古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について①

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

 これより、石田三成と島津家、特に島津義弘との「取次」「指南」関係について記述します。これらの記述を通して、なぜ島津義弘関ヶ原の戦いにおいて西軍として戦うことになったのかをみていきたいと思います。 

 

 天正十四(1586)年、石田三成が堺奉行に就任してより、三成は九州の島津家との交渉に加わるようになります。

 豊臣秀吉は、大友宗麟の救援要請を受けて九州の大友家と島津家の戦いの仲裁に乗り出しますが、秀吉の示した「国分け案」は島津家にとって不利なものであったため、島津義久はこの国分け案を拒否します。義久は、秀吉に抗う意思はない事を告げますが、秀吉はこれを認め、天正十五年三月一日、島津征伐のため二十万人の大軍をもって大坂を出陣します。三成も秀吉に従い九州へ向かいます。

 秀吉の大軍に島津軍はなすすべく敗退し、五月八日薩摩川内泰平寺に陣を置いた秀吉の元に、義久が剃髪して訪れ降伏します。(*1)

 島津家の降伏を受け、三成は、義久の三女の亀寿姫を人質として受け取り、また、島津家家臣大口城主新納忠元が未だ抵抗していたため、島津家の家臣伊集院忠棟とともに説得に赴き、降伏させています。(*2) 

「これ以後、三成は政権下で島津家との関係を担い、「指南」というかたちで島津家中との深い関わりをもつことになり」(*3)ます。

 

 天正十五(1587)年六月、島津義久が上洛します(*4)が、島津家の「取次」としては、石田三成細川幽斎があたります。(山本博文氏の『島津義弘の賭け』には、「「樺山紹剣自記」には、義久らが上洛した記述につづけ、「京都之取次は石田殿・細川幽斎、この両人にて何事も取合わせ候」と書いている。」(*5)とあります。)

義久が上洛した時の様子について、今井林太郎氏が『石田三成』で以下のように述べています。

 

「さて義久は上京のために鹿児島をたち、途中筥崎(筆者注:福岡県)で秀吉の催した茶会に招かれ、ついで赤間ヶ関(筆者注:山口県)に着いた。一足さきに赤間ヶ関城に来ていた三成は、義久を出迎え、人質として薩摩から海路この地についた娘亀寿を落合わせた。義久の一行は高野山の木食上人を案内者として赤間ヶ関から瀬戸内海を航し、七月十日和泉(大阪府)の堺に到着した。堺の代官であった三成は、多くの小船を用意させて義久の船を出迎え、接待に努めた。

 義久は三成のとりなしで大阪城に赴いて秀吉に謁したが、秀吉は義久を歓待し、その在京料として一万石の土地を与えた。義久の滞京は一年余りに及んだが、その間三成は細川幽斎とともに義久のためになにかと面倒を見た。幽斎が十六年五月に新納忠元に与えた書簡のなかで、義久の近況を報告し、義久の滞京が久しくなり、窮屈であろうと思われるが、万事三成と相談して宜しく取り計らい、その中帰国できるようにしたい。また(筆者注:義久弟の)義弘上阪の際には、三成とともに才覚して首尾よく取り繕うであろうと述べている。義弘は六月上阪して、秀吉に謁し、その間屢々三成と会合して相談するところがあった。その結果義久も漸く帰国の許可がおり、九月十四日大阪を出発したが、そのとき質子亀寿も同行して帰ることを許された。これは当時の情勢としては非常な恩恵であって、三成の斡旋に負うところが多いのはいうまでもない。またこのとき三成の父正継は三成の代官として堺にあったので、義弘らの一行を厚くもてなした。義久は三成及び幽斎の尽力を深く感謝し、両人に対して起請文を捧げ、たとえ逆心の輩があってもそれに与せず、秀吉に対して毛頭別心なく忠功を励むこと、両人の御芳志は向後決して忘却しないし、御両人も御見捨てなきようお願いしたいこと、上京以来随分と心がけて行動したつもりであるが、田舎者のこととて不調法なこともあったであろうから、それについては何度でも御指南を仰ぎたいこと、などを誓った。これ以後義久及び義弘は三成を深く信頼し、領内の政治についても三成の意見を求め、慶長三年五月には義久・三成連署で、薩摩から大阪へ廻送した米の販売方法、販売代金の送金、呉服方の仕入れ方法、摂津・播磨両国にある島津氏の領地の免目録帳、飯米、塩、味噌、炭、薪、油等の台所方の入用についての小払帳目録の作製など、藩の財政処理に関する事項を定めている程である。」(*6)

 

 天正十六(1588)年五月二十三日、島津義弘が上坂のため堺に着津し、三成が応接し、ともに島津家の取次をしていた細川幽斎の帰還を待って、六月二日義弘は上坂、四日に秀吉への拝謁を行います。その後、島津義弘従五位下・侍従に叙任され、さらに従四位下に叙位され、豊臣姓・羽柴苗字を許されます。(*7)

 

 天正十六(1588)七月五日付で、秀吉は島津義久に充て、摂津・播磨国内で一万石の領知を「在京賄料」として与えます。((*5)の在京料の記述は、正確にはこの期日の話になると思われます。)与える領知の内容については、三成とその配下等が踏査・年貢高の算出等を行い、打ち渡しには三成の細かい配慮があったとされます。(*8)

 

 ②へ続きます。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 注

(*1)中野等 2017年、p45~51

(*2)石田世一 2016年、p165

(*3)中野等 2017年、p51

(*4)石田世一 2016年、p165

(*5)山本博文 2001年、p53

(*6)今井林太郎 1961年 p25~26

(*7)中野等 2017年、p61~62

(*8)中野等 2017年、p63~64

 

 参考文献

石田世一「第十一章 島津義弘 敵中突破で島津家を守り抜いた武将」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)

今井林太郎『人物叢書 新装版 石田三成吉川弘文館、1961年(新装版1988年)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

山本博文島津義弘』中公文庫、2001年(1997年初出)