古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について⑧-義弘の伏見城入城はなぜ拒否された?

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 慶長五(1600)年四月二十七日に、庄内の乱の解決の礼を述べるため、島津義弘徳川家康を訪問します。この頃、会津征伐を計画していた徳川家康は、義弘に対して伏見城の留守番を要請します。(*1)

 当時の軍役では、戦地に近い方から軍役の負担義務が重くなりますので、九州の最南端の大名である島津義弘会津征伐の軍役を命じられず、比較的負担の低い伏見城の留守番を命じられたのは自然といえます。もっとも黒田長政のように九州の大名でも積極的に上杉征伐の軍役に参加した大名もいますが、長政は徳川家の養女を嫁に迎えていますので、積極的に参加する理由が長政にはあったのでしょう。逆にいえば、それほど島津家は徳川家から信頼されていなかったともいえます。いずれにしても、この時点での家康の要請は、豊臣公議を代表するものであり、義弘としてもこの要請は受けなければなりません。

 

 ところが、七月十二日(石田三成大谷吉継佐和山城に挙兵が京坂に知らされた日です)の島津義弘の「覚」によると、島津義弘伏見城在番のための入城を要請したところ、伏見城留守居鳥居元忠)から断られたということです。(*2)

 伏見城留守居鳥居元忠)が島津義弘の入城を断った理由としては、家康の島津家入城を指示した親書がなかったからだとされます。

 なぜ、書状がなかったのか?これは、正式に伏見城の在番体制が決定された際には、島津家の在番体制は立ち消えになってしまっていたからだと思われます。

 いつ、立ち消えになったのか?

 家康の要請を受けた義弘は多くの曲輪を預かるには現在の兵力では足りないとして、島津義久に対して兵の増強を要請しています。(*3)

 当時の軍役の基準は、上方の留守を守る大名は百石あたり一人の軍役を課されており(*4)、石高61万9千石の島津家は単純計算で6190人の軍役を課されている訳です。(無役分がありますので、実際にはもっと減りますが。)

 ところが、島津の軍勢は西軍決起後の八月の段階でも千人程度であり(*5)、この時点ではもっと少なったでしょう。つまりは、公議を代表する家康の軍役要請を島津家は果すことができなかったといえます。そして、義弘は義久に兵の増強を呼びかけるも、義久は無視したということになります。

 義久を「親家康派」と見る向きもありますが、義久は親家康派でも反家康派でもなく、家康が仕切る豊臣公議であろうが、奉行衆が仕切る豊臣公議であろうが、「公議」のいう事などなるべく聞きたくない、公議から距離を置きたい、軍役の負担などなるべくしたくない、という立場だったといえます。

 五月五日の忠恒宛義弘書状を最後に、義弘の書状からは伏見在番の件は話題となっていません(*6)

 年月日未詳の生駒親正宛と推測される義弘書状には、「「当地御番すべきの由、内府(徳川家康)様より仰せ付けられ候間、御発足の砌、誰然々御人衆仰せ付けられ候わば、その御下にて参り候て御番仕まるべきの由申し候と雖も、一途の書立条々を以て御意を得候うち、御返事これなく東国へ御下向候」と」(*7)あります。

 つまり、正式な家康の伏見城在番命令の書状はなく、これをもって家康の島津家に対する伏見城留守番要請は立ち消えになったということです。なぜ立ち消えになったかといえば、(家康が仕切っている)豊臣公議の要請する軍役の兵数を島津家は集めることができなかったからです。島津家内部の事情等は家康の預かり知らぬ(知っていたとしても、それは島津家内で処理すべきことです)ことですし、ただ、単に公議から島津家に課された軍役に見合う兵数を島津家がまったく揃えられなかった事実のみが残ります。家康が、この島津家の体たらくを見て「島津家頼りにならず、(徳川指導体制の)豊臣公議に忠節を尽くす気まったくなし」と思っても仕方ありません。

 そのうえ、今回の上杉征伐は、諸大名の反対の多い中で家康が強硬に押し切ったものです。直接家康に反対を述べられるような大名は少なく、内心反対の意思を持ちながら黙っている大名もいるでしょう。諸大名が今回の会津征伐の軍役にどれだけ貢献するかは、家康にとって自分(家康)に対する賛成派なのか、反対派なのかを焙り出す絶好の機会でした。

 これに対して、義久が会津征伐に賛成だったか、反対だったかは不明です、というより全くの無関心というのが一番近い立場といえるでしょう。ところが、この軍役サボタージュは、家康の会津征伐に対する島津家の明確な反対の意思と、家康サイドから受け取られても仕方ありません。

 

 かくして、義久の軍役拒否は、(義久自身にその気はなくても)家康からは反家康的行動として受け取られ、「今回の会津征伐に島津家は反対のようだ。だから課せられた軍役もまったく履行する気が無くサボタージュしている。このような無気力な、家康の意向に反対な軍を伏見城に入れても仕方ないし、かえって邪魔だ(反逆されるおそれすらある)」

という見解になったと思われます。これゆえ、家康は「御返事な」い訳であり、返事がないということは、結局、島津家を伏見城の留守番体制から外したというのが、家康の公式な決定といえます。

 

 だから、鳥井元忠が島津義弘伏見城入城を拒否するのは当然とえいます。四月に家康が要請した島津家の留守番体制は、島津家自身が軍役の員数を集められなかったことにより、立ち消えになったのです。最終的に決まった在番体制は公議の決定によるものであるため、義弘の伏見城在番が決定されているのならば元忠が義弘の入城を拒むことはありません。逆に決定されていないのに、入城を求めてきたら、元忠が不審に思い拒絶するのは当然です。結局、島津家が兵を集めず在番を果たす気がないという意思を(家康側から見れば)明確に示しているので、在番から外したというのが実態でしょう。

 また、特に七月十二日以降は、石田三成大谷吉継佐和山決起が知られることになります。これまで述べてきたとおり、石田三成と島津家は親密な関係にあり、それは諸大名が知っていることですので、島津義弘が三成と内通して、伏見城を奪取するために入城を求めている危険性があると元忠が疑ったとしても仕方ありません。このため、ますます義弘の入城は拒否されることになります。

 

 さて、島津義弘はいつ西軍につこうと決断したのでしょう。

 ここに、以前のエントリーで紹介した以下の書状があります。

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(上記のエントリーと、今回のエントリーでは若干考察の違いがある部分がありますが、当時の考察ですので、そのままにしておきます。)

 この書状から少なくとも七月十五日以前には義弘は西軍に加担していることが分かります。これがどこまで遡れるかは不明です。義弘の伏見城入城要請が、西軍の陰謀のひとつであり、伏見城奪取を目的とするものであれば、少なくとも七月の初旬から義弘は西軍の陰謀に加担していたことになります。

 しかし、義弘の入城要請が、員数を揃えられなかったことにより、家康に体よく伏見城在番を断られたことを不面目に感じた義弘が、ともかくこの不名誉を挽回するために、留守番の役目だけは担いたい、という意思を元忠らに示したという事ならば、しばらくの間義弘は西軍に加担していないというか、そもそも西軍の陰謀自体知らない状態だったといえます。

 この場合は、七月十二日から七月十五日のあいだに義弘は、西軍諸将の誰かの説得を受け西軍に加担することになったといえます。(普通であれば、説得役は石田三成と考えられますが、この時期三成は佐和山城に籠っていますので、伏見にいる義弘に対して、本人からの説得は難しいのではないでしょうか。ちょっとこの辺は分かりません。)

 西軍決起は七月十七日の「内府違いの条々」発出までは「陰謀」ですので、当時の義弘書状に陰謀を明記した書状がなくても当然です。陰謀を軽々しく書く訳が有りませんし、知らない振りをして書くのが当たり前です。このため、「この日の書状には陰謀に触れていないし、まるで西軍の動きを知らない様子だから、西軍決起の陰謀を義弘は知らなかったのだ」ということはできません。

  このため、いつから義弘が西軍に加担したのか確定するのは困難といえます。

 

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 注

(*1)光成準治 2018年、p331

(*2)桐野作人 2013年、p69~70

(*3)光成準治 2018年、p333

(*4)桐野作人 2013年、p66

(*5)光成準治 2018年、p351

(*6)光成準治 2018年、p334

(*7)光成準治 2018年、p334

 

 参考文献

桐野作人『関ヶ原 島津退き口』学研M文庫、2013年(2010年初出)

光成準治関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』角川ソフィア文庫、2018年(2009年初出)