古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十一「五大老」について~3.領地の給与

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 前回の続きです。

(※ 前回のエントリーです。↓)

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 渡邊大門氏は、「五大老」の職掌として、以下の3つをあげています。

 

1.文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵

2.謀反や反乱の対処(庄内の乱)

3.領地の給与

 

 渡邊氏は、1、2の職務はあくまで臨時のものであり、恒常的な五大老の職務ではなかったと指摘されているとし、重要なのは3.の領地の給与だったとしています。(*1)

 

 今回は、「五大老」の職掌のうち、「3.領地の給与」についてみていきます。以下は堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』から、「五大老」の知行宛行(領地給与)の実態をみます。

 「五大老」の知行宛行状については、(1)「五大老(あるいは三大老)が連署で発給した知行宛行状」と、慶長五(1600)年の二月と五月に(2)「徳川家康が単独で発給した知行宛行状」では性格が違うものとなっています。それぞれみていきます。

 

(1)「五大老連署による知行宛行状について 

五大老徳川家康前田利家(利家死後は、前田利長)・宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元)」の連署による知行宛行状は、慶長三(1598)年十二月二十六日から慶長四(1599)年八月七日までの間に発給されています。

慶長四年八月に前田利長上杉景勝が領国に戻って以降は、慶長四年十月一日~慶長四年十二月一日及び慶長五(1600)年四月六日~慶長五年四月十日に「三大老徳川家康宇喜多秀家毛利輝元)」が知行宛行状を発給しています。(慶長三年十二月二十五日に一通だけ醍醐寺宛に知行宛行状が三大老名で発給されていますが、これについてなぜ「三大老」なのかは不明です。)

【凡例:(発)=(発給者)、(受)=(受給者)】

以下は、加増・新地の知行宛行の事例です。

① 慶長四年正月九日 (発)五大老 (受)島津忠恒 五万石加増[理由:泗川城の戦いにおける抜群の戦功に対する褒賞]、同日付五奉行連署状あり(*2)

(参考エントリー↓)

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② 慶長四年二月五日(発)五大老 (受)小早川秀秋 越前北庄[十二万石?])(*3)→筑前筑後[三十三万六千石?] (*4) [理由:秀吉の遺命により筑前筑後へ復帰] (*5)

(参考エントリー↓)

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③ 慶長四年二月五日 (発)五大老 (受)青木重吉 越前[八万石→二十万石に加増][理由:秀吉遺命、秀秋の越前旧領を給与(青木重吉は秀吉の従兄弟だとされます)](*6)

④ 慶長四年十月一日 (発)三大老 (受)堀尾吉晴 越前府中五万石給与[理由:府中城等の普請を命じた事による費用負担を賄うため](*7)

 

 以上は、明確に大規模な加増を行ったものですが、この例はわずか四例にとどまります。①は、泗川城の大勝利の抜群の戦功における褒賞、②・③は秀吉の遺命、④は普請の費用負担という極めて例外的な理由によって加増は行われました。

 これ以外は、遺領安堵(六例)、石高変更なしの領地変更(八例)、その他大部分は石高変更なしの当知行安堵(十九例?)であり、極めて現状維持的な形で行われたことが分かります。(*8)

 

 堀越祐一氏は、「五大老」による知行宛行状には、大半の宛行に「『被』宛行候」「全可有領地『旨』候也」などと書かれ、知行を与えている主体は、「五大老」ではなく、主君である秀頼を指しており、五大老は幼少の主君秀頼の代行であり、「知行宛行状」は厳密には秀頼の奉書と見なされるべきものとしています。このため、「五大老」が知行宛行権を有していたというのも、彼らが主従的支配権を継承したという認識も誤ったものであるとしています。(*9)

 

 俗説で、徳川家康のはたらきかけによって、①の島津氏の加増が認められたとか、②の小早川秀秋の復領が認められた、という説がありますが、慶長三年八月五日に五大老五奉行で交わされた起請文の内容をみますと、それは有り得ないことが分かります。

 下記のエントリー(の、「2.慶長三年八月五日の五大老五奉行起請文取り交わし 」の項)で詳述しましたが、

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「 一、御知行方之儀、秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ、不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候、縦被下候共拝領仕間敷事、

 これは家康が「五奉行」に差し出した起請文前書の一部である。秀頼成人以前における「知行方之儀」については、どのような者から「御訴訟」-ここでは知行の加増を求める訴えをさすのであろう―があっても家康は決してこれについて「申次」を行わず、ましてや自身の知行などは決して要求しないし、たとえもし知行を与えると言われようとも、これを拝領しないとしている。」(*10)

とあり、誓詞により、徳川家康は、どのような者から知行の加増を求める『御訴訟』があっても、決してこれについて「申次」を行わないことを誓っていますので、家康が、島津氏の加増や小早川秀秋の復領の「申次」を行うことはできません。

(下記で見るように、徳川家康が知行宛行を単独発給できる時期になると、家康は起請文を公然と違背するようになります。他の大老の牽制がないと、家康の「暴走」は止めることができない事がわかります。)

 

2.徳川家康の単独発給による知行宛行(慶長五年二月一日~五日、慶長五年五月十五日~二十五日) 

 徳川家康の単独知行宛行が見られるのは、慶長五年二月・五月のみです。これは、この時期、慶長四年八月に自分の領国に帰国した前田・上杉両氏につづいて宇喜多・毛利も自己の領国へ帰り、他の「大老」がすべて不在だったためです。(*11)

 

① 慶長五年二月一日 (発)徳川家康 (受)森忠政 信濃国内に六万七千石加増[理由なし]

(参考エントリー↓)

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② 慶長五年二月一日 (発)徳川家康 (受)田丸直昌 信濃国内→美濃国内 四万石石高変更なしの領地変更(ただし、五千石分の無役分を新規に認める)[理由なし]

③ 慶長五年二月七日 (発)三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)(受)細川忠興 豊後国内に六万石新地給与[理由なし]

 細川忠興への書状は家康の宛行状ではなく、三奉行の連署状となっていますが、それには「「右、為御新地被宛行之由被出之、内府(家康)公被任御一行之旨、全可有御知行之状如件」とある。(中略)「内府公被任御一行之旨」とあることから、家康の意志に基づいて行われたことは明らかで、石田三成失脚後の「五奉行」が完全に家康に従属していることが窺われる。」(*12)と堀越氏は指摘しています。

石田三成は、慶長五年七月晦日真田昌幸宛書状に細川忠興を「七将襲撃事件」を起こした首謀者とみなしている内容の書状を送っています。(「長岡越中細川忠興)儀、太閤様御逝去已後、彼仁を徒党之致大将、国乱令雑意本人ニ候」)(*13)これが事実だとすると、細川忠興への家康の加増は、「七将襲撃事件」で三成を失脚させたことに対する家康の恩賞であると思われても仕方ありません。)

 

 このように他の大老(毛利・宇喜多)の留守中の慶長五年二月一日から七日までのわずかの間に、家康は二人の大名に対して、特に理由もなしに、十二万七千石を加増し、一人には五千石の無役を認めました。(*14)

 

 その後、宇喜多・毛利の「大老」が再び上坂すると、家康の単独宛行も行われなくなります。慶長五年四月付の三大老連署の宛行状は、六例ですべて遺領安堵を認めるものであり、現状維持的なものでした。堀越氏は、「ここで注目したいのは、宇喜多・毛利が在坂している間は、家康といえども勝手に知行を加増できなかったという事実である。「大老」による合議制はなおも存続し、家康を拘束していたと言えるだろう。」(*15)としています。

 

3.知行宛行における「五奉行」の役割

 知行宛行に関しての五奉行の役割についてですが、堀越氏は以下のように述べています。

①「ところで、知行宛行に関しては、「五奉行」が全く無関係であったわけではなく、すでに、知行地の所在を記した知行目録が「五奉行」から出されていたことが指摘されている。すなわち慶長四年(一五九九)正月、朝鮮における抜群の戦功の褒賞として薩摩国内の豊臣蔵入地を与えられることになった島津氏に対して「五大老」から、(中略)(筆者注:加増を認める)連署状が出されてるが、これには与えられる「薩州之内御蔵入給人分」の石高やその所在地については、全く触れられていない。それは「目録別紙二有之」というように、別に発給される「目録」に記されたのであり、それに該当するのが同日付で出された「御知行方目録」という文言からはじまる「五奉行連署状である。これによれば、島津氏に与えられた知行高は五万石であり、薩摩国内における所在地も克明に記されている。」(*16)

 

② 翌五年二月七日に加増を受けた細川忠興に対しても、三奉行(前田玄以増田長盛長束正家連署による「知行目録」が発行されています。(*17)

 

 ①及び②のように、五大老の発出する「知行充行状」に、具体的な給地の内容を示す「知行目録」を発出するのが、「五奉行」の役割といえます。

 

③ 慶長四年八月七日 池田元信宛「五奉行」知行充行状 尾張国内千石

堀越氏は、この知行宛行状は「五大老」からも発出されていること、元信の年齢がおそらく若い(元服をすぎたあたりではないかとしています)事からこの知行宛行は新地給与と考え、

「すなわち安堵状発給に関しては「五大老」の専権であったが、新地給与に際しては、蔵入地を総括する立場にある「五奉行」も関与する権限を持っていたということになるのではなかろうか。」(*18)としています。

 

④ 慶長五年五月になると、家康は単独で石清水八幡宮神人に大量の宛行状を発給しますが、「知行方目録」も同時にいくつか発行しており、この時期になると、「五奉行」は「知行目録」の発給権すらも、家康に奪われてしまったことが分かります。(*19)

 

⑤ つづいて、堀越氏は、「五大老」の知行宛行は、どのような手続きに基づいて行っていたのか、慶長四年十二月一日から慶長五年四月十日にかけて「三大老徳川家康宇喜多秀家毛利輝元)」によって発給された九通の知行宛行状について検討しています。

 これによると、奉行の長束正家が毛利氏家臣に送付した知行宛行状を、輝元がそのまま加判して正家に返却しており、輝元は既に奉行によって作成された知行宛行状に加判しているだけで、知行宛行に何も関与しておらず、実質的な知行宛行の決定は「五奉行(この時期は「三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)」)が下していたということがわかるとしています。(*20)

 

4.まとめ

五大老」の職掌としての「領地給与(知行宛行)」を見てきましたが、実の所、「五大老」の知行宛行は、幼少の主君豊臣秀頼の代行であるにすぎず、「五大老」が独自の「知行宛行権」を持っていた訳ではなかったことが分かります。

 また、知行宛行の大部分は、遺領安堵・石高変更なしの領地変更・石高変更なしの当知行安堵という極めて現状維持的なものであり、新地・加増給与は特殊な事情がある場合に限られた数少ない例外的なものでした。

 その知行宛行の発給実態も、「五奉行」が作成した知行宛行状に、「五大老」が加判して返却するといったものであり、実質的に「知行宛行状」を作成していたのは「五大老」ではなく、「五奉行」であったといえます。

 こうした、「五奉行」による「知行宛行」のコントロールを嫌った徳川家康は、慶長四年閏三月の「七将襲撃事件」、同年九月の「大坂城入城」、「前田利長浅野長政大老・奉行追放」により、実質的に豊臣公儀を専横する権力を握るようになります。(それでも他の二大老毛利輝元宇喜多秀家)が上方にいる間は、勝手な知行宛行状を発給することはできなかったようですが。)

 そして家康は、他大老の留守中に知行宛行状を単独で発給することにより、豊臣家の蔵入地を削って、勝手に親しくなりたい大名に対して加増・新地の知行宛行状を発給して私恩を売るという「暴走」をはじめます。

 秀吉の遺言により豊臣蔵入地を管理しなければならない「五奉行」としては、このような家康の「暴走」は到底看過できるものではなく、この時点から奉行衆と家康との対決は、いずれかは避けられないものになっていたといえるのでしょう。

 

 注

(*1)渡邊大門、p35~36

(*2)堀越祐一、p153

(*3)黒田基樹、p50

(*4)黒田基樹、p38

(*5)堀越祐一、p152

(*6)堀越祐一、p152

(*7)堀越祐一、p153

(*8)堀越祐一、p153~158

(*9)堀越祐一、p159

(*10)堀越祐一、p164

(*11)堀越祐一、p159

(*12)堀越祐一、p161

(*13)堀越祐一、p161

(*14)堀越祐一、p159~161

(*15)堀越祐一、p161~162

(*16)堀越祐一、p187~188

(*17)堀越祐一、p188

(*18)堀越祐一、p190

(*19)堀越祐一、p190

(*20)堀越祐一、p190~194

 

 参考文献

黒田基樹『シリーズ・実像に迫る005 小早川秀秋戎光祥出版、2017年

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年

渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』PHP新書、2019年