古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の三十三 西軍の「総大将」毛利輝元 ②秀秋越前・加賀転封時における、石田三成の小早川旧臣救済

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※前回のエントリーの続きです。(前回のエントリー↓)

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 今回は、文禄二年頃から毛利家の「取次」石田三成毛利輝元との結び付きについて検討します。

 

2.秀秋越前・加賀転封時における、石田三成の小早川旧臣救済 

 慶長三年五月、小早川秀秋は、朝鮮への出兵から帰国した後、筑前筑後から越前・加賀へ減転封される事になります。秀秋が越前・加賀へ減転封される事になった詳細については、下記を参照願います。↓

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 秀秋が転封になった理由を一言でまとめると「しかし、秀秋が帰国したにもかかわらず、筑前筑後から移されたということは、朝鮮侵略において重要な拠点基地を委ねるに足る能力が秀秋にはないと判断されたことを示している。」(*1)というのが妥当といえます。(上記エントリーにも書いたように、石田三成の讒言により秀秋が減転封になったという俗説は、全くの誤りです。)

 

 この秀秋の越前・加賀への減転封により、「秀秋が家臣にできる石高は減少し、隆景遺臣全体を受けれる余裕はなくな」(*2)ることになります。

 隆景遺臣は、まず本家である毛利家で引き取られることになりますが、隆景遺臣全体を毛利家で受け入れる余裕はなく、隆景遺臣の処遇は宙に浮いてしまいました。この窮状を救ったのが三成です。

 

 光成準治氏の『小早川隆景・秀秋』より、引用します。

 

「しかし、輝元はこれ以上の隆景遺臣の受け入れは輝元直轄地の減少を招くことから消極的であった。隆景遺臣の処遇は宙に浮いてしまった。(「領地これなき段、相済まざると笑止まで候」〔八月二十日付け恵瓊書状写「譜録」〕が、石田三成が彼らを救済した。九月八日付けで輝元は三成に対して「隆景家人ども、秀秋へ相続き仕えられ候ところ、越前国替えについて、相放たれ候、然るところ、御方相抱えらるべきの由、まことに御頼もしく、吾らにおいて祝着せしめ候、かの者ども妻子以下、たぶん中国(毛利氏)聊爾あるかるべからず候、御心安く召し仕われ候わば、本望たるべく候」と感謝の書状を発している(「譜録」)。この文書は伊予国人領主であった曽弥家に残されており、清水(筆者注:清水景治。清水宗治の子。景治の処遇も宙に浮いていた。)のみならず、天正十年以降に隆景家臣となった者については、越前・加賀における秀秋家中から除外され「越前御国替えについて、相放たれ候」)さらに毛利氏も受け入れに消極的であったため、帰属先が決まらない状況にあった。そこで、三成が引き取ることとなったのである。

清水については「清五郎左身上の儀について、御書中披見候、殿様(輝元)へ先刻卒頭申し上げ候、治少(三成)へ罷りいでらるべき事との儀候つ、まず御扶持方、使わされる置かるべきの由候、今一往相伺い候て、月俸仰せ付けられ候ように申し上ぐべく候(「譜録」九月二十日付け恵瓊書状写)とされ、三成が扶持することが明示されている。

秀秋旧領の代官となっていた三成の指揮下で、高尾盛吉や神保源右衛門尉といった隆景遺臣はこの年の一月から活動しており(本多一九九六Ⓐ)、三成は秀秋旧領の安定的な統治のためにも、現地に精通した隆景遺臣を召し抱えることに積極的であったと考えられる。なお、清水家の由緒書(『閥』)には「秀秋が国替えされた折、毛利氏から少ない知行を与えられていたため、三成から恵瓊を使者として、五千石を与えるので仕えるようにとの勧誘があったが、きっぱりと断った」とあるが、この由緒は毛利家への忠誠を強調するために捏造された蓋然性が高い。実際には、清水をはじめ、村上・曽弥ら天正十年以降に毛利・隆景家中に編入された家臣たちは、自らの家を維持することが最優先であり、毛利氏であろうと、三成であろうと拘りはなかったと推測される。」(*3)

 

「取次」は、取次先の大名の抱える問題の相談を受け、取次先の救済をはかるのも重要な仕事であり、石田三成は毛利家の「取次」として、毛利家のために小早川遺臣の救済に動いたということになります。こうした問題処理を通じて、「取次」石田三成との毛利輝元との親密な関係が築かれていくことになります。

 次回は、毛利秀就の跡目に関わる問題について述べます。

 

※ 次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)光成準治 2019年、p231

(*2)光成準治 2019年、p234

(*3)光成準治 2019年、p238~239

 

 参考文献

光成準治小早川隆景・秀秋-消え候わんとして、光増すと申す-』ミネルヴァ書房、2019年