古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の三十四 西軍の「総大将」毛利輝元 ③毛利秀就の跡目について

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

☆考察・関ヶ原の合戦 其の一 はじめに+目次 に戻る

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 に戻る

 

※ 前回のエントリーの続きです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

3.毛利秀就の跡目について

 

 毛利輝元は長らく子に恵まれませんでしたが、文禄四(1595)年十月、嫡男松寿丸(のちの秀就)が生まれます。これより前に輝元は、甥の秀元を養子に迎え後継者として決定していたため、秀元をいかに処遇するかという問題が発生することになります。

 

 松寿丸が生まれる前の、天正二十(1592)年に広島を訪れた秀吉は、「秀元を毛利家の後継者として認める一方で、「輝元若く候間、実子出来るべく候、その時は実子をたて、大夫(秀元)事、似合の扶持を遣わすべく候」(『毛利家文書』、以下『毛』)という条件を付していた。このため、秀就の誕生に毛利家の後継者たる地位を失った秀元に対して、輝元は「似合」の給地を分配する必要が生じた。」(*1)とされます。

 この後、毛利秀元は秀吉の養女(秀吉の弟秀長の実娘)と婚姻し、秀吉の「婿」として、豊臣家一門に準ずる立場になります。

 

 秀吉死後に、この秀元の給地配分を巡って徳川家康の介入がありました。毛利領国内の問題に対して家康が介入してきたことが、輝元が家康に対して不快感を抱き、家康の権力拡大に危機感を抱かせることになります。これが、後の「西軍決起」に輝元が「総大将」として加わる大きな要因のひとつとなったと考えられます。秀元の給地配分については、後のエントリーで記述します。

 

 さて、輝元の初の男子となった松寿丸についてですが、松寿丸の母は、毛利家家臣児玉元良の娘「二の丸」でした。

 光成準治氏によると、「「二の丸」は杉元宣(大内氏旧臣杉家一族)の妻だったが、懸想した輝元に略奪され、その後、元宣は殺害されたという記録が残されている(布引一九九五)。この記録の信憑性は高いと考えられ、松寿丸の後継者としての正統性に疑問を抱く勢力も家中には存在したと推測される。

 そのため、輝元の実子でありながら、松寿丸が後継者として認められるまでには時間を要した。慶長三年に比定される八月十四日付け内藤周竹書状写(『荻藩閥閲録』)に「御実子出来の条、定めて輝元様大切に思し召され候、御家の儀進ぜられ候え」とあり、秀吉が死没直前に松寿丸を後継者とするよう指示したことによって、ようやく後継者として公認されたのであるが、それ以前には秀吉への披露もできない状態であったことを窺わせる。また、死没直前時の秀吉の判断能力には疑問があり、秀吉が死没してしまうと、松寿丸が後継者として公認される機会を逸すると危機感を抱いた輝元の強い要望に沿い、石田三成らの働きによって、公認をとりつけたと考えられる。」(*2)とあります。

 

 これまでみてきたように石田三成増田長盛は、文禄二(1593)年頃から毛利家との取次を務めてきました。取次の務めは、取次先の大名の便宜をはかり、秀吉に取り次ぐのが職務です。この職務ゆえに、取次と取次先の大名と間は必然的に親密な関係となることになります。この石田三成増田長盛毛利輝元との取次関係が、後の「西軍決起」への下地となります。

 

※ 次のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 注

(*1)光成準治 2018年、p20~21

(*2)光成準治 2016年、p277~278

 

 参考文献

光成準治関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』2018年、角川ソフィア文庫

光成準治毛利輝元-西国の儀任せ置かるの由候-』2016年、ミネルヴァ書房