古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十「五大老」について~2.謀反や反乱の対処(庄内の乱)

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 前回の続きです。

(前回のエントリーです。↓)

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 慶長三(1598)年八月五日の秀吉の遺言によって、秀吉死後の秀頼後見・補佐体制として、五大老五奉行制が整えられることになります。

 前述したとおり(↓)、 渡邊大門氏は、「五大老」の職掌として、以下の3つをあげています。

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1.文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵

2.謀反や反乱の対処(庄内の乱)

3.領地の給与

 

  ただし、渡邊氏は、1、2の職務はあくまで臨時のものであり、恒常的な五大老の職務ではなかったと指摘されているとし、重要なのは3.の領地の給与だったとしています。(渡邊大門、p35~36)

 

 このうち、「1.文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵」について、前回までのエントリーで検討しました。結論としては、朝鮮からの撤兵作業については、「五大老」と「五奉行」の「合議」で進められたものだったといえます。

「文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵」の指示は、「五大老」の職掌の中には入っていますが、「五奉行」との合議が必要であり「五大老」の「専権」とはいえなかった(「五奉行」の職掌でもあった)ということになります。

 

 続いて、今回は「2.謀反や反乱の対処(庄内の乱)」について検討していきます。

 まず、「謀反」についてですが、秀吉死去後において「謀反の疑い」が、具体的に出されたケースは、慶長四年九月の前田利長浅野長政らの関与が疑われた事による「徳川家康暗殺計画疑惑事件」、慶長五年四月頃より問題が起こった「上杉景勝の謀反の疑い」による「会津征伐」ということになります。

 これらの「謀反の(疑い)への(主に徳川家康による)対処」は、「五大老同士の政治闘争」とみるべきであり、「五大老」そのものの職掌ゆえ行動とはいえません。むしろ、徳川家康による「五大老五奉行制」そのものを破壊するための一連の作業のひとつと言えるでしょう。

 

 次に、秀吉死後において大名の領内に起こった、大名家臣の大名に対する最大規模の反乱であった「庄内の乱」に対しての、「五大老」の対処についてみていきます。

「庄内の乱」の詳細については、以下のエントリーで書きました。(↓)再掲します。

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「慶長四(1599)年三月九日、伏見で島津忠恒が、宿老の伊集院幸侃を殺害する事件が起こります。

 幸侃は、石田三成らの豊臣政権の指南を受けつつ、島津領国の刷新に務めてきましたが、それだけに豊臣政権の押し付ける変化に反発していた国元の島津家臣団の憎悪もまた幸侃に集まり、太閤検地においては八万石もの知行を許され、家臣でありながら分を超えた権勢を振るう幸侃に対する、忠恒の不満がここに極まった事件といえるでしょう。

 忠恒の幸侃殺害は、豊臣政権の同意をえたものではなく、三成は激怒しますが、「結局、幸侃の生害自体は、忠恒の「短慮」によるものとして処理され、三成も穏便に済ませることとした。義久(龍伯)は、国元から謝罪の使者を三成のもとに派遣し(『薩藩旧記雑録後編』三-七〇三号)、一方の三成も島津家との密接な関係の継続を望み、家中の桜木平右衛門尉を差し下している(『薩藩旧記雑録後編』三-七六二号)。」(中野等、p400)」

 

 ということで、はじめこの事件は、島津家取次の石田三成の対処により、穏便な処理がはかられる予定でした。

 ところが、慶長四(1599)年閏三月四日に「七将襲撃事件」が起こり、これにより石田三成が失脚し、佐和山に隠遁することになります。

 豊臣公儀(の取次:石田三成)の統制の重しが取れた島津龍伯(義久)は、伊集院幸侃の息子である忠真に対して、無条件の居城の開城引き渡しを要求するという強硬な姿勢に転じます。自分の身の安全が保障されない忠真は、開城を拒否、城に立て籠もります。

「義久は、伊集院氏の砦を取り囲むように近辺の外城に信頼できる家臣を配置し、忠真の領地を封鎖します。

「義久はこの年六十七歳になる。自身で軍勢をひきいるには高齢にすぎる。そのため、体調が悪いことを理由に伏見に飛脚をつかわし、忠恒に帰国を許してくれるよう要請した。家康は忠恒の帰国願いをこころよく了承し、忠恒に伊集院忠真討伐を許した。当時、豊臣政権を動かしていた家康の許可をえたことで、庄内の乱は島津家内部の争いにとどまらず、「公議」が支援する公けの戦いとなった。佐土原城主の島津豊久にも暇が与えられ、庄内に出陣することになった。」(山本博文、p237)

 慶長四(1599)年六月三日、忠恒は鹿児島を出陣し、伊集院忠真討伐の戦い(庄内の乱)がはじまります。

 一方、家康は九州の諸大名に援軍派遣を要請します。しかし、「これらの軍勢派遣は、島津氏にとってはありがた迷惑な部分もあった。家臣の反逆を討つのに他国の軍勢の手を借りたくはなかったし、他国兵に領地を荒らされたくもない。そこで援軍は固辞し、ごく一部大名の軍勢しか島津領に入らなかった。」(山本博文、p246)

「なぜ家康は、島津氏が願ったわけでもない援軍派遣にこれほど熱意を示したのであろうか。島津氏へ過分なほどの厚意を示し、自らの影響下においておきたいという気持ちはあっただろう。また、豊臣体制の代表者として、国内の秩序を守る義務もあった。しかし、それらだけではないと思う。

 これは、推測になるが、家康は自らの手で軍勢動員をしてみたかったのではないだろうか。」(山本博文、p231)と、山本博文氏は述べています。

 戦いは、忠真側の抵抗も激しく、島津軍は苦戦し、戦況は長引きますが、翌年の慶長五年三月二日には、忠真の居城である都城を残して他の城は開城しました。この間、家康による調停があり、義久・忠恒と忠真は家康の調停を受け入れ、忠真は都城を退去します。忠真は、二万石を与えられ頴娃(えの)に移されることになります。これにより、庄内の乱は終結します。」

 

 ということで、この乱の発端である、島津忠恒による伊集院幸侃殺害事件は本来、島津家の取次である石田三成の対処により、穏便な解決がはかられる予定のものでした。ところが、「七将襲撃事件」で三成が失脚したことにより事態が変わります。

 

 豊臣公儀の統制から以前から逃れたかった島津義久及び、幸侃を殺害した本人である忠恒の思惑と、島津氏の意向を認めることによって島津氏に恩を売り、島津氏を自分(徳川氏の)統制下に収めようとする徳川家康の思惑は全く別々のものでしたが、伊集院忠真を討伐することを「豊臣公儀に許可させる」という意味では一致することになります。

 とはいえ、島津義久にしてみれば、上方(豊臣公儀)の統制が、豊臣公儀取次・石田三成から、豊臣公儀大老徳川家康の統制に代わるだけならば、結局何も変わらないことになります。これを期に周辺大名を自分の指揮で動員させて軍事行動に介入し、島津氏を自分の影響下に組み込もうとする家康の思惑を島津氏は拒否したいため、援軍は拒み、自家でのみの解決をはかろうとします。結局、慶長五年三月に家康の調停により、忠真は居城を退去し、庄内の乱は終了します。

 

 この家康の「庄内の乱」介入により、家康の「『庄内の乱』に介入して、島津氏の意向に沿うことによって島津氏に恩を売り、島津氏を自分(徳川氏)の影響下に置く」という思惑は成功したのか?

 慶長四(1599)年九月に、徳川家康大坂城に乗り込み、そのまま居座ることになります。家康が大坂に居を構えると、家康に媚びた西国大名達がこぞって家康を追って大坂に移動する中、(この移動、秀吉の「伏見へは西国衆御番たるべき由」という「御諚」に違背していました)、島津義弘は空気を読まず、愚直に秀吉の「御諚」を守って、伏見に残ります。

(参考エントリー↓)

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 上杉征伐の際には、義弘は、家康から伏見城城番の衆のひとつを依頼されましたが、島津氏は伏見城番の軍役に必要な人数を島津氏は集めず(集められず?)、伏見城番の話は立ち消えになってしまいます。

(参考エントリー↓)

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 おそらくこの件で家康から見限られた島津義弘は、西軍決起の直前に西軍方の誰かから声をかけられ、西軍に加盟することを余儀なくされます。

(参考エントリー↓)

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 ということで、「庄内の乱」の介入によって、徳川氏が島津氏をその影響下に置こうとうする思惑は、うまくいかなかったといえます。

 

「庄内の乱の対処」についてですが、「五大老」のうち徳川家康以外の大老の乱への対処の関与はありませんでした。毛利輝元が当時、度々使者を島津義弘に送って連絡はとっているようですが、豊臣公儀・大老としての公式な動きはありません。

(参考エントリー下段(令和元年10月8日追記部分)参照↓)

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 この事からも、少なくとも「職掌」として、「五大老」が「庄内の乱」を対処したとは実際にはいえず、この「庄内の乱」の対処事例から、五大老の「職掌」として「大名領内の家臣反乱への対処」というものがあった、とまではいえないかといえます。

 

 この事件についていうならば、本来「事件(伊集院幸侃殺害事件)」の段階では、豊臣公儀の奉行(島津家の取次)である石田三成が主導的に事件の処理を進めていたところ、三成が「七将襲撃事件」によって失脚したため、豊臣公儀で主導的に事件の対処をする人物が不在となり、この空白をついて島津義久が伊集院忠真に強硬的な態度をとることにより、「戦争」にまで発展することになったケースといえます。

 仮に、この時三成が失脚せずに「事件」が「戦争」にまで発展した場合は、家康だけではなく「五大老」「五奉行」が「合議」して対処するケースになったといえますが、三成が失脚しなかった場合は、そもそも「事件」の段階で対処がはかられ、「戦争」にまで発展しなかった可能性の方が高いともいえます。

 

 実際には三成の失脚後、「事件」は「戦争」にまで拡大し、ここで島津氏に恩を売ることで自分の影響力を増大させたい家康と、「反乱鎮圧」として許可してほしい島津氏の思惑が一致して、この「事件」は「島津領内の家臣反乱鎮圧」という位置づけとして(家康が中心ととなっている)豊臣公儀によって定義され、島津氏による「反乱鎮圧」を豊臣公儀は許可し、支援するという姿勢をとることになりました。

 

「七将襲撃事件」以降、それまで伏見城外の向島に居を構えていた徳川家康は、伏見城の二の丸に居を構えることになり、「『天下殿」になった』と世情で言われるまでに、豊臣公儀内の実力を高めることになります。つまり、「七将襲撃事件」の結着により、これまで「五大老五奉行制(合議制)」の要だった奉行・取次石田三成が失権し、一方で徳川家康が豊臣公儀・大老として権力を拡大し、豊臣公儀の五大老の中でも突出した権力を持つ存在になるようになったといえます。

こうした豊臣公議内での権力拡大により、大老家康は、直接島津氏内の家臣の事件に単独で介入できるだけの影響力を得るに至ったとみることができるでしょう。「庄内の乱」の豊臣公儀の「対処」は、「豊臣公儀」内で徳川家康が(他の大老・奉行より主導的立場に立ったことを示す事例といえます。

 

 これまでみてきたように秀吉死去後、特に「朝鮮からの撤兵」への対処においては、「五大老五奉行」の「合議制」により対処方針が進められてきたわけですが、「七将襲撃事件」以降、徳川家康が「五大老五奉行」に合議をはからず、主導的に行動するケースがでてきたということになります。

「七将襲撃事件」が、「五大老五奉行制(合議制)」の崩壊・破壊へ向かっていく出発点となった事件だったといえます。

 次回は、「五大老」の三つの職掌の最後の一つとされる「3.領地の給与」について検討します。

※ 次回のエントリーです。↓

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 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)

渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』PHP新書、2019年