古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の三十八「五大老」について~1.文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵②

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 前回の続きです。

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 慶長三年八月十八日に豊臣秀吉が死去した後の八月二十五日に徳永寿昌と宮本豊盛の朝鮮渡海を告げる朱印状と覚が発出され、その三日後の、八月二十八日に四大老徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元上杉景勝はまだ上方にいない)の連署状が発出されることになります。

 以下、中野等氏の『秀吉の軍令と大陸侵攻』より引用します。

「   以上

其の表、御無事の上を以て、打ち入らるべきの旨、御朱印ならびに覚書、徳永式部卿法印・宮木長次口上にも相含められ、差し渡され候、然れば打ち入られ候刻、舟以下も入るべきやと、上様仰せ付けられ候、新艘其の外、諸浦の船、追々差し渡し候、其の上博多に至り、安芸宰相殿・浅野弾正少弼・石田治部少輔罷り越され候間、其の方一左右次第、急度渡海せしめ、相談に及ぶべく候条、其の意を得られるべく候、恐々謹言、

    八月廿八日              輝元(花押)

                       秀家(花押)

                       利家(花押)

                       家康(花押)

      黒田甲斐守殿

 一連の指示から三日ほどのズレがあるが、徳永・宮木の「口上」にも言及があり、やはり彼らによって携行されたものと判断されよう。冒頭に和平(御無事)が成立すれば「打ち入らるべき」とあるが、この「打ち入り」とは日本への帰還に他ならない。また、あくまで秀吉の意向として「打ち入り」のための船舶は充分に準備し、毛利秀元(安芸宰相)・浅野長政弾正少弼、このころから長吉から改名)・石田三成(治部少輔)を博多に下向させる旨を告げ、そちらの状況(一左右)次第では、彼らが渡海する可能性もあることを報じている。この後も、「大老」・奉行衆のあいだでさまざまな協議がもたれたようである。」(*1)

 

 同日に五奉行から以下の内容の指令が出されます。曽根勇二氏の『近世国家の形成と戦争体制』より、指令の文書と曽根氏の見解について引用します。

 

「[史料6]

追而申入候、其表御無事之上を以、被打入候刻、船以下も可入ニ付而、従 上様被仰付候新艘百艘、其外諸浦之船弐百艘、合三百艘、先追々被差渡候、其上至博多、江戸内府(徳川家康)・輝元(毛利輝元)可有御下向由候へ共、御人数不入儀と申、先御延引事候、安芸宰相殿(毛利秀元)殿・浅野弾少(浅野長吉)・石治少(石田三成)下向候、其方一左右次第ニ、急度渡海候而、可被及相談候条、可被得其意候、恐々謹言

  (慶長三年)八月廿八日          長束大蔵太輔

                            正家

                       石田治部少輔

                            三成

                       増田右衛門尉

                            長盛

                       浅野弾正少弼

                            長政

                       徳善院

                            玄以

    鍋嶋加賀守(鍋島直茂)殿

    同信濃守(鍋島勝茂)殿

             御陣所

 史料6によると、①「其表御無事を以」てとあり、朝鮮との講和は成立してから帰国すること、②「被打入候刻」つまり日本に戻る際に使う船舶は、秀吉側が指示した新造船と諸大名から供出させたもので臨むこと、③それほどの人数は博多では不要とのことなので延期し、毛利秀元・浅野長吉・石田三成の三人で出迎えるが、朝鮮からの報告次第では、彼らが渡海する用意がある、との三点が在陣大名に通達された。しかし、五大老)から、同日付・同内容(筆者注:上記の(*1)四大老書状(上杉景勝はまだ上方に不在です)の通告が諸大名に出され、さらに九月四日に五奉行から、翌五日には五大老(筆者注:これも四大老と思われます)から、史料6と同様の内容を示す指令が出された。

 ところで、撤兵については、従来から諸書の如く、例えば、「家康らが、石田治部少輔(石田三成)に朝鮮に往って義弘(島津義弘)・清正(加藤清正)・行長(小西行長)らを呼びもどすよう命令した(筆者注:注によると姜沆『看羊録』)」「家康公の御下知を受て、浅野・石田、九月の初伏見をたち筑前の博多に下り、渡海の用意をなせり(筆者注:注によると貝原益軒黒田家譜』)」「九月三日、徳川公、諸侯と嗣君に弐なきを盟い、遂に浅野・石田をして、遺命を以て肥前に赴き、密かに在陣の諸将を召さしむ」とあり、家康や五大老の〝判断〟だけで行われたとの見解がある。

 しかし五大老五奉行の双方から、同文の指令が諸大名に出されており、その理由は説明することができない。そこで「朝鮮征伐こと終わらずして薨御のことなれば、朝鮮在陣の兵引き入るるまでは薨ぜらるること堅く五大老にもかくすべし。石田・浅野両人、朝鮮に至ってこの旨を云いわたして兵を引き入るべし(筆者注:注によると『新編武家事紀』)」とあり、秀吉在世中と同様、国政での五奉行の存在が大きく、五奉行連署状を容認する秀吉朱印状に代わるものとして、ここで五大老連署状が必要であったと考える方が妥当である。秀吉専制の形態を堅持するためには、こうした五大老五奉行の「合議体制」を公表することが必要であった。五大老五奉行の双方の連署状が必要としたのは、何よりも五奉行の存在が大きかったことにほかならない。

 五大老五奉行の「合議体制」を堅持するため、両者の間でさかんに「誓書」が取り交わされたが、これは言うまでもなく秀吉の「御遺言」であった。この「合議体制」の状況が顕著に見出されるのが、この撤兵問題ではなかろうか。」

 

 朝鮮からの撤兵問題については、五大老五奉行のどちらが上位で主導したということはなく、十人の衆(五大老五奉行)の「合議」で撤兵方針が進められていたことが分かります。

 次回は、九月以降の朝鮮撤兵の動きについて説明します。

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 注

(*1)中野等 2006年、p357~358

(*2)曽根勇二 2004年、p206~208

 

  参考文献

曽根勇二『近世国家の形成と戦争体制』校倉書房、2004年

中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年