古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

【書評】② 高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』~第一部 慶長三年三月~八月①

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前回の続きです。

 (前回のエントリーは↓)

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8.「浅野長政は「秀次」の影響により一時失脚していたが、慶長二年(一五九七)五月ごろには復権したようである。」(高橋陽介、p49) 

→相田文三氏の「浅野長政の居所と行動」によると、

「(筆者注:文禄5(1596)年)4月10日)、長政の身上に関わる事件により、伏見で騒動が起きた。(『言経』)。

 これにともない嫡子幸長が領国を取り上げられ、長政も政治的な影響力を失ったとされる(1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイス年報捕逸イエズス会』)。『加賀藩史料』にはこのさいのものと考えられる幸長能登行きの準備に関する文書が2通収められている(6月16日付三輪藤兵衛宛前田利家書状写 同月18日付三輪藤兵衛宛前田利政書状写)。従来幸長の能登行きは文禄4年の秀次事件に連座したものとされており、『加賀藩資料』も両文書を文禄4年に比定している。しかし、秀次事件は7月に起きており、それにともなう幸長能登行きの準備が6月に行われているのは不自然であり、翌年の4月の事件に関わるものと判断できる。

(中略)閏7月13日の畿内地震では、いち早く(筆者注:浅野長政が)伏見城の秀吉のもとへ駆けつけた(上記「ルイス・フロイス年報」)。このためか、4月の事件後能登に蟄居されていた幸長が召喚され、8月1日には黒田孝高よりその祝いと伏見の新屋敷についての書状を受けている(同日付長政宛黒田孝高書状『小浜市史』諸家文書編1)。同14日には伊達政宗より絶縁状を告げられているが(同日付長政宛伊達政宗書状『政宗2』)、この間も伏見にいたものと考えられる。」(相田文三、p325)

 

とあります。上記の記述が正しいとしますと、浅野長政の失脚は、文禄四(1595)年ではなく、文禄五(1596)年四月十日から閏七月十三日の間(多少前後するでしょうが)で、文禄五(1596)年閏七月~八月に復帰したことになります。(復帰したとしても、失脚以前の権力と地位に戻ったとは限らない可能性がありますが。)

 

 ただし、『イエズス会日本報告集』(第I期 第2巻、p292)にあるルイス・フロイス「1596年度年報捕遺」を読むと、ある人物が、(浅野長政・幸長親子)を「関白殿(秀次)の共謀の一味であったかのように」「太閤に報告した」とありますので、『イエズス会日本報告集』の記述を信じるならば、1年遅れの秀次との共謀疑惑の訴えにより長政親子は失脚したことになっており、失脚の原因はやはり、「秀次事件」の影響の可能性が高いといえます。

 その「ある人物」の名前は、『イエズス会日本報告集』でも明かされていません。(『イエズス会』、p292)

 

9.「なお、上杉景勝会津移封を「関東最大の領主である家康を(豊臣政権への反逆をくわだてないように)監視・牽制するため」とする俗説があるが、この説は成立しないだろう。」(高橋陽介、p50)

→元々、豊臣秀吉の対大名外交方針は、「和戦両様」、「警戒・監視しつつ、懐柔し取り込む」であり、それは相手が徳川家康でも上杉景勝であっても変わりません。後に秀吉の遺言で徳川家と上杉家との縁組が要請されていたように、両家が親密・協力関係をもって領国経営に携わるのは、豊臣政権としても望むところですが、その事と、どちらかが豊臣政権に牙を向くことがないように相互で監視しあえ、と秀吉が考えた、というのは両立する訳です。相手が反逆しないように相互監視させつつ、互いに友好・協力関係を築けというのは矛盾する話ではありません。

この時期の大名の外交に「信頼一辺倒、あるいは警戒一辺倒」というのはありえず、「信頼しているようにふるまっているから、警戒などしていなかったのだ」というのも成り立ちません。強大な武力を持っている勢力なので、潜在的にいつ反逆をしてもおかしくないものとして常に相手に警戒を怠らないのは戦国大名として当然のことで、油断すると本能寺の変のような事が起こります。「第二の本能寺の変を起こされてはいけない」というのは、秀吉としては当然の認識でしょう。

 

10.「余談だが、三成についても「豊臣政権へ反抗的な態度をとる蒲生氏郷を毒殺した」とする俗説がある。この説は明治時代の岡谷繁実『名将言行録』の創作であり、事実ではない。

 石田三成は蒲生家の減封にともない、それまで蒲生家家臣だった者たちを多く召し抱えた。その中には蒲生頼郷のような大身の者もいた。」(高橋陽介、p51)

→「「蒲生氏郷暗殺説」が創作であり、事実ではない事に同意します。

蒲生氏郷暗殺説」という創作は、江戸時代の向井重吉(1624~1694)の著した『会津旧事雑考』『会津四家合考』あたりが一番古いようです。(ただし、左の著作では、豊臣秀吉自身が氏郷に鴆毒を盛った説になっていますが。)

 延宝八(1680)年に国枝清軒に著された『続武者物語』に石田三成直江兼続が謀って蒲生氏郷を毒殺した話になっていますが、いずれにしても後世の創作である事には変わりません。

(詳細は、以前以下で検討しました。↓)

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11.島津義弘・忠恒宛三軍目付(福原長尭・垣見一直・熊谷直盛)書状の訳について

「すると少数の明軍が川を越え、山の上に陣取りました。」(高橋陽介、p53)

→原文は、「唐人河を越え、少々山に乗揚げ候といへども、」(笠谷和比古①、p139)です。

 「少々」は「山に乗揚げ」にかかっているのであって、明軍(唐人)が「少数」という意味ではありません。

 

12.「福原・垣見・熊谷ら三人の目付は、慶長三年一月三日の蔚山における合戦を「少数の明軍が攻めてきたが撃退した」と報告し、豊臣秀吉もそのように認識した。」(高橋陽介、p53)

→11.でみたように、「少数の明軍」は高橋氏の誤訳です。このため、事実として福原・垣見・熊谷は「少数の明軍」とは報告していませんし、当然秀吉もそのように認識はしていません。

 

13.「さきに秀吉は一月二五日付の朱印状(『黒田家文書』一一二号)で、黒田長政が「一月四日に明軍が撤退したとき、追撃して大勢の敵を討ち取った」とし、褒美として兵糧三〇〇〇石をあたえていた。秀吉の怒りはもっともであろう。」(高橋陽介、p53)

→高橋氏は、「明軍は少数で、ほとんど戦わず撤退した(ので、日本軍による追撃戦もなかった)」という前提で記述されており、このため、上記の黒田の報告も虚偽であるという認識だと考えられているようですが、この前提と認識は誤りです。

 前のエントリーの1.で書いたように、実際に蔚山城を攻囲した明軍は多数であり、日本軍は蔚山城の救援戦でこの明軍の大軍と戦い、不利と見て撤退した明軍に追撃が行われ、日本軍は『明書』に「士卒死亡殆二万」と書かれるような大損害を明軍に与えました。 

 黒田長政が「①当日の戦の先手当番であるにも関わらず合戦をしなかった」と「②撤退する敵を追撃して大勢の敵を討ち取った」とは矛盾せず両立します。

 「先手当番」とは、いわゆる戦の「先鋒」のことでしょう。「先手当=先鋒」とは名誉な事ではありますが、敵は敵襲に備えていて準備しており、そして未だ無傷な敵に最初にぶつかる訳ですから、自軍の損害も覚悟しないといけないかなり困難な役割でもある訳です。(だから「名誉」としないと、なり手がいなくなってしまうのですが)

 これに対して、戦意を失い算を乱して退却する敵を追撃して戦功をあげるというのは、士気が高く準備した敵を撃ち破るよりは比較的な簡単な訳です。

 だから、長政の行った事は「困難な「先手当番=先鋒」の仕事はせず、戦局が自軍優位に定まり、比較的楽な追撃戦になってから戦に参加して戦功をたてた」という事であり、あまり褒められることではありません。 

 ということで、「先手当番をしなかった」と「追撃戦に参加して戦功をあげた」というのは、特に矛盾せず、別々の行動として両立します。

 

14.「ただし、このときの先鋒として明軍に攻め込んだ吉川広家の後年の記述によると、黒田長政がその場にいたことは間違いないようである。」(高橋陽介、p53)

→「黒田長政がその場にいて吉川軍の働きをみていた」と、「長政が当日の戦の先手当番を務めなかった」ことは矛盾せず両立しますので、どちらも本当なのでしょう。

 

15.「先述のとおり、日本軍は蔚山を包囲していた明軍を戦闘によって打ち破って撤退させたわけではない。明軍による蔚山攻めの陣中にあった朝鮮の重臣・柳成龍は「明軍はほとんど戦闘をせずに撤退した」と証言している(柳成龍『懲毖録』)」(高橋陽介、p54)

→上記の高橋氏の見解は誤り(事実として、日本軍は蔚山城を包囲していた明軍を、後巻の軍(援軍)と城内の兵が挟み撃ちにして戦闘で撃ち破り、退却する兵を追撃して明軍に大損害を与えて撤退させている)であり、柳成龍『懲毖録』の該当の記述は不正確であることはここまでで詳述しました。

 

16.「しかし、日本軍は追撃戦によって戦果をあげることもできなかった。その責任は、当日先手当番であった蜂須賀家政黒田長政ら二名が負うべきものであると、福原長尭・垣見一直・熊谷直盛ら三人の目付は報告した。」(高橋陽介、p54)

→1.で前述したように慶長三年正月十二日の朝鮮在陣諸将宛秀吉朱印状には、「一、蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付(つき)て、各川を越へ、追討に数多く討ち捨つる由、聞し召し届候、」(笠谷和比古①、p132)とあり、秀吉も蔚山城の救援戦で追撃が行われ、数多くの敵を討ち取ったことを秀吉も認めています。

 このため、蜂須賀・黒田が先手当番を務めなかったことをもって、日本軍が追撃戦で戦果をあげられなかった訳ではありませんし、実際戦果もありました。このため、「追撃戦によって戦果をあげることができなかった」ことが蜂須賀・黒田が処罰を受けた理由ではありません。

 

17.「(筆者注:「七将襲撃事件」の将のうち、)加藤清正蔚山でのはたらきを慶長三年一月二五日に秀吉から褒められており、褒美として兵糧一万石をもらっている(徳川美術館所蔵豊臣秀吉朱印状)。福島(筆者注:正則)・長岡(筆者注:忠興)・池田(筆者注:輝政)らは蔚山合戦に直接関係していない。

したがって、蔚山合戦の論行功賞にいたる対立構造を生み出したとは一概にはいえないだろう。」(高橋陽介、p53~54)

 →こちらについては、次回のエントリー(「『七将襲撃事件』とはなんだったのか?」)で検討します。

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18.「石田三成は事件の起こったとき、大坂ではなく伏見にあった自分の屋敷にいたことが笠谷和比古氏によってすでにあきらかにされている。」

 →『言経卿記』(閏三月七日条)に「石田治部少卩入道(筆者注:石田三成)去四日(筆者注:閏三月四日)ニ大坂ヨリ伏見ヘ被行也云々、今日も騒動了、」(白峰旬、p36)とあります。閏三月四日は、前田利家が亡くなった翌日、まさに「七将襲撃事件」の起こった日です。「騒動」とは、「七将」の「襲撃事件」を予定した行動を指すと考えられます。この日、三成は大坂から伏見へ移動したのであって、すでに伏見にいた訳ではありません。(笠谷氏も、三成が事件当時伏見の自分の屋敷にいたとは書いていません。)

『言経卿記』の慶長四年三月廿九日条には、「一、(中略)一昨日ヨリ大坂ニ雑説有云々、」(白峰、p36)とありますので3月27日には、既に大坂には「雑説」があった訳です。

 3月29日には、「伏見」では一段と騒ぎ(「さハき」)があった(『北野社家日記』)、閏三月朔日には、「伏見では物騒(「物忩」)とのことである」(『多聞院日記』)(白峰旬、p38、p41、p45)と「騒ぎ」「物騒」とありますが、これは何の騒ぎなのか史料からは詳細が分かりません。伏見にいる五奉行の他の誰か(後の書状を見ると増田長盛?)も「襲撃」のターゲットだったという可能性も考えられます。

 石田三成は、この「襲撃」の情報を事前に察知して(笠谷氏によると小西行長宇喜多秀家らと相談の上、かねてから昵懇の佐竹義宣の助けを得て大坂を逃れて伏見へ至った(笠谷和比古②、p16~17)ということになります。

 石田三成が移動した先は、伏見城内の「治部少丸」という自分の屋敷です。(笠谷和比古②、p16~20)つまり、石田三成は「伏見城内」に入城した訳です。この頃の伏見の徳川家康の屋敷は伏見城外の向島にあり、家康は伏見城を掌握している訳ではありませんでした。このため、俗書にある「伏見の家康の元(家康の勢力圏内)のに逃げ込んだ」というのは、実質的な意味でも比喩的な意味でも誤っていることになります。

 

19.「近年の研究では、二〇一六年、水野伍貴氏が、加藤清正らの諸将は徳川家康石田三成の処断を要求したものであり、襲撃はしていないという見解をしめされた。(『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』)

 二〇一八年には白峰旬氏が水野氏の説を一次史料の精査により進化された(「豊臣七将襲撃事件(慶長四年閏三月)は武装襲撃事件ではなく単なる訴訟騒動である-フィクションとしての豊臣七将襲撃―」>。)白峰氏はさらに、二〇一九年、事件の調停をしたのは毛利輝元であるとの見解をしめされた〈「慶長四年閏三月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」〉。」(高橋陽介、p55~56)

→上記については、次回のエントリー(「『七将襲撃事件』とはなんだったのか?」)で検討します。

※次回のエントリーです。↓

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 次回のエントリーに続きます。

 

 参考文献

相田文三浅野長政の居所と行動」(藤井譲二編『織豊期主要人物居所集成』、2011年)

白峰旬『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社、p2019年

笠谷和比古①「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦』文英堂、2000年)

笠谷和比古②『戦争の日本史17 関ヶ原合戦大坂の陣吉川弘文館、2007年

高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』河出書房新社、2019年

松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期第2巻』同朋舎出版、1987年