古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について⑦-庄内の乱

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※ 前回のエントリーです。↓

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 慶長四(1599)年三月九日、伏見で島津忠恒が、宿老の伊集院幸侃を殺害する事件が起こります。

 幸侃は、石田三成らの豊臣政権の指南を受けつつ、島津領国の刷新に務めてきましたが、それだけに豊臣政権の押し付ける変化に反発していた国元の島津家臣団の憎悪もまた幸侃に集まり、太閤検地においては八万石もの知行を許され、家臣でありながら分を超えた権勢を振るう幸侃に対する、忠恒の不満がここに極まった事件といえるでしょう。

 忠恒の幸侃殺害は、豊臣政権の同意をえたものではなく、三成は激怒しますが、「結局、幸侃の生害自体は、忠恒の「短慮」によるものとして処理され、三成も穏便に済ませることとした。義久(龍伯)は、国元から謝罪の使者を三成のもとに派遣し(『薩藩旧記雑録後編』三-七〇三号)、一方の三成も島津家との密接な関係の継続を望み、家中の桜木平右衛門尉を差し下している(『薩藩旧記雑録後編』三-七六二号。)」(*1)

 一方で、閏三月三日に義久は、「伊集院忠真(筆者注:幸侃の子)の領地庄内(宮崎県都城市)との通交を行わない、とする有力家臣たちの起請文をとっている。これをみても。やはり忠恒の行動に(筆者注:義久が)なんらかの示唆を与えていると考えられる。」(*2)

 同年閏三月四日、七将襲撃事件が起こり、この後三成は失脚、佐和山へ隠遁することになり、事件処理への影響力を失います。

 庄内への通行を禁止され、また領地の境目へ放火された忠真は、これを義久の忠真成敗の意思とみなし、都城に立て籠もることになります。

 義久は、伊集院氏の砦を取り囲むように近辺の外城に信頼できる家臣を配置し、忠真の領地を封鎖します。

「義久はこの年六十七歳になる。自身で軍勢をひきいるには高齢にすぎる。そのため、体調が悪いことを理由に伏見に飛脚をつかわし、忠恒に帰国を許してくれるよう要請した。家康は忠恒の帰国願いをこころよく了承し、忠恒に伊集院忠真討伐を許した。当時、豊臣政権を動かしていた家康の許可をえたことで、庄内の乱は島津家内部の争いにとどまらず、「公議」が支援する公けの戦いとなった。佐土原城主の島津豊久にも暇が与えられ、庄内に出陣することになった。」(*3)

 慶長四(1599)年六月三日、忠恒は鹿児島を出陣し、伊集院忠真討伐の戦い(庄内の乱)がはじまります。

 一方、家康は九州の諸大名に援軍派遣を要請します。しかし、「これらの軍勢派遣は、島津氏にとってはありがた迷惑な部分もあった。家臣の反逆を討つのに他国の軍勢の手を借りたくはなかったし、他国兵に領地を荒らされたくもない。そこで援軍は固辞し、ごく一部大名の軍勢しか島津領に入らなかった。」(*4)

「なぜ家康は、島津氏が願ったわけでもない援軍派遣にこれほど熱意を示したのであろうか。島津氏へ過分なほどの厚意を示し、自らの影響下においておきたいという気持ちはあっただろう。また、豊臣体制の代表者として、国内の秩序を守る義務もあった。しかし、それらだけではないと思う。

 これは、推測になるが、家康は自らの手で軍勢動員をしてみたかったのではないだろうか。」(*5)と、山本博文氏は述べています。

 戦いは、忠真側の抵抗も激しく、島津軍は苦戦し、戦況は長引きますが、翌年の慶長五年三月二日には、忠真の居城である都城を残して他の城は開城しました。この間、家康による調停があり、義久・忠恒と忠真は家康の調停を受け入れ、忠真は都城を退去します。忠真は、二万石を与えられ頴娃(えの)に移されることになります。これにより、庄内の乱は終結します。

 そののちの慶長七(1602)年七月、忠恒の命により忠真は討たれ、母と弟達も同日殺害されました。こうして伊集院一族はことごとく粛清されることになります。

 次回は、関ヶ原の戦い前後の島津家の動きについて検討します。

 

(平成30年11月23日追記)

 忠恒は、幸侃殺害後、高雄に謹慎しますが慶長四年(1599)閏三月六日以前に謹慎が解け、高雄から伏見に帰宅しています。

 従来の通説では、この謹慎解除に徳川家康の尽力があったという説がありますが、光成準治氏は、以下のように述べてこの説を否定しています。

「この帰宅(筆者注:忠恒の帰宅)の経緯については、四月十五日付け種子島久時宛義弘書状(「種子島家譜」)に「又八郎(島津忠恒)殿御近辺において幸侃(伊集院忠棟)成敗候の間、その恐れのため一節高雄へ堪忍候、然ると雖も、徳善院(前田玄以)・増田殿・長束殿御談合を以て、寺沢殿・小西殿・立花殿迎え御越候て、又八郎(島津忠恒)殿伏見へ帰宅候」とある。

 これによると、五奉行のうち、失脚した三成は当然のこととして、家康と親しかった浅野長政を除く前田・増田・長束の三人の裁定によって、忠恒の責任が不問とされたこと、帰宅の迎えに寺沢正成・小西行長立花宗茂という三成と親しかった者が選ばれていることがわかる。つまり、忠恒の謹慎解除は家康の尽力であるという通説は否定される。」(光成準治関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』角川ソフィア文庫、2018年(初出2009年)、p320~321)

 これに対して、桐野作人氏は、この説に対して以下のように述べて疑問を呈しています。

「新しい史料による興味深い新解釈だが、三成がこの一件に激怒したことだけは間違いないし(三-六九四号)、三成と親しい大名たちが忠恒を庇護したからといって、それを三成の主導権とは同一視できない。忠恒を迎えに行った三人のうち行長と宗茂は、忠恒にとっては朝鮮陣での一種の戦友で苦労を共にした仲間だったし、広高(筆者注:正成)に至っては秀吉死後、急速に家康に急接近している。三人ともこの時点では必ずしも三成派とはいえない。それに事件当時、三成はまだ失脚しておらず、前田利家も健在だった。だから、豊臣「公議」は辛うじて一体性を保持しており、この時点では家康と三成の対立を必要以上に強調する必要はないのではないか。むしろ、三成と三奉行の違いが注目される。

 三成はたとえ島津氏といえども、御朱印衆殺害は秀吉に対する反逆同然なので厳重に処罰すべきだという原理主義の立場に立ち、三奉行は西国の有力大名である処罰すれば、その反動が大きいと判断して穏当な裁定を下し、家康も三成の主導権を削ぎつつ、島津氏にも恩が売れるなら、三奉行の現実主義的な裁定に与して、とくに異を唱えなかったとも考えられるだろう。」(桐野作人『関ヶ原 島津退き口』学研M文庫、2013年、p39~40)としていますが、三成の「島津家の取次」という立場を考慮にいれていない見解であり、首肯できません。

 

 「取次」という立場は、まず取次先の大名の弁護役・取り成し役として動くのが職務ですので、「島津家の取次」である石田三成も、まず島津家の利益になるように島津家を弁護するように動くのが「原理原則」です。そして、このシリーズでこれまでもみてきたように三成は取次として島津家の弁護・擁護を続けてきました。では、三成が島津家の弁護を述べる相手は、誰かといえばそれは主君豊臣秀吉だった訳です。ところが、その秀吉が死去し、次期当主の秀頼もまだ幼く政治に関われないたため、島津家が不始末を行った場合に糾弾する主体が不在という状態になってしまいました。代行する立場の五大老は、別に島津家を糾弾して島津家から恨みを買うメリットはありませんので糾弾しない。とすれば豊臣公議として糾弾を代行するのは奉行衆しかない。だから一度は「豊臣公議」として「激怒」した姿勢は見せないといけません。

 かくして、三成は島津家を「豊臣公議」として糾弾しつつ、「取次」として弁護もしなければいけないという、ある種奇妙な苦しい役割を行わなければならなくなったといえます。ということで、そもそも取次としての三成の原理原則からいえば、「厳重に処罰すべきだという原理主義」の立場にたつことはありえません。

 

「忠恒を迎えに行った三人のうち行長と宗茂は、忠恒にとっては朝鮮陣での一種の戦友で苦労を共にした仲間だったし、広高に至っては秀吉死後、急速に家康に急接近している。三人ともこの時点では必ずしも三成派とはいえない。」と、桐野氏はしていますが、前述したように、そもそも三成自身が忠恒を擁立したのであり、そうした意味でも、三成は忠恒の後見人的存在として擁護しなければならない立場にあります。

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 三成と行長・広高とは、「等閑無き」親しい間柄として知られていますが、これは文禄四年五月二十四日に忠恒宛ての書状に書かれていることです。すなわち、

「そちらでの御陣替えなどについて、御談合なさりたいことがあれば、小西行長寺沢広高の両人に諸事御相談されたい。この両人は、私がとくに親しくしている者で、信頼してよいかと思います。貴所の面倒をみるようにと、こちらからも頼んでおきました」(山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年、p122)

 とある書状です、その三成が最も信頼して忠恒の面倒を見るように頼んでいた、両人(行長・広高)と宗茂が派遣されたところからも、三成の意図は明らかだと思われます。

「広高に至っては秀吉死後、急速に家康に急接近している。」と桐野氏は述べていますが、桐野氏が指摘しているとおり、事件が起こった当時三成は失脚しておらず行長・広高との結びつきが消えている訳ではありませんし、この時点では家康一人が豊臣公議を代表している訳ではありません。「三成派といえない」というのは妥当とはいえません。

 広高が、秀吉の死後「家康に急接近した」ように見えるのは、むしろ三成が失脚して以後、家康が、三成の取次・奉行としての地位を奪う形で、豊臣公議大老として九州の仕置(庄内の乱の処置を含む)を指示しだしてからの話です。三成を失脚させた後、豊臣公議での家康の発言力は他の大老・奉行と比して飛躍的に高まり、家康の命令が豊臣公議の命令同然となります。広高は豊臣公議の長崎奉行として、「豊臣公議大老家康」の命令を忠実にこなしていくなかで、家康に取り込まれていったという構図になります。

 

 また、ここで三成と三奉行の「違い」に注目する必要はないかと思われます。三成と親しい広高・行長・宗茂が派遣されている点で三成の意図は明らかで、三奉行が実際に派遣している訳ですので、三奉行と三成との間の判断決定に齟齬はないし、違いもありません。どちらかといえば、この三奉行の決定が、家康の干渉なしに行われたことで、(この時点では)家康の干渉を防いだことの方が重要かと思われます。

 

 しかし、三成の失脚後は、家康は庄内の乱に積極的に干渉し、概ね家康の出した仲裁条件で処理されますので、上記の謹慎解除は、奉行衆が家康に干渉させずに自らの裁定権を行使することができた最後のケースになったのではないでしょうか。

 家康の庄内の乱の処理は、島津家への取次権を奉行(石田三成)から奪取し、島津家に恩を売ることで懐柔し、交渉にあたった長崎奉行寺沢広高)も自らの影響下として組み込むという、徳川家の豊臣公議内での権力強化の一過程とみることができます。

 

 注

(*1)中野等 2017年、p400

(*2)山本博文 2001年、p231

(*3)山本博文 2001年、p237

(*4)山本博文 2001年、p246

(*5)山本博文 2001年、p231

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)