古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の二十九 宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継・小西行長は「北政所派」①

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 関ヶ原の戦いにおける西軍の中核となった宇喜多秀家石田三成大谷吉継小西行長北政所と親しい関係にありました。

 

 宇喜多秀家は、秀吉と北政所の養女豪姫の婿です。養女といっても、戦国時代によくある政略結婚の時に表向きのものではなく、前田利家の四女として生まれた豪姫が、子どものいない秀吉と北政所の養女として引き取られたのは彼女が数え年2歳であり、夫婦が幼少の頃から育てられました。

 宇喜多秀家が豪姫と婚約したのは天正十(1582)年の頃、秀家が十一歳、豪姫は九歳の時です。年少の頃から、秀家は秀吉の婿として羽柴一族の一員として扱われていました。

 

 大谷吉継の母東殿は北政所の侍女で、北政所の取次役等として重責を担い、北政所の侍女頭の孝蔵主に次ぐ地位にあったとされます。例えば、「天正十四(筆者注:西暦1586)年に九州の大友宗麟大坂城を訪ねたとき、孝蔵主とともに東殿の名をおぼえて国元に報じている」(*1)文書があります。

 また、大谷吉継の妹コヤも秀吉夫妻に侍女として仕えています。(*2)

 東殿は、秀吉没後、北政所が京都へ移り住んだ際にも随従したようです。関ヶ原の戦い後、東殿とコヤが拘禁された風聞が京都市中に流れますが、後に東殿は大坂城淀殿)に保護されることになったのが梵舜の『舜旧記』から分かります。

 ちなみに、後の大坂の陣で活躍する真田信繁正室大谷吉継の娘であり、吉継の養子大学も大坂の陣で戦い、ともに戦死しています。(*3)

 

 小西行長が、対明講和交渉の件で秀吉の怒りを買いしばらく政庁から遠ざけられた際、北政所は幾人かの人を派遣して、小西行長夫人を慰撫したとされます。(*4)

 行長の母ワクサ(洗礼名マグダレナ)もまた北政所の侍女であり、このような関係から北政所から行長の元へ慰問の使者が訪れたのだと思われます。

 

 石田三成の次女小石殿も北政所の侍女を務め、その後、岡重政は、北政所の侍女頭・孝蔵主の義理の甥である岡重政に嫁いでいます。

 三女辰姫は秀吉死後、北政所の養女となり、関ヶ原の戦い以後も北政所の保護を受け、慶長十五(1610)年頃、弘前藩津軽信枚に嫁ぐことになります。

 

 このように、西軍の主要な人物である、宇喜多秀家石田三成大谷吉継小西行長北政所と親密な関係にあり、彼らは「北政所派」とも呼べる存在でした。

 

 従来の説で、石田三成ら西軍諸将を「淀殿派」、家康派を「北政所派」とするような説がありましたが、こうした説は根拠を欠くものであり、むしろ西軍の主要人物は北政所と深い結びつきにあったことが分かります。また、次回に詳述しますが関ヶ原の戦いの時には、北政所派対淀殿派の対立というものは、そもそも存在しません。

 

 次回は、北政所と西軍諸将・淀殿との関係について記します。

※次回のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

  注

(*1)跡部信 2016年、p284

(*2)跡部信 2016年、p284

(*3)跡部信 2016年、p285

(*4)跡部信 2016年、p242

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇戎光祥出版、2016年

白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年

外岡慎一郎『シリーズ・実像に迫る002 大谷吉継戎光祥出版、2016年

渡邊大門『宇喜多秀家と豊臣政権 秀吉に翻弄された流転の人生』洋泉社、2018年