古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

佐竹義宣と石田三成について③~義宣、七将襲撃事件で三成の危急を救う

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※以前のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

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 慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が死去し、その翌日の四日、石田三成は、加藤清正ら七将の襲撃を受けます。三成は大坂から伏見に逃げ、伏見城の治部少丸に籠りますが、徳川家康の「仲裁」を受けて、三成が閏三月十日佐和山に隠居することで事件は決着します。

 

(七将襲撃事件の黒幕は、徳川家康その人であり、当時からそのように認識されていたことについては、下記で書きました。↓)

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 石田三成が大坂から伏見へ逃げる際に、以前より親密な関係にある佐竹義宣の助力がありました。渡部景一氏の『佐竹物語』より引用します。

 

「『佐竹義宣譜』によると、義宣が三日の夜(筆者注:諸書では、七将襲撃事件は閏三月四日となっていますが、ここでは三日となっています。)に伏見の屋敷で急報を受けたとき、相馬義胤と一門東義久が同席していた。急遽二人を大坂に走らせ、自分もあとから馬で駆けつけた。義宣は、三成をひそかに女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃したが(筆者注:三成はこの後に伏見に移り、伏見城内の治部少丸に籠ります。)、それでも危険を感じて、伏見の家康の屋敷に保護を求めた。(筆者注:義宣以外にも、大谷吉継北政所が家康に「仲裁」を求めていますが、これは家康自身がこの襲撃事件の首謀者であることを暗に理解した上での、互いに知らぬふりをした茶番劇です。)それほど緊迫した情勢であったと思える。

 まもなく七将が追いついて、三成の引渡しを求めたが、家康にさとされ、危期をまぬがれた。家康はまもなく、三成の居城佐和山城に届け、騒動の責任をとらせて職掌をとき、蟄居を命じた。三成はこれで中央政界から失脚した。

 この事件直後、古田織部重勝が義宣を訪ねて、家康に釈明するよう忠告した。重勝は松坂の城主で、義宣の茶の湯の師匠である。

 そのとき義宣がいうには、自分はもとより諸将にうらみはない。三成が公命にそむいたこともないのに、諸将は私情で三成を討とうとする。自分はかつて三成に恩を受けた。今かれの危急をみて、命にかけて救っただけである。このことを家康に謝すのがよいとすれば、御辺よきにはかられよと答えた。

 重勝は、義宣のとりなし方を、茶友の細川忠興(筆者注:細川忠興は、七将襲撃事件の七将の一人です。)に頼んだ。忠興の話を聞いた家康は、義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義というべきである。自分には異存はないと答えたという。

 その後、義宣は、家康を伏見の向島の邸に訪ねて、右の事情を釈明した。

 久保田藩士山方泰純の『秋藩紀年』に「閏四月、義宣公故有テ神君(家康)ノ向島ノ亭江御出、神君モ又、秀忠公御名代ニシテ義宣公ノ御殿ニ御出」とあるのはこのことを指している。ただし、閏四月とあるのは、閏三月の誤りである。また、秀忠が義宣を訪ねたことは、『佐竹家譜』にもあるが、当時秀忠は江戸にあったはずであるから、誤伝ではないかと思われる。あるいは使者の派遣であったものか。」(渡部景一『佐竹物語』無明舎出版、1980年)

 

 佐竹義宣が三成の危急を救う事に、なぜ家康への釈明が必要だと重勝は考えたのでしょうか。なぜ、家康への取り成しに七将襲撃事件の襲撃者の一人である細川忠興が登場してくるのでしょうか。

 これらの記述からも、徳川家康が七将襲撃事件における、善意の中立的な仲裁者ということはありえず、事件の首謀者その人であり、当時においても皆からそのように認識されていたことが分かります。