建)は、三成を烏帽子親として元服します。(*8)

 このように、津軽家が(南部家に対する反乱軍扱い・惣無事令違反として、豊臣家に滅ぼされることなく)独立した一大名として津軽三郡の所領安堵を許されたのは、石田三成の尽力があったためであり、この事が後に津軽家が三成の次男重成を保護し、三女辰姫を為信三男信牧の嫁として迎えた背景となります。

 

3.関ヶ原の合戦時の津軽

 

 慶長五(1600)年の天下分け目の戦いの際には、為信は嫡男の信建に兵三百を(西軍の)大坂城の守備に送り、自らは三男信牧とともに東軍に参加し、大垣城攻めに参加しています。兄弟親子が東軍・西軍に分かれた真田家のように、津軽家もまた家を東西に分けて、自らの家の生き残りをはかったのでした。

 九月十五日に関ヶ原の合戦が行われ、西軍敗戦の報に接した信健は、九月十七日の夜、当時大坂城にいた三成次男・隼人正重成に自らの家臣を付けて日本海経由で津軽に亡命させます。(*9)重成は当時十二歳。

 慶長十二(1607)年十月十三日(津軽の記録による。白川亨氏は位牌の記載から慶長十一(1606)年十二月二十日としています。)信建は三十四(または三十三)歳で死去します。慶長十二(1606)年十二月五日、為信もまた五十八歳の生涯を閉じます。(*10)

 為信次男の信堅は慶長二(1597)年に早世しており、為信死後の津軽家の家督を巡って、為信三男信枚擁立派と信建長男熊千代擁立派に家中が分かれ、御家騒動に発展しますが(津軽騒動)、徳川幕府の裁定により信枚の相続が許されます。信枚は熊千代擁立派の家臣の粛清を行います。

 信建長男熊千代の相続が、徳川幕府に認められなかったのは、関ヶ原の戦い時に熊千代の父信建が大坂城に在城しており、西軍寄りの行動をしたためだ、ともされます。

 

4.津軽における石田三成の子孫

 

 関ヶ原合戦後に津軽に亡命した三成次男、隼人正重成は杉山源吾と名を変えます。なぜ杉山姓を名乗ったかの理由については、以下のエントリーで書きました。↓

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 杉山源吾は寛永十八(1641)年、五十三歳で亡くなりました。その子杉山八兵衛吉成は、津軽家に出仕し重臣として仕え、その子孫は執政(家老)を輩出させ、藩政の中核に参画することになります。その末裔は現在まで続いています。(*11)

 

 石田三成の三女辰姫は、関ヶ原合戦の慶長五(1600)年当時、9歳でした。秀吉の死後、三成は辰姫を秀吉正室の北政所の養女とします。関ヶ原合戦の時に、辰姫は京都新城の北政所の側にいたと考えられます。

 慶長十五(1610)年、北政所の侍女孝蔵主が随行して辰姫を津軽信枚に嫁がせました。辰姫を受け入れた信牧は、本領津軽ではなく、津軽領の飛び地である上野国大館の分領に辰姫を住まわせることになります。

 しかし、その一年後または三年後である慶長十六(1611)年または慶長十八(1614)年、徳川家康の養女である満天姫が信牧に正室として信牧に輿入れします。この輿入れには、徳川家の宗教顧問である天海僧正の進言があったとされます。これにより、正室の座を辰姫は満天姫に奪われ、側室となります。

 満天姫は輿入れの際に、今に残る徳川家康が描かせた「関ヶ原合戦屏風」を嫁入り道具に懇願し、津軽に運ばせたといいます。

 元和五(1619)年辰姫は、後に津軽藩三代藩主となる信義(幼名平蔵)を生みます。その四年後の元和九(1623)年、辰姫は津軽の地を踏むことなく、大館で僅か三十二歳の生涯を閉じることになります。(*12)

 

 注

(*1)白川亨 2000年、p36

(*2)白川亨 2000年、p38

(*3)白川亨 2000年、p48

(*4)白川亨 2000年、p43

(*5)白川亨 1997年、p98~99

(*6)白川亨 1997年、p99

(*7)白川亨 1997年、p99

(*8)白川亨 1997年、p99~100

(*9)白川亨 1997年、p100

(*10)白川亨 1997年、p101~102

(*11)白川亨 1997年、p118~127

(*12)白川亨 1997年、p195~207

 

 参考文献

白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年

白川亨『奥羽・津軽一族』新人物往来社、2000年