古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

【書評】① 高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』第一部 天正二〇年四月~慶長三年一月

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 以下より、高橋陽介氏の『秀吉は「家康政権」を遺言していた』の書評を行います。本書の文章を引用し、その文章にコメントを加える形式で書評します。

 

1.「日本軍は、蔚山城を包囲していた明軍を、戦闘によって打ち破って撤退させたわけではない。明軍はほとんど戦争をせずに撤退した。」(高橋陽介、p32)

 

→この記述は誤りといえます。慶長三年正月十二日の朝鮮在陣諸将宛秀吉朱印状には、「一、蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付(つき)て、各川を越へ、追い打ちに数多く討ち捨つる由、聞し召し届候、」とあり、秀吉も蔚山城の救援戦で追撃が行われ、数多くの敵を討ち取ったことを秀吉も認めている。(秀吉が残念がっているのは、兵糧が続かず悉く討ち果たすチャンスだったのにできなかったこと。)(中野等、p335)『明史』には、この戦での明軍の損害は「士卒死亡殆二万」と書かれており(笠谷和比古、p131)、『浅野家史料』に残る加藤家の家臣が作成した「城廻り敵死骸数の事」からは、城廻りの敵の死骸が一万三百八十六人あったことを報告しています。(中野等②、p236~237)

 上記のように、日本軍が蔚山城を包囲していた明軍を、後巻の軍(援軍)と城内の兵が挟み撃ちにして戦闘で撃ち破り、退却する兵を追撃して明軍に大損害を与えて撤退させたことは明らかです。「懲毖録」の「「経理・揚鎬は日本軍と戦うのを恐れて、すぐに明軍を引き揚げてしまいました。」」(高橋陽介、p31)という記載は不正確なものだといえます。

 

2.「伏見にいる秀吉は目付衆より蔚山合戦の報告を受けて取ってはいたが、明軍の兵力を過小評価してしまっていた。」(高橋陽介、p34)

→高橋氏は1.のように「明軍はほとんど戦争をせずに撤退した(だから明軍の損害はほとんどなかった)。」という誤った理解の上で、秀吉の判断を評価しているので、秀吉の明軍の兵力の評価が実際に「過小評価」だったのか否かは、ここからの記載からは不明ですし、秀吉の方が正しい現状認識をしていた可能性も当然ありうることになります。

 

3.「いっぽう朝鮮在陣の諸将は、これと一日ちがいの一月二十六日に「前線を後退させるべきである」という意見書を書いていた。」

中央政権である伏見と、現地である朝鮮とではまったく逆の現状認識をし、まったく逆の判断をしてしまっていたということになる。」(高橋陽介、p34)

→2.でも書きましたが、必ずしも現場にいない秀吉の判断が間違っていて、現場の朝鮮在陣諸将の判断が正しいとはいえません。

 また、「前線を後退させるべきである」という意見書を書いたのは朝鮮在陣諸将の一部(十三将)に過ぎず、朝鮮在陣諸将の「全部」の意見ではありません。小西行長島津義弘宗義智・寺沢正成・加藤嘉明・毛利吉成・鍋島直茂・伊藤佑兵・秋月種長・高橋元種・相良頼房らとともに、蔚山城に籠城していた加藤清正浅野幸長・太田一吉も、この意見書には署名していないことに注意が必要です。

 ちなみに「前線後退(前線後退とは、前線の蔚山・梁山・順天の三城を放棄するという案のことです。)」の意見書を出した十三将とは以下の人達です。

宇喜多秀家備前中納言

毛利秀元(安芸宰相)

蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)

生駒親正(生駒讃岐守)

藤堂高虎(藤堂佐渡守)

脇坂安治(脇坂中務大夫)

・菅達長(菅三郎兵衛尉)

・松嶋彦右衛門尉

・菅右衛門八(菅達長の子?)

・山口宗永(山口玄蕃頭)

・中川秀成(中河修理大夫

・池田秀氏(池田伊与守)

長宗我部元親(長宗我部侍従)(中野等①、p340~341)

 

3.「慶長三年一月二十六日、朝鮮在陣の諸将は「前線を後退させるべきである」という意見書を連署によって作成し、豊臣秀吉へ提出した。意見書は石田三成長束正家増田長盛前田玄以ら四人の奉行をつうじて秀吉に披露された。」(高橋陽介、p35)

→『言経卿記』によると、一月十日に石田三成は「近日中に奥州へ下向する」としているので、一月二十六日には上方におらず、意見書を秀吉に披露することもなかったと考えられます。そのまま三成は上杉の国替処理のため奥州へ向かい、再び京都に戻ってくるのは五月五日になります。(中野等③、p304)

 

4.「ただし、このとき戦線縮小案を提出したことによって秀吉からとがめられた者はいない。」(高橋陽介、p38)

→これもちょっと不正確な表現に見受けられます。というのは、三月十三日付の立花宗茂らに宛てた秀吉朱印状では「渡海の者かたより、蔚山・梁山・順天引き払うべきの由、申し渡し候へども、同心無きにつき、御意を得ず候由、申し越し候、御諚をも得ず、右三ヶ所引き取るべきの由申し候段、曲事ともに候、」「あまつさえ蔚山の儀、御諚を引き払うべきの由、申し渡し候儀、曲事の由仰せ遣わさ候事、」(中野等①、p342~343)と書かれており、秀吉がこの戦線縮小案(三城放棄案)を「曲事」として激怒していることは明らかだからです。

 

5.「この年三月に秀吉が処罰の対象としたのは、前線を後退させるように指示をした早川長政・竹中重利・毛利高政ら三人の目付とその指示にしたがって前線の城を放棄した蜂須賀家政黒田長政のみであり、「戦線縮小案を提出したこと」そのものは処罰の対象になっていない。」(高橋陽介、p38)

→、まず秀吉によって、早川・竹中・毛利・蜂須賀・黒田が処罰されたのは、(軍目付が秀吉に御見目した)慶長三年五月二日(以降)であり、三月ではありません。

 早川・竹中・毛利・蜂須賀・黒田が秀吉に処罰された理由と内容については、慶長三年五月二十六日付島津義弘島津忠恒宛三軍目付(福原長尭・垣見一直・熊谷直盛)書状から分かります。

 以下、書状を引用します。

一、我ら三人事、去る二日に御見目仕り、翌日朝鮮において去年以来の儀、御尋ねなされ候条、具(つぶさ)に申上げ候

一、蔚山へ唐人取り懸りに付(つけ)て後巻(うしろまき)の次第、唐人河を越え、少々山に乗揚げ候といへども、蜂須賀阿波守(筆者注:家政)・黒田甲斐守(筆者注:長政)、その日の先手の当番に有りながら、合戦仕ざる趣(おもむき)申上げ候処に、臆病の由御諚なされ、御逆鱗大形ならず候(①)

一、御手先(ママ)の城ども引き入るべき由、各(おのおの)言上仕り候儀、言語同断の曲事に思し召す旨、御諚なされ候、私通り申上げ候へば、聞し召されざる以前より島津・小西・対馬守[宗義智]三人の城を引き入れ、御為になるべき族(様ヵ)三人の城主、私方へも度々に書状を越し申し候へ共、御諚を受けず、下として御城引き入る儀、覚悟に及ばざる趣、三人の城主も返事仕り候に付て、その以後各(おのおの)手を失ひ言上仕らせたる儀候、即ちこの書状の談合衆并(ならびに)早主[早川長政]・竹源[竹中重隆]・毛利民[毛利高政]書状にて御座候とて、御目に懸け候処、猶以て御逆鱗なされ、三人の城主(筆者注:島津義弘小西行長宗義智)ども同心仕らざる儀、丈夫に思し召し、事の外、御感なされ候、阿波守(筆者注:蜂須賀家政)・甲斐守(筆者注:黒田長政)儀は後巻の合戦を仕らず、臆病者と思し召し候に、剰(あまつさ)え御先手の城を引き入れる興行人、旁(かたがた)以(もって)取りわけ阿波守に対し、曲事に思召候、只今進退を取り消さる儀に候へ共、永く御思案を加えらるの間、追て様子仰せ出さる迄は在国致すべく候、甲斐守、是も後巻の合戦をへり臆病者、殊に主(あるじ)居城の所さへ見定めず、諸卒の苦労を顧みず、詮無く城ども仕捨て候儀、曲事浅からず思召し候といへども、先づ御思案を加えらるの条、進物の儀は申すに及ぼすに及ばず、御注進等の一通も進上仕るべからず候、様子追て仰出さるべく候、次に早川主馬頭・竹中源助・毛利民部大輔事、御目付の身として惣談(そうだん)に相加わり、御城を引き入れるべき族(様ヵ)、城主方へ書状を遣し、同じく御目付の間へも書状を遣す儀、第一の曲事と思し召す間、召し寄せ、御成敗ありたく思し召し候といへども、是も御思案なされ候間、豊後にこれ有るべく候、右の様子、彼者ども方へ奉行三人(筆者注:前田玄以増田長盛長束正家の3名と考えられます。)、弾正[浅野長政]相加わり、申遣すべき旨仰せ出され候(②)

 (中略)

一、両三人(筆者注:福原長堯、垣見一直、熊谷直盛)の事、前後の様子を聞き召し届けられ、御褒美として、豊後において新地を拝領候、仕合においては御心易かるべく候、兼(かねて)又来年には御人数を相渡され、赤国の筋、都河(辺ヵ)まで働き仰せ付けられ、蔚山のかたへ打入り候様にとの御有増(あらまし)候(中略)猶日本の様子追々申し述ぶべく候(③)、

 恐煌謹言

                             福右馬

                               長尭(花押)

「慶長三年(ヵ)」五月廿六日

 

                             垣和泉

                               一直

                             隈内蔵(花押)

 羽兵庫[島津義弘]殿

 嶋又八郎[島津忠恒]殿

        人々御中」(笠谷和比古、p139~141)

 早川重政・竹中重利・毛利高政が処罰された理由は、目付の立場でありながら、諸将の相談に加わり、(秀吉の命令を受けずに軍目付の立場で)戦線縮小(三城放棄)を指示する書状を城主宛てに送付し、同じ目付に対しても(指示する)書状を送ったことを第一の曲事と咎められることになります。軍目付が秀吉の命令を受けずに勝手に、城主へ城の放棄を指示する書状を送付するというのは、完全な越権行為で本来処断されてもおかしくないくらいの大罪といえますので、早川・竹中・毛利が処分されるのは当然のことといえます。秀吉は三名を成敗しようかと考えたが、まず思案するので豊後で謹慎せよと命じます。

 

 蜂須賀家政黒田長政が処罰された理由は、蔚山城後巻(救援)戦の時に、当日の先手当番でありながら、合戦をしなかったことがまず咎められています。

(長政も家政も「追撃をしなかった事、あるいは、追撃をしきれなかった事)」を咎められた訳ではない事に注意する必要があります。(一月二十五日付の秀吉朱印状では、長政は追撃戦(「追い討ち」には参加して戦功を挙げ、秀吉によって賞されています。つまり、長政は「追撃戦」には加わっています(中野等①、p338、)。

 また一月二十二日付の秀吉書状では、黒田長政が自分の居城が心許ないため、追撃を途中でやめ、差し戻ったことについて、そのような事は殊更言うには及ばず、今後は言上する必要もないと不問にしています。(笠谷和比古、p132~133)このように追撃をしきれなかった事も咎められていません。

 黒田長政は、①に加えて、②自分の守るべき城を放棄したこと咎められています。この守るべき「城」というのは、黒田長政が守備していた「梁山城」のことです。十三将が放棄を意見した蔚山・梁山・順天の三城のうち、蔚山城の守将である加藤清正及び順天城の守将である小西行長は(軍目付の指示があったにも関わらず)城を放棄していないのに対し、三城の守将のうち黒田長政のみは梁山城を放棄してしまっている訳ですから、長政の城を放棄した行為は、秀吉にとって、とりわけ「曲事」と思われても仕方ありません。

 一方の蜂須賀家政は、①当日の戦の先手当番をしなかったことに加え、②「剰え御先手の城を引き入れる興行人(三城放棄の意見書に連署した人物)」として、取り分け蜂須賀家政に対して秀吉は怒りを向けており、家政に関しては「戦線縮小案を提出したこと」そのものが処罰の理由のひとつとなっています。

 つまり、「三城放棄案」の意見書を提出した理由で処罰されたのは、十三将の中で蜂須賀家政一名のみな訳です。(黒田長政は城を実際に放棄して、その理由で処罰されましたが、十三将の連署状には名を連ねていません。)なぜ、蜂須賀家政のみが処罰されたのか?

これは、

① 「十三将連署状」の三番目に名を連ねていることから、(責任者の順に署名がされている訳ですがが、一番目は宇喜多秀家、二番目は毛利秀元といずれも秀吉の養女婿であり、彼らを処罰する訳には秀吉はいかなかった。このため、三番目に署名した家政が実際の「責任者」としてとばっちりを食う事になったとも想像される。

② あるいは、(①ではなく)実際に「「三城放棄案」を主導し扇動して諸将に連署状を書かせた中心人物は蜂須賀家政である」と秀吉に判断された。

③ 加えて、黒田長政とともに後巻戦の先手当番を務めなかった。(他の十二将にはこうした理由はない。)

④ 黒田長政蜂須賀家政の妹を嫁に迎えているので、両家は縁戚関係となっている。縁戚同士なので連帯責任を問われた。

あたりが考えられます。

 蜂須賀家政は、秀吉が正式な処分を思案している間、領国(阿波)での謹慎を命じられ、黒田長政については、なぜか、秀吉が正式な処分を思案する間そのままの在陣が認められます。

 

6.毛利輝元の家臣・増田元祥の覚書の記述

「(前略)二度目は蔚山・順天を放棄して、西生浦・固城まで前線を後退させるように諸将の談合によって決まったときのことです。

 毛利家からは安国寺恵瓊がその談合に参加し、決定事項を起請文として、それに署名しました。

 そのとき毛利秀元様と吉川広家様は、豊臣秀吉様の命令により、蔚山城を普請していたのですが、そこへ恵瓊から「蔚山は放棄することに決まりましたので、早々に取り消し、西生浦の普請をされるように」との連絡がきました。

 秀元様と広家様は福原広俊(ふくはらひろとし)・椙社元縁(すぎもりもとより)、わたくし益田元祥ら三人の毛利家臣を召し寄せて、「このことについてどう思うか」と意見をたずねられました。

 わたくしは「恵瓊はすでに起請文に署名してしまいましたので、もはやそれを違えることはできないでしょう。恵瓊のことにはかまわず、秀元様・広家様そのほか毛利家家臣一同から秀吉様へ使者をさしあげ、『蔚山は放棄しません』と申し上げてはいかがでしょうか」と意見しましところ、秀元と広家様はそれに同意され、椙社元縁を使者として伏見へ遣わすこととしました。

(筆者注:一月二十六日の戦線縮小案には毛利秀元も署名しているので、この部分は元祥の記憶違いであろう)(後略)」(高橋陽介、p40~41)

→筆者注にも書かれていますが、実際に三城放棄案の連署状に署名しているのは毛利秀元であって、安国寺恵瓊の名前はありません。(中野等①、p340~341)ここの記述が「記憶違い」だと、そもそもこの一連の記述の根本から怪しくなっていきます。武将が後年書いた「覚書」の類は、本人の自己顕彰と自己弁護の誇張が混じってきますのですべて鵜呑みにする訳にはいきません。

 特に毛利家においては関ヶ原の戦いの「首謀者」の一人として処刑された安国寺恵瓊にすべての責任を押し付けて、生き残った武将は責任逃れをしようとする傾向にあり、この「覚書」もまた、その江戸時代に毛利氏が作った、「すべての責任を処刑された安国寺恵瓊に押し付けろ」という典型的なストーリーに沿ったもので、いかにも創作めいた嘘臭い記述といえます。この類の「覚書」の記述は、どこまでの部分が本当の記述で、どこまでが嘘の創作なのか不明なので、信頼性の低い記述として注意して読むべきでしょう。

 

7.「加藤清正を中心とするグループである東目衆と、小西行長を中心とするグループである西目衆は、おたがいの方針の違いにより対立した。」(高橋陽介、p43)

→「①加藤清正小西行長がたがいの方針の違いにより対立した」といわれるのは確かに諸書にあることですが、これと「②『加藤清正を中心とするグループである東目衆』と、『小西行長を中心とするグループである西目衆』」という2つのグループがそもそも存在し(そのようなグループは実際には存在しない可能性もある)、「③そのグループ同士が対立した」(加藤清正個人と小西行長個人が対立したのと、ふたつのグループが対立したというのは全く別の話です)とは違う話です。②、③があったことを示す史料は何を示しているのでしょうか?根拠となる史料の提示がないと検証しようがありません。

 もっといえば、①「加藤清正小西行長がたがいの方針の違いにより対立した」結果仲が悪かったのは、文禄の役においての話であり、慶長の役においても両者の仲は引き続いて険悪だったのは変わらなかったようですが、慶長の役において「方針の違いによる対立」といっても、両者の間にどのような「方針の違い」があったかは判然としません。慶長の役において、加藤と小西にどのような具体的な「方針の違い」による対立があったのか明らかにすべきでしょう。

(仮に、十三将連署状のことを念頭においているのだとしたら、前述したように小西行長加藤清正もどちらもこの連署状には署名していないことに注意すべきです。)

 

(令和元年11月13日追記)

加藤清正を中心とするグループである東目衆と、小西行長を中心とするグループである西目衆は、おたがいの方針の違いにより対立した。」(高橋陽介、p43)という記述につて、追記で更に検証します。

 

 上記での高橋氏の述べる「東目衆」「西目衆」の呼称そのものが、何の史料を元にしたものなのか、調べてみたのですがよく分かりません。ただ、慶長の役を記した諸書には「左軍」「右軍」という軍の編成を記した言葉はよく記載されています。

このため、「左軍」≒「西目衆」、「右軍」≒「東目衆」と仮定して考えてみたのですが、そもそも、この「左軍」「右軍」というのは何度も再編成されているものなのです。

 

 以下に詳細をみてみます。(下記の軍の編成の内容は、津野倫明「朝鮮出兵と西国大名」(佐藤信藤田覚編『史学会シンポジウム叢書 前近代の日本列島と朝鮮半島山川出版社、2007年、p229~231)を参照しました。)

 各将の後の(〇)は三城(蔚山・梁山・順天)放棄意見書(十三将連署状)に賛同し署名した人(×)は十三将連署状に署名しなかった人です。(黒田長政は十三将連署状に署名していませんが、実際に彼の守城である梁山城を放棄しましたので(〇)にしました。)

 

1.慶長二(1597)年七月の諸大名合議による編成

【右軍】≒【東目衆?】毛利秀元(〇)、黒田長政(〇)、加藤清正(×)、鍋島直茂(×)、長宗我部元親(〇)、吉川広家(×)、池田秀雄(〇)、中川秀成(〇)など ※軍目付-早川長政(〇)・垣見一直(×)・熊谷直盛(×)

【左軍】≒【西目衆?】宇喜多秀家(〇)、蜂須賀家政(〇)、生駒一正(〇)、小西行長(×)、島津義弘(×)、毛利吉成(×)など ※軍目付-太田一吉(×)、竹中隆重(〇)

【水軍】藤堂高虎(〇)、脇坂安治(〇)、加藤嘉明(×)、来島通総(戦死)、菅達長(〇)、同右八(〇)など ※軍目付-毛利友重(〇)

 

2.慶長二年八月二十六日の全州会議以降の部隊再編

【右軍】≒【東目衆?】加藤清正(×)、鍋島直茂(×)、長宗我部元親(〇)、池田秀雄(〇)、中川秀成(〇)、毛利吉成(×)

【中軍】毛利秀元(〇)、黒田長政(〇)

【左軍】≒【西目衆?】宇喜多秀家(〇)、蜂須賀家政(〇)、生駒一正(〇)、小西行長(×)、島津義弘(×)

【水軍】藤堂高虎(〇)、脇坂安治(〇)、加藤嘉明(×)、来島通総(戦死)、菅達長(〇)、同右八(〇)など ※軍目付-毛利友重(〇)

 

3.この後(左軍・中軍・右軍)は忠清道を侵攻した後、全羅道慶尚道に分かれて戻ります。(水軍)は忠清道に侵攻せず、全羅道沿岸を進撃していきます。

 その結果、以下のように在陣したと考えられます。

 

慶尚道在陣】≒【東目衆?】加藤清正(×)、毛利秀元(〇)、黒田長政(〇)、小早川秀秋(帰国)、浅野幸長(×)、毛利吉成(全羅道→(釜山)慶尚道)(×)

全羅道在陣】≒【西目衆?】宇喜多秀家(〇)、蜂須賀家政(〇)、生駒一正(〇)、小西行長(×)、島津義弘(×)、鍋島直茂(×)、長宗我部元親(〇)、池田秀雄(〇)、中川秀成(〇)、吉川広家(×)

【水軍】藤堂高虎(〇)、脇坂安治(〇)、加藤嘉明(×)、来島通総(戦死)、菅達長(〇)、同右八(〇)など 

 

 上記のように、特に、右軍≒慶尚道≒東目衆?左軍≒全羅道≒西目衆と考え、双方のグループ間での方針の対立(三城放棄か否か)がないか見てみましたが、各自バラバラの意見で、グループごとに統一した法則性はないと考えられます。

 特に、対立グループの中心であるとされる小西行長(西目衆?)加藤清正(東目衆?)の両方三城放棄意見書(十三将連署状)に署名してませんし、守城も放棄していないことと、右軍(=東目衆?)の大将である毛利秀元と、左軍(=西目衆?)の大将である宇喜秀家の両方三城放棄意見書(十三将連署状)に賛同し署名していることから考えれば、そもそも「『東目衆』と『西目衆』の方針を巡る対立」という対立構造そのものが存在しなかったことが分かります。

 そういった「東目衆」vs「西目衆」といった枠組みではなく、三城放棄賛成派(蜂須賀家政を中心とするグループ)VS三城放棄反対派(小西行長を中心とするグループ)という対立ならあったかもしれません。

 加藤清正を三城放棄賛成派と勘違いしている方がたまにいますが、加藤清正は三城放棄意見書(十三将連署状)に署名していませんし、守城(蔚山城)も放棄していないので、三城放棄賛成派ではありません。(常識的に考えても、自分が文字通り命をかけて死に物狂いで守った蔚山城をむざむざ放棄して敵にくれてやるような、自分の必死の努力を無にする案に加藤清正が賛成する訳がありません。)

※ ちなみに、これも勘違いされている方がたまにいますが、三城放棄意見書(十三将連署状)に署名した大名で、処罰された大名は、蜂須賀家政のみであり(黒田長政はそもそも十三将連署状に署名していませんが、実際に長政は梁山城の放棄を実行した当事者であるため、処罰されたと考えられます)他の十二将は一切処罰を受けていません

 連署状に署名した藤堂高虎脇坂安治に至っては、六月二十二日付でそれぞれ、一万石と三千石の加増を受けています。

 

(令和元年11月13日追記 おわり)

 

 次回は、第二部の書評を行います。(以下のエントリーです。↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 参考文献

笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦』文英堂、2000年)

高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』河出書房新社、2019年

津野倫明「朝鮮出兵と西国大名」(佐藤信藤田覚編『史学会シンポジウム叢書 前近代の日本列島と朝鮮半島山川出版社、2007年

中野等①『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

中野等②『戦争の歴史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

中野等③「石田三成の居所と行動」(藤井譲治『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)