古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成の次女 小石殿とその子孫①

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 石田三成の次女 小石殿とその子孫について、高澤等『戦国武将 敗者の子孫たち』洋泉社(歴史新書y)2012年より引用します。

 

「(筆者注:石田三成の)次女は小石殿といい、上杉家臣岡重政に嫁いでいる。岡重政は元々蒲生家の家臣であり上杉家に仕えたのは一時的で、程なく蒲生家に帰参したようである。そしてこの小石殿が伝えた血脈が、石田三成の血筋として象徴的な存在となってゆくことになる。

 岡重政は若狭国守護武田信豊の曾孫にあたる血脈を持っている。岡氏は急激に膨張した蒲生家の中では譜代衆という位置付けになり、重政は津川城(新潟県東蒲原郡阿賀町)二万石を預かり、藩政にも携わる重臣だった。

 蒲生家は近江日野六万石から十年余りで会津九十二万石に膨れあがり、家臣団は戦国時代を生き抜いた浪人から召し抱えられた者も多く、統制が難しい集団だったようである。そしてやがてそうした家臣団の亀裂が蒲生家の屋台骨を大きく揺さぶることになるのである。それは信長もその才を認め次女冬姫を嫁がせた氏郷が、文禄四年(一五九五)に死去して後のことである。

 

 蒲生氏郷の後を継いだ秀行は、秀吉の仲介によって三女振姫と婚約している。しかし、秀行はまだ十三歳という若年であったことであったことから、家臣団の内紛を抑えきれなかった。氏郷の死去と共に世にいう蒲生騒動が起き、三年後の慶長三年(一五九八)正月に宇都宮十八万石に大減封処分を受けることになる。当然膨れあがっていた家臣団も大幅に削減されることとなった。婚約していた振姫が輿入れしたのは、その年の十一月のことである。

 蒲生家が宇都宮へ転封してわずか二年後に関ヶ原の戦いが起き、蒲生家の後に会津を所領としていた上杉家が関ヶ原の責を負って減封の上で米沢に移ると、蒲生家は再び会津に六十万石で返り咲くことになる。幼かった秀行も、この時ようやく十九歳の青年武将になっていた。

 蒲生秀行は家康の娘振姫を妻にし、蒲生家はこのまま安泰かと誰しもが思ったことだろう。しかし家中では再び主導権争いが起こるのであろう。その一方が石田三成の次女を妻にしていた岡重政であり、もう一方はかつて柴田勝家に仕えて武名高い蒲生郷成であった。

 この時の内紛では岡重政派が優勢となり、蒲生郷成派の多くが出奔したことで騒動が治まった。それでも主君秀行の心労は大きかっただろう。続いて慶長十六年(一六一一)に起きた会津地震で領内は壊滅的な大打撃を受け、さらなる心労が重なった秀行はその翌年、わずか三十歳で死去してしまうのである。

 

 この非常時に地震後の復興政策で奮闘していた岡重政と新藩主となった忠郷の母振姫が対立することとなり、振姫の勘気に触れた重政は家康に訴えられることになるのである。

 岡重政は慶長十八(一六一三)、家康から駿府に呼び出され死罪となった。三成の次女小石殿は父に続いて夫も徳川家の手によって非業の最期を遂げたことになる。

 重政の死後、一家は蒲生家で重政の同僚であった町田幸和に保護された。しかし町野幸和もその後の蒲生家の内紛によって失脚したため、三成の娘も家族や町野家と共に会津を離れ江戸に出たという。」(p124~126)

 

メモ:

 岡重政は、北政所の執事である孝蔵主の義理の甥(重政の姉が孝蔵主の甥・河副久左衛門尉の妻)にあたり、蒲生騒動の際に他の岡一族の多くと共に上杉景勝の家臣に転じます。そして、慶長四(一五九九)八月、会津に帰国する直江兼続に託され、北の政所のもとから、三成次女の小石殿が重政に嫁ぐことになります。(小石殿は、北政所の侍女をつとめています。)

 石田三成は、蒲生騒動の時に徳川家康と共に調停しようとはかりますが、秀吉の判断は秀行の家中取締不始末を理由として、慶長三(一五九八)年会津九十二石から宇都宮十八万石へと減転封する事でした。これは、いつ争乱が起こるか分からない不穏の地の抑えである、奥州の前線基地・会津の大名としては、若年であり家中騒動を起こしてしまう秀行では心許なかったためであり、減転封としたのは秀吉なりの判断でしょう。

 減転封となって家中をリストラしないといけない蒲生家臣団を引き取ったのが石田三成でした。また、中には後を受けて会津の大名となった上杉景勝の家臣となった、蒲生家旧家臣もあり、岡重政もそのうちの一人でした。

 関ヶ原戦後、岡重政は蒲生家に復帰しました。そして蒲生秀行から信頼され、重臣として重用されます。それは、岡重政自身の才能もあるのでしょうが、蒲生家苦難の時に調停を図り、減封後は家臣団を引き取った石田三成に対する蒲生秀行の感謝の念もあったかもしれません。

 三成と蒲生家は親密な仲であり、三成は蒲生家の行く末を気遣っていました。例えば三成が蒲生氏郷を暗殺した、三成が蒲生秀行の減転封を謀った、などという俗説はありえないことです。上記のように、三成と蒲生家・上杉家・北政所・孝蔵主とは深い結びつきにありました。

 

 秀行死後、岡重政は、秀行の嫁(家康の娘)振姫と対立しました。会津地震後寺社の再建を優先する振姫と、民生優先を優先したい重政との対立でした。振姫の訴えにより、岡重政は駿府に召喚され家康から切腹を命令されます。

 徳川の罪人である石田三成の娘婿である岡重政を蒲生秀行は重臣として重用していた事を家康も知っていたのでしょう。この処遇を大目に見てやって黙認したにも関わらず、自分の娘に楯突くとは家康の憤懣もやることなかったという理由だと思われます。

 この後、岡重政・小石殿夫妻の子孫に更に数奇な運命が起こることになります。

 次回に続きます。

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 参考文献

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

高澤等『戦国武将 敗者の子孫たち』洋泉社(歴史新書y)2012年