古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の三十九「五大老」について~1.文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵③

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

☆考察・関ヶ原の合戦 其の一 はじめに+目次 に戻る

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 に戻る

 

 前回のエントリーの続きです。(前回のエントリーです。↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 それでは、九月以降の慶長役の日本軍の朝鮮撤兵の動きを時系列的にみていきます。

 

1.九月四日付朝鮮在陣諸将宛て五奉行連署状と、九月五日付朝鮮在陣諸将宛て四大老連署

 

 九月四日付で、まず朝鮮在陣諸将宛て五奉行連署状が発出され、翌日の九月五日に朝鮮在陣諸将宛て四大老連署状が発出されます。ふたつの書状の日付が一日ずれていますが、朝鮮への送付は両方同時に送られたものと考えられます。ふたつの書状は、一点を除きほぼ同内容で、秀吉の「朱印状」(の代理としての五(四)大老連署状)に対しての五奉行の「副状」という関係性がみられるためです。

順番が前後しますが、九月五日の朝鮮在陣諸将宛て四大老連署状から内容をみますと、以下のとおりとなります。

 

① 和平交渉の推進役として、まず加藤清正を指名する。だが、加藤清正で交渉がうまくいかないならば、他の誰でもよいのでまとめるように。

② 和平交渉の条件としては、朝鮮王子の来日が第一だが、それで整わないのであれば、多少の御調物でも構わず、日本の外聞がたてばよい。

③ 撤兵する兵を迎えるために、新艘百艘・諸浦の艘二百艘、合わせて三百艘を差し向わせる。

④ 徳川家康毛利輝元宇喜多秀家が博多に下向しようと検討したが、とりあえず取りやめ、毛利秀元浅野長政石田三成の三名を九州に差し向わせる。状況によっては三人の朝鮮への渡海も検討する。

 

 中野等氏は、上記の書状について、「書状の内容は、八月二十八日のものからすこし踏み込んだものとなっており、「御無事」、すなわち和平交渉の推進役としては、まず加藤清正(主計頭)が指名されている。ただし、加藤清正のはたらきが及ばない場合は、他の誰であっても差し支えはないとされている。講和を結ぶ条件の第一は引き続き朝鮮王子の来日であるが、多少の御調物でも構わないとあり、ここにいたると、ともかく日本の外聞がたつことだけに配慮がはたらいていたようである。いずれにせよ厳冬をむかえないうちに全将兵の撤退を完了させたかったのであろう。それを果たすために、帰還用の船舶を充分に配備し、場合によっては毛利秀元浅野長政石田三成らの渡海も視野に入れられていた。このほか、徳川家康(内府)・毛利輝元宇喜多秀家らの博多下向も議せられた模様であるが、この件についてはほどなく沙汰やみになったようである。」(中野等①、p359~360)としています。

 これに対し、その前日に発出された九月四日の朝鮮在陣諸将宛て五奉行連署状の内容は、上記の②~④まではほぼ同じ内容ですが、「御無事」(和平)の交渉役について記述に違いがあります。曽根氏は、の書状について、「「御無事之儀、最前増右(増田長盛)・徳善院(前田玄以)申入候刻ハ、各方々へ御使二罷下、同書二不申入候」とあり、加藤清正が処理する云々どころの問題ではなく、講和は五奉行が主導して成立させようとしている。」(曽根勇二、p210)と述べています。

 

 九月四日付朝鮮在陣諸将宛て五奉行連署状と九月五日付朝鮮在陣諸将宛て四大老連署状については、講和の交渉役以外の内容についてはほぼ同内容なのですが、講和の交渉役については、

 

大老・・・まず、加藤清正を指名する。加藤清正がまとめる事ができない場合は他の誰でもよい。

五奉行・・・五奉行(のうち増田長盛前田玄以)が主導的に対処する。

 

と対応方法が、分かれている訳です。この点から五奉行五大老(のうち、加藤清正を推した人物)の間に、講和交渉の対処方法の齟齬が生まれていた可能性もうかがえます。

 

2.毛利秀元浅野長政石田三成の九州下向

 

 九月五日の、島井宗室(博多の豪商)宛て石田三成書状を見ると、三成は九月二十八日か二十九日に伏見を立ち博多に向かう予定だったようです。(曽根勇二、p212)ただし、中野等氏によると、神屋宗湛(博多の豪商)からの書状を、三成は九州下向中の十月十九日に周防富田で受け取っているので、実際に三成が九州入りしたのは、十月下旬と推定されるとしています。(中野等④、p384)

 

3.九月~十一月の朝鮮在陣諸将の動きと、五大老五奉行の動き

 以下時系列で示します。

九月十九日  明の西路軍の将・劉綎、偽りの和議を小西行長に呼び掛け、捕えようとするが、行長はあやうく逃れ、順天城へ帰る。(中野等③、p246)

 

九月二十一日 麻貴率いる明の東路軍が、加藤清正の籠る蔚山城を攻撃するが撃退される。(北島万次、p346~347)

 

十月一日 徳永寿昌・宮城豊盛、釜山上陸。在陣大名は釜山浦に集結し、ここで秀吉の死去をはじめとして、その後の軍事行動が両人から指令された。(曽根勇二、p206)

 

十月一日 洒川城の戦い。菫一元率いる明の西路軍は島津軍の籠る洒川城を攻撃するも、「洒川城の守りは固く火器を巧みに用いる島津軍の反攻によって攻城軍は崩れ、大敗北を喫して兵を撤退させてしまう。」(中野等①、p361)

 

十月二日・三日 順天城の戦い。小西行長の籠る順天城でも「大規模な戦闘がおこなわれたが、いずれも城方が撃退に成功する。ここに洒川の敗報が伝わって劉綖は七日に撤退を決めてただちに兵を退き、水軍の将陳隣も九日には古今島に引き上げた。」(中野等①、p361~362)

 

十月六日 蔚山城を攻撃していた東路軍も慶州へ退く。(中野等①、p362)

 

十月七日 「景勝一代略記」によると、上杉景勝、伏見到着。(*尾下成敏、p266)

 

十月八日 長束正家増田長盛前田玄以の朝鮮在陣諸大名宛三奉行連署状(石田三成浅野長政は九州下向中)。「九州表江被遣置候舟手之衆、其外御人数。急度可被差越候、敵於退は、最初徳永法印(徳永寿昌)・宮城長次郎(宮城豊盛)如被仰遣候、早々釜山浦江被引取、夫より可有帰朝候」との指示を出している。(曽根勇二、p211)

 

十月十五日 五大老連署状。「大明人於引執者、最前徳永(徳永寿昌)・宮木(宮城豊盛)両人二如被仰含候、諸城引払、釜山浦へ相集、其より可有帰朝事」と述べ、明軍を追払うことができたならば、在陣の諸大名は釜山浦に集結し、帰国するよう命じた。」(曽根勇二、p210~211)

十月十六日 (脇坂・九鬼ら水軍系大名宛)五大老連署状。「明の大軍が出陣してきたと聞いたが、来春風向き次第では、援軍を渡海させることもあるので、そのつもりで用意しておくようにせよ。そこで「かこ井(囲い)舟」(軍船)を割当てることになるので、その用意もするよう命じた。脇坂・九鬼ら水軍系の大名に出された指令であるが、戦況の悪化で撤兵が急がれた時期でもあり、実質は撤収する軍勢を乗船させるための準備指令であった。」(曽根勇二、p211)

 

十月二十二日 御弓・鉄炮衆宛五大老連署状「五大老は御弓・鉄炮集に「大明人唯(順)天へ取懸候由候、然者各事有用意、来月十日ニ此方江相立、名護屋唐津ニ可被在陣候、浅野弾正(浅野長政)・石田治部少輔(石田三成)、至博多在陣候間、両人被申次第二壱岐対馬迄、可被相渡候」と指示した。十一月十日を期して弓手・鉄砲集を上方に集結させ、博多の石田三成・浅野長吉の判断で、たしかに援軍を送る用意も計画していたのである。」(曽根勇二、211~212)

 

十月三十日 徳永寿昌・宮城豊盛、順天城に到着(曽根勇二、p212)

 

十一月二日 徳永寿昌・宮城豊盛、筑前名島に到着。石田三成・浅野長吉と面会し、朝鮮での状況を余すことなく報告する。(曽根勇二、212~213)

 

十一月二日「朝鮮の詳報を得た三成は、浅野長政連署して、同じ十一月二日付で、在朝鮮の諸将に対してかなり具体的な指示を発している(「大日本古文書『島津家文書』九八九号」)。」(中野等④、p389)

 

十一月二日 島津義弘島津忠恒五大老連署状、島津義弘島津忠恒宛三大老連署

「前段で洒川城攻防の詳細とその赫々(かくかく)たる戦果が語られ、後段では島津勢が敵を撃退したことを高く評価し、これによって蔚山や順天の明・朝鮮軍を挫くことが出来るであろうと推想している。実際、洒川の敗報に触れた蔚山・順天の攻城軍が波及的に兵を退いたのは、さきにも述べたとおりである。また、すでに小西行長・寺沢正成の要請によって、日本から迎えの船が朝鮮に向かうであろうことが告げられており、敵が後退しているあいだに軍勢を釜山に集結してもすみやかに帰還するように促している。さて、この「大老連署状にも奉行衆の副状が確認される。重複しない情報も不可されているので、煩を厭わず紹介しておこう。

(筆者注:以下、島津義弘宛三奉行(長束・増田・前田)連署状)

 十月二日、竜伯老への御注進状、昨日二日に到来、拝見せしめ候、

一、其の表へ大明人、九月十九日罷り出て、晋州にこれ有りて、十月朔日巳の刻、其の御城へ取り懸かり候処、御一戦を遂げられ、則時に追い崩され、晋州川向こうまでの五里の間、追い詰め、悉く討ち果たされ、残党など晋州大川へ追い入れられ、残るところ無き御仕合せの由、さてさて御手柄是非に及ばず候、

一、敵人数弐拾万騎ほどもこれ在るべきかと見及ばるるの由に候、生け捕りの申し様も同然の由、猛勢の処伐り崩され候事、さりとては比類無き御動き、書中に申しえず候、事更御父子御自身御手を砕かれ、八人討ち取らるるの由、中々申すは愚かに候、然る間、下々の励みと察せしめ候、

一、蔚山表の儀も、此の方へ注進候、敵三万騎にて押し寄せ候処、大鉄炮にて打ち立て、手負い・死人其の数を知らざるに付て、引き退き対陣せしむるの由に候、御手前悉く追い崩されるの通り、承り候はば、定めて蔚山表も敗北たるべくと存じ候、

一、順天の儀、海陸共に取り懸かり、籠城の由に候、是又右の御仕合せに候間、罷り退くべく候、併しながら先度小摂・寺志摩注進以来、此の方御人数追々渡海の儀、仰せつ付けられ候間、安芸宰相殿、浅弾・石治少博多に在陣候間、其方御一左右次第に、渡らるべく候、其の外四国衆・豊後衆・舟出九鬼・脇坂・堀内・御弓鉄炮衆以下、かこい舟数百艘仰せつ付けられ候間、是又油断なく渡らるべく候、

一、先度徳永法印・宮城長次を以て、仰せ遣わされ候如く、順天・蔚山表敵引き取るに於いては、おのおの御相談有り、諸城釜山浦へ引き取られ、其れより御帰朝有るべく候、其の段委曲先書に度々申し入れ候間、再筆能わず候、恐々謹言、

     十一月三日            長束大蔵   正家(花押)

                      増田右衛門尉 長盛(花押)

                      徳善院    玄以(花押)

      羽柴兵庫頭(筆者注:島津義弘)殿

      同 又八郎(筆者注:島津忠恒)殿 人々御中

 洒川城攻防に関するくだりはほぼ重なるが、将兵の撤退を進める増援の手だてについては、詳細な計画が披歴されている。毛利秀元(安芸宰相)・浅野長政弾正少弼)・石田三成(治部少輔)の博多下向は既述のとおりであり、加えて彼らの判断次第では、四国・豊後の諸大名及び船手の諸将が救援に向かう予定であった。いずれにしろ、順天・蔚山の包囲が解け次第、こぞって日本へ帰還するように重ねて指示を与えている。

 奉行衆連署状の後ろから二箇条目にも記載があったように、毛利秀元浅野長政石田三成らが筑前博多に下向していた。彼らからも朝鮮の情報は逐一送られている。(後略)」(中野等①、p366~368)

 

十一月三日 浅野長政徳川家康書状

「御折紙披見せしめ候、殊に高麗表の儀(筆者注:中野等氏によると「洒川での勝利を指していると考えられる。」としています。)、具に仰せ越され候、誠に潔き儀とともに候、先書にも申し入れ候き、定めて相違なく引き取られ候様に尤もに候、尚後音の時を期(ご)し候条、省略せしめ候、恐惶謹言

   十一月三日        家康 御判

     浅野弾正少弼殿」(中野等①、p368)

 

4.徳川家康藤堂高虎宛て朝鮮渡海命令と、前田利家藤堂高虎宛て朝鮮渡海中止命令

 

十一月四日 徳川家康藤堂高虎へ急いで朝鮮へ渡海することを命じる。(曽根勇二、p214)

 

十一月十二日 前田利家、島津軍が洒川城の戦いで大勝利したことを受け、藤堂高虎の朝鮮渡海中止を命じる。(曽根勇二、p216)

 曽根氏は、十一月四日の家康の藤堂朝鮮渡海命令十一月十二日の利家の朝鮮渡海中止命令について、「家康ではなく、利家の命令で中止したことは朝鮮の戦況と相まった偶然であろうか。推測の域を出ないが、藤堂の渡海命令そのものが家康だけの判断(あるいは藤堂自身の申し出も含めて)であったので、「合議体制」を崩壊させることにもなりかねないところから、家康に代わって利家が渡海を中止させたのであろうか。たとえ家康であろうとも、個別に大名を動員できるような立場にはなく、こうした行為は五大老連署状によって初めて可能であったのである。」(曽根勇二、216)

 ただし、藤堂高虎の九州派遣自体は、既に「十月八日付の五奉行連署状でも、「万端藤堂次第可有覚悟事、専一候とあり、五奉行の意思も反映されていた。」(曽根勇二、p216)ものでした。

 

5.十一月~十二月の朝鮮在陣諸将の動きと、五大老五奉行の動き

 

十一月十日 順天から撤退する小西行長らが襲撃される。(曽根勇二、p216)

 

十一月十五日 浅野長吉宛徳川家康書状

「御折紙具に披見候、仍って高麗表敵敗北に付きて、何れも釜山浦へ引き取らるるの由、尤もに存じ候、いよいよ早々に帰朝候様然るべく候、尚後音の時を期(ご)し候条、具(つぶ)さ能わず候、恐々謹言、

 十一月十五日            家康(花押)

   浅野弾正少弼殿」(中野等①、p368)

 十一月三日の浅野長吉宛家康書状と併せて考えると、①浅野長政徳川家康は、個人的に書状をやり取りしており、やはり親密な仲であったこと、②家康は、長政の来状を「尤もに存じ候」と述べているだけで、特に主導的な立場を取っている訳ではない、という事が分かります。

 

十一月十八日 順天からの退路を断たれた小西行長を救援するため、島津軍は露梁津の戦いで明・朝鮮の水軍と闘うが、大きな被害を受ける。しかし、朝鮮水軍統制使李舜臣もこの海戦で弾にあたって戦死した。この海戦の間に小西行長は順天を逃れ、南梅島へ向かった。(北島万次、p353~354)

 

 

十一月二十五日 浅野長政石田三成五大老書状

上記のように明軍とともに、朝鮮水軍の日本軍への攻撃が加わり戦況が悪化したため、博多の浅野長政石田三成宛に五大老書状が発出されます。

「[史料10]

朝鮮表へ大明人并番舟罷出候由候条、藤堂佐渡守(藤堂高虎)被指渡候、其方ヘハ程近候間、猶以被相談、御人数被遣、於可然儀は、何も御陣触候て、用意候御人数、其表迄も先可被相立候条、不寄何時可有注進候、御両人之中も壱岐対馬迄被相越候は、被聞合尤候、猶藤佐(藤堂高虎)に申含候、恐々謹言

(慶長三年)十一月廿五日           輝元(花押)

                       景勝(花押)

                       秀家(花押)

                       利家(花押)

                       家康(花押)

浅野弾正少弼(浅野長吉)殿

       石田治部少輔(石田三成)殿」(曽根勇二、p214~215)

 

五大老は、藤堂を派遣させるとともに、博多の三成・長吉(注:浅野長政)には藤堂と連絡して処理にあたるように通達した。(中略)藤堂はすでに博多の近くまできており、彼とよく相談して軍勢を出すようにともあるが、前述した弓手鉄炮衆の援軍なども計画していたのであろうか、さらに両人の間で議論された壱岐対馬への出陣計画も容認されたようである。」(曽根勇二、p215)

 

十一月二十五日 上記五大老書状と同日、島津義弘・忠恒宛三奉行(長束・増田・前田)連署

「[史料11]

 其表大明人并番船罷出由候間、藤堂佐渡守(藤堂高虎)被差渡候、敵於在陣仕者、御在番衆之船手、各被遂御相談、可成程可被及行候、其方御一左右次第ニ、九州表へ被遣置候船手之衆、其外何も御人数急度可被差渡候、敵於退散者、最前徳永(徳永寿昌)・宮木長次(宮城直盛)ニ如被仰含候、諸城早々釜山浦へ被引取。其より可有帰朝候、万端藤堂(藤堂高虎)ニ被相含候之間、藤堂次第ニ可有御覚悟事肝要候、恐々謹言

 (慶長三年)十一月廿五日    長束大蔵太輔

                      正家(花押)

                 増田右衛門尉

                      長盛(花押)

                 徳善院

                      玄以(花押)

   羽柴薩摩侍従(島津義弘)殿

   嶋津又八郎(島津忠恒) 殿」((曽根勇二、p216~217)

 

 曽根氏はこの連署状の内容について、「(前略)この連署状でも冒頭に、「朝鮮表へ大明人并番舟罷出候由候条」とあり、朝鮮水軍のことが加えられて、藤堂の派遣を報じている。朝鮮の島津氏に対して五奉行も、藤堂と連絡して処理すべき事を申し送ったのである。あくまでも撤兵に関することは、五大老五奉行の「合議」の下で進められていた。秀吉在世中、秀吉朱印状と奉行衆の連署状がセットになって政権の施策が運営されていたことと本質的にはまったく変わらないのである。史料11の場合でも、五大老の「判断」から藤堂が博多に派遣されても、五大老はまず三成・長吉の両者と連絡を取り合い、あくまでも「現場」の「両者」の「承諾」をもって撤兵を処理したのである。三成・長吉が撤兵処理をすることは秀吉の遺命であり、これが五大老五奉行の「合議」の実態である。これを無視するのは「合議体制」の否定であり、秀吉の遺命に背くことでもあった。秀吉専制の形態を無視し、諸大名の動員などまったくありえ得ないことであった。秀吉の死が公表されている時期であればなおさらのことであり、秀吉の死が公表されている時期であればなおさらのことであり、秀吉政治がそのまま運営されなければ、整然とした撤兵などできなかったのである。」(曽根勇二、p217)と述べています。

 

十一月下旬から十二月にかけて、朝鮮在陣諸将は次々に釜山を発して帰途につきます。「参謀本部編『日本戦史 朝鮮役』によると、十一月二十三日も日本勢は釜山の城塞を自焼して、加藤清正らが朝鮮を離れたとある。ついで二十四日に毛利吉成らが、二十五日には小西行長島津義弘らも釜山を発した。このうち、島津氏の博多着岸が十二月十日と知れ、翌十一日には小西行長や寺沢正成も帰着している。したがって、他の諸将もこれに前後して博多に戻ってきたとみてよかろう。」(中野等③、p255~256)

十一月十八日の露梁津の戦いが、日本と明・朝鮮の最後の戦いとなりました。(北島万次、p354)

 

十二月七日 石田三成 博多の神屋甚兵衛に軍勢の寄宿を免除するよう指示を出した。(曽根勇二、p213)

 

十二月十日頃 この頃まで、石田三成は博多に滞在していた。(曽根勇二、p213)その後筑前を発つ。

 

十二月二十四日 石田三成島津忠恒らをともなって大坂に到着。(中野等④、p306)

 

6.まとめ

 ここまで、秀吉死去後の日本軍の朝鮮撤兵の動きを見てきました。朝鮮からの撤兵方針については、家康や、あるいは五大老の主導的な「判断」で決定された訳ではなく、五大老五奉行の「合議」によって、方針が決められてきたことが、上記から分かります。

 基本的には、(秀吉の朱印状の代理としての)五大老連署状が諸将へ向けて発出され、その五大老連署状に添付する形で、方針を具体化した副状を五奉行が発出するという方式が基本となっています。

 これは秀吉生前の頃の秀吉朱印状と奉行衆の副状の関係に等しい形といえるでしょう。そして、その具体的な方針の内容は「合議」で決められ、朝鮮撤兵に関してはその「合議」も、九州の「現場」にいる浅野長政石田三成との「相談」なしには、撤兵の方針を定めることもできなかった、というのが実態だったといえます。

 

 (※ 次回のエントリーです。↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 参考文献

北島万次『朝鮮日々記・高麗日記』そしえて、1982年

曽根勇二『近世国家の形成と戦争体制』校倉書房、2004年

中野等①『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

中野等④『石田三成伝』吉川弘文館、2017年