古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成と小早川秀秋の繋がりについて~博多代官 石田三成

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 石田三成の博多代官就任の時期については、従来慶長三(1598)年六月頃とされてきましたが、曽根勇二氏の『近世国家の形成と戦争体制』によると、石田三成の博多代官就任は文禄四(1595)年のことではなかとしており、以下のように述べています。

 

「では、なぜ、この時期(筆者注:文禄四年)に石田三成は博多に下向しなければならなかったのか。文禄四年八月七日、三成は博多の豪商神谷宗湛に、「京都之儀無別条、早速相静候(中略)中納言殿(小早川秀秋)近日御下二候間、其元御馳走尤二候」と述べた。三成は、同年七月の秀次事件の状況とともに、秀秋の下向を知らせたのである。さらにほぼ同じ時期八月十四日、隠居の小早川隆景も宗室(筆者注:島井宗室。博多の豪商)に、「今度中納言小早川秀秋)殿十日之御滞留にて、其治可有御下向之由(中略)増右(増田長盛)・治少(石田三成)内儀候間、馳走専用候」との書状を届けた。ここでは増田長盛石田三成の内諾もあるから、秀秋の名島下向が無事終了することを依頼した。八月二十三日にも、隆景は九州柳川の立花氏に、「今度中納言殿(小早川秀秋)へ御礼之儀、迚も名島御下向之事二候間、於彼表可燃之通、先度御返事申入候」と、秀秋の名島下向を案じている。実際、秀秋が名島に下向したのは、九月下旬から十月初旬であるが、それに先立ち、このように隆景が多方面に根回ししていたようであり、秀秋下向の重要性を窺い知ることができよう。」(*1)

 

(※ 以下のエントリーで、石田三成小早川秀秋の九州入国に気配りをしていたことについて検討しました。↓)

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 ちなみに、秀次事件の余波をうけて、秀秋も所領を取り上げられたという噂が、当時たちましが、黒田基樹氏は、以下のように述べてこれを否定しています。

 

「ところで、秀次事件の処理として、旧秀次領国への諸大名の再配置がすすめられた。その一環として、(筆者注:文禄四年)八月四日に、丹波亀山領は秀吉奉行衆の前田玄以・秀以親子に与えられ、秀秋は小早川隆景に預けられることになり、十人扶持にされるという噂が流れている(「古文書纂」『愛知県史料資料編13』七一一号)。実際に亀山領は、同月十五日には前田玄以に与えられていることからすると(『兼見卿記』)、秀秋はあたかも改易されたかのようにみえるが、そこでも「噂だけなので、本当でもない」と述べられているように、事実ではなかった。

 実際には、秀秋はその翌月に隆景の領国を継承しているので、亀山領はそれにともなって返上されていたとみられる。そもそも、秀次切腹の直後の七月二十日の時点で、秀秋は「羽柴筑前中納言」を称していているように、亀山領を領知していなかったと考えられるのである。当然ながら、直後に小早川家の家督継承が予定されていたとみることができる。しかし秀次事件によって、それが遅れることになってしまったのではなかったろうか。したがって秀秋は、秀次事件によって処罰されたわけではなかったと考えられる。」(*2)

 

 曽根勇二氏の『近世国家の形成と戦争体制』の続きを見ていきます。

 

「前項では、石田三成増田長盛らが秀秋の名島下向を内諾したことを指摘したが、この点をさらに検討してみよう。文禄三年十一月、隆景隠居から筑前名島城主となった秀秋であるが、文禄四年九月二十八日、秀吉が毛利輝元に「筑前中納言小早川秀秋)下向二付而、分国中路次泊々、種々馳走の由」と述べたように、秀秋が名島城に下向したのはこの頃である。そこで次の文書を見てみよう。 

 [史料3]

以上

態申越候、先日差上候使者二、巨細申下候へ共、重而申下候、上方無事二候条、可心安候。次両筑此方代官と百姓、自然出入於在之は、其元被聞合候而、其元被聞合候而、諸事可被相済候、是又無由断候様ニ尤候、恐々謹言

 (文禄四年)八月廿八日   治部少(石田三成) 

                三成(花押)

    宗室かたへ

「両筑此方代官」や「上方無事ニ候条」に引きずられ、史料3はこれまで慶長三年に比定されてきた。しかしそもそも史料3は、代官三成が現地の宗室に百姓との紛争を仲介するように依頼したものであり、「両筑此方代官」の表現は、むしろ秀秋移封後のことではなく、代官領と小早川領の併存状態を念頭に置くべきである。代官支配領は都市博多とその周辺であったかと思えるし、史料3は何より慶長三年八月の秀吉死去の混乱期よりも、文録四年八月の状況を示していよう。百姓との紛争も、秀吉死去による百姓の抵抗による出入りとして理解するのではあまりに時期が早いし、三成自身、政権交替によって容易に農民支配が揺らぐとは考えはしないだろう。

 これまで、小早川隆景の三原城隠居や秀秋の名島城入城など、文録四年前後における三成ら奉行衆の台頭と関連させて、政権運営による小早川氏排除の面が強調されてきた。さらに慶長三年二月、秀秋の越前北庄城への移封なども含めて、すべて三成らの台頭と対立させて考えられてきた。小早川秀秋を両筑から追放から追放したのが三成らであったという先入観があった。しかし両筑支配において、三成と秀秋の支配領域が併存していたことを前提とし、さらに博多代官三成と名島城主秀秋が、互いに連携していたと考えたらどうだろうか。文禄四年前後の都市博多の持つ重要性が高まってくるはずである。文禄三年十一月の隆景隠居とは、政権による小早川氏重用の表れであり、再出兵に向けた上方-三原-名島-博多-名護屋の流通ラインを強化するものであったと考えられよう。慶長二年六月に隆景は病死し、その翌月、秀秋は朝鮮に渡海するのである。」(*3)としています。

 その後、秀秋は秀吉により、慶長二年(1597年)十一月に帰国命令を受け、おそらく慶長三(1598年)一月に帰国したとみられます。ところが、その後の同年四月二日に越前国北庄領へ減転封を命じられます。(*4)

 

 俗書にはこの帰国命令・減転封が石田三成の讒言によるものとする記述がありますが、この記述が誤りであることは、以下のエントリーで説明しました。↓

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 減転封により、あぶれた旧小早川旧臣の受け入れ先として救済に動いたのも、石田三成です。これについては、以下のエントリーで説明しました。↓

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 慶長四年二月五日、小早川秀秋筑前筑後両国の旧領に復領します。これは秀吉の遺命により、五大老徳川家康前田利家宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元)の連署により発せられたものです。同時に、秀吉の従兄弟とされる越前国内で八万石を領していた青木重吉が、やはり秀吉の遺命による「五大老」の連署により、越前国北庄二十万石に加増され入封します。

 堀越祐一氏は『豊臣政権の権力構造』で、「小早川・青木両氏はともに秀吉とは血縁関係にあったから(筆者注:小早川秀秋は言うまでもなく秀吉の正室北政所の甥で、一時期秀吉夫妻の養子となっていました)、この加増は、秀吉が自身の死後、秀頼を支えるべき一門大名を強化しようとしたものとみなしてよいだろうが、ここでは「五大老」は秀吉の遺命を忠実に履行しているのであって、彼らの発案によって加増が決定したのではないことには留意しておきたい。」(*5)としています。

 なお、俗書には、徳川家康小早川秀秋の復領をはたらきかけたような記載がたまにありますが、一次史料にはそのような記載はなく、虚偽であると考えられます。

 江戸時代の史料には、同じく五大老連署で行った島津家への加増も、「家康の恩恵」とする書類を島津家に提出させたような事例があり、徳川幕府は「家康の恩恵」を捏造させる傾向がありますので注意が必要です。

 

 (島津家の加増については、以下のエントリーで説明しました。)↓

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(令和元年11月10日 追記)

 俗説で、徳川家康のはたらきかけによって、①の島津氏の加増が認められたとか、②の小早川秀秋の復領が認められた、という説がありますが、慶長三年八月五日に五大老五奉行で交わされた起請文の内容をみますと、それは有り得ないことが分かります。

 下記のエントリー(の、「2.慶長三年八月五日の五大老五奉行起請文取り交わし 」の項)で詳述しましたが、

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「 一、御知行方之儀、秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ、不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候、縦被下候共拝領仕間敷事、

 これは家康が「五奉行」に差し出した起請文前書の一部である。秀頼成人以前における「知行方之儀」については、どのような者から「御訴訟」-ここでは知行の加増を求める訴えをさすのであろう―があっても家康は決してこれについて「申次」を行わず、ましてや自身の知行などは決して要求しないし、たとえもし知行を与えると言われようとも、これを拝領しないとしている。」(*10)

とあり、誓詞により、徳川家康は、どのような者から知行の加増を求める『御訴訟』があっても、決してこれについて「申次」を行わないことを誓っていますので、家康が、島津氏の加増や小早川秀秋の復領の「申次」を行うことはできないことになります。

 

 

 石田三成小早川秀秋の繋がりをまとめますと、以下のようになります。

 

1.小早川秀秋の九州入国について、石田三成は、博多代官として様々な配慮を行っている。入国後も、両筑支配において三成と秀秋の支配領域が併存しており、博多代官三成と名島城主秀秋が、互いに連携していたと考えられる。

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2.小早川秀秋の小早川家養子入り・九州入国は左遷ではなく、「唐入り」の兵站拠点である筑前筑後に秀吉の親族である小早川秀秋を置いて、再出兵に向けた上方-三原-名島-博多-名護屋の流通ラインを強化するための秀吉の戦略の一環であった。その重要拠点の統治者として秀秋が抜擢されたという事になる。(実際の統治や軍の指揮は家老の山口宗永に委任されたとみられますが、重要拠点に秀吉の親族をおくことに意義がある。)

3.小早川秀秋の帰国命令は、小早川秀秋が実質的に陣頭指揮すべき)宿老山口宗永に事あるごとに反発し、このため、小早川軍が総大将軍として指揮が取れず、機能しない状態になってしまったための秀吉の判断といえる。

 越前国への減転封は「唐入り」の兵站基地である筑前筑後に軍隊として機能しない大名を置いておくわけにはいかないため、緊急的に秀吉が転封措置を取ったということになる。

 このため、秀吉の死去により朝鮮撤兵することになると、秀吉の遺命により秀秋が筑前筑後を復領したのも自然な流れといえる。

石田三成の讒言により小早川秀秋が帰国を命ぜられ、減転封された」という事実は存在しない。

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 なお、この小早川秀秋の復領に徳川家康のはたきかけがあったとことを示す一次史料はなく、秀吉の遺命により「五大老連署」によって復領は行われた。

 

4.小早川家の減転封により、あぶれた旧小早川家臣の一部を石田三成が救済した。 

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5.以下のエントリーで書いたように、西軍諸将のうち、宇喜多秀家は、秀吉・北政所の養女豪姫の婿、石田三成は三女辰姫が北政所の養女となっており大谷吉継小西行長は母が、北政所の侍女であり、「宇喜多秀家石田三成大谷吉継小西行長は、北政所派」といえる。

 関ヶ原の戦いにおいて、「北政所派」である彼らが、北政所の甥である小早川秀秋を「(寝返ったという)疑い」の段階で、暗殺しようとしたり、攻撃しようとしたりすることは極めて考えにくい。

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(参考エントリー)

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 注

(*1)曽根勇二 2004年、p201

(*2)黒田基樹 2017年、p36~37

(*3)曽根勇二 2004年、p201~204

(*4)曽根勇二 2004年、p48~49

(*5)堀越祐一 2016年、p152~153

 

 参考文献

黒田基樹『シリーズ・実像に迫る 005 小早川秀秋戎光祥出版、2017年

曽根勇二『近世国家の形成と戦争体制』校倉書房、2004年

堀越佑一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年