古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十二「七将襲撃事件」とは何だったのか?①

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 慶長四年閏三月三日、豊臣政権の五大老の一人、前田利家が死去し、その翌日の閏三月四日、いわゆる「七将襲撃事件」が起こります。

 以下では、「七将襲撃事件」について検討します。

 

1.(~慶長三年閏三月四日)「七将襲撃事件」の経過について①

 

 通説によると、かねてより、石田三成「奉行衆」に遺恨を抱いていた「武断派」大名(=「七将」)が、その抑えとなっていた前田利家が死去したことにより、その不満が爆発し、「奉行派」の代表である大坂の石田三成を「襲撃」したという事件になります。

 しかし、その「襲撃」を事前に察知した石田三成は、大坂を脱出して伏見に移動し、伏見城内の屋敷に籠ります。後を追った七将は徳川家康に三成の非を訴え、結局調停の末、石田三成佐和山への閉口(隠遁)が決定され、三成は中央政界から追放されることになる、というのが主な流れとなります。

 

「七将襲撃事件」の時系列を整理します。いずれも慶長四(1599)年の事です。

 

三月二十七日 『言経卿記』の慶長四年三月廿九日条に、「一、(中略)一昨日ヨリ大坂ニ雑説有云々、」(白峰旬、p36)とあり、三月二十七日には、既に大坂には「雑説」がありました。

三月二十九日 「伏見」では一段と騒ぎ(「さハき」)があった(『北野社家日記』)

閏三月朔日  「伏見では物騒(「物忩」)とのことである」(『多聞院日記』)(白峰旬、p38、p41、p45)と「騒ぎ」「物騒」とありますが、これは何の騒ぎなのか史料からは詳細が分かりません。

伏見にいる五奉行の誰か(後の書状を見ると増田長盛?)も「襲撃」のターゲットだったという可能性も考えられます。

閏三月三日 前田利家死去(「高徳公記」、「増訂加納」輔遺495)。(閏三月四日説もあり(「鶴田家文書」(尾下成敏『居所集成』・前田利家、p218)

閏三月四日 『言経卿記』(閏三月七日条)に「石田治少卩入道(筆者注:石田三成)去四日(筆者注:閏三月四日)に大坂ヨリ伏見へ被行也、云々、今日も騒動了、」(白峰旬、p36)とあります。閏三月四日は、前田利家が亡くなった翌日、まさに「七将襲撃事件」の起こった日です。

「騒動」とは、「七将」の「襲撃事件」を予定した行動を指すと考えられます。

 石田三成は、この「襲撃」の情報を事前に察知して(笠谷氏によると小西行長宇喜多秀家らと相談の上、かねてから昵懇の佐竹義宣の助けを得て大坂を逃れて伏見へ至った(笠谷和比古、p16~17)ということになります。

 笠谷氏の記述によると、「秀吉の死の前後から関ヶ原合戦に至る時期の政治情勢の推移をかなり忠実に記した『慶長見聞書』には、七将の襲撃計画をめぐって、「治部少輔(筆者注:石田三成)を女の乗物にのせ、佐竹(佐竹義宣)と同道して浮田宇喜多秀家)居られ候備前嶋へ参り談合あり。内府(徳川家康)へ此事を申入れ、何とそ無事に仕るべき由にて伏見へ赴く。秀家より家老をそへ佐竹同道あり。伏見にて治部少輔屋敷は御本丸の次、一段高き所なり」と記す。そして七将は伏見まで追いかけて来たけども、「城へ入べき様なければ向島に控え、此由を家康公へ申入れらるゝ」とするのである。」(笠谷和比古、p18)ということです。

 

 石田三成が移動した先は、伏見城内の「治部少丸」という自分の屋敷でした。(笠谷和比古、p19)上記の『慶長見聞書』の他、家康の侍医板坂卜斎の『慶長年中卜斎記』にも「治部少、西丸の向の曲輪の屋敷へ参着」、後年の軍記が宮川尚古の『関原軍記大成』にも「光成の城内に入りて、わが屋敷に楯籠もる」とあり、(笠谷、p18)つまり、石田三成は「伏見城内」の「曲輪の屋敷(治部少丸)」に入城した訳です。

 この頃の伏見の徳川家康の屋敷は伏見城外の向島にあり、家康は伏見城を掌握している訳ではありませんでした。このため、俗書にある「伏見の家康の元(家康の勢力圏内)に逃げ込んだ」というのは、実質的にも比喩的な意味でも誤っていることになります。

 

 近年、歴史学者の白峰旬氏は「七将襲撃事件は「武装襲撃事件」ではなく「単なる訴訟騒動」である」説を唱えておられます。この説が正しいか、上記までの流れをみて検証してみます。

 

 三月二十七日には、大坂で「雑説」があり、三月二十九日は伏見で一段と「さハき(騒ぎ)」があり、閏三月一日には、伏見では「物騒」とのことでした。

 これらは、「反奉行派の武将」が「奉行衆」を「襲撃」するという「雑説」や、それに伴う「騒ぎ」が起こったということなのでしょう。

 ここで、注意したいのは、「騒ぎ」があったのは、伏見と大坂であり、「奉行衆」の誰が「襲撃」の標的だったのかが不明だったという事です。後のエントリーで後述しますが当時の史料を見ると、石田三成一人が「襲撃」の標的だったとは限らず、「奉行衆」全体が標的であった可能性があった訳です。

 閏三月四日に至り、「襲撃」の情報を事前につかんだ石田三成は、宇喜多秀家佐竹義宣と相談し(宇喜多・佐竹と相談したのは、彼らが大坂に居住していたからでしょう。)、彼らの協力を得て「襲撃」される前に大坂から逃れて伏見へ行っています。そして伏見では、前述したように伏見「城内」の自分の屋敷(治部少丸)に籠っています。

 この時点で既に三成は大坂の自分の屋敷にはいない訳ですから、存在しない者を七将は「襲撃」しようがありません。三成が伏見にいることが七将に分かった後は、伏見城内に三成は籠っている訳ですから、七将はまさか「伏見城」を「襲撃」するわけにもいかない訳です。(「伏見城」を襲撃してしまったら、当然、豊臣公儀に対する明白な叛逆になってしまいます。)七将のできることは実質的に家康に訴えることぐらいしかない訳であり、事実として「襲撃事件」が起こらなかったのは「襲撃前に事前に察知した石田三成が大坂から伏見に逃げたため、七将の空振りになった」という事にすぎません。

(白峰氏の説ですと、閏三月四日に三成が大坂から伏見に移動した理由について明らかにされていませんので、この時点で解釈の前提がずれてしまってきていると考えられます。)

 

 このため、「襲撃事件」が起こっていないのは「結果」として当たり前の話なのであり、その結果、七将は「家康に訴える」という手段しかなかったのです。閏三月四日に三成が大坂から伏見城内へ移動した後は、七将が武力襲撃できる余地はなく、訴訟合戦に計画は移行したことになります。

 

 白峰氏は、「③よって、三成は大坂城で諸大名とトラブルがあったために、伏見へ移ったわけではなかった。(三成は、敵対する諸大名を避けるために、大坂から伏見へ逃げてきたわけではない)」(白峰旬、p42)と記述されていますが、閏三月四日に三成は大坂から伏見に移動して大坂には不在となってしまって、実際の「襲撃」は実行できなかった(逆に「襲撃」が実行されていたら、三成は大坂を脱出できなくなる)、ので、大坂で諸大名とのトラブルが日記等の一時史料に記述されていないのは当たり前で、日記等の一次史料に記載されていないことをもって、「襲撃事件」計画がなかったことを確定できる訳でもありません。

 このため、当初からの七将の「計画」が「襲撃」ではなく「単なる訴訟騒動である」と確定はできません。(ただし、以下のような「(武家としての)『訴え』『訴訟騒動』」を起こす事が、当初からの目的だった可能性も勿論あり得えます。)

 また、「単なる」という修辞もちょっと違う印象を受けます。当時の「騒動」の「訴え」方とは、訴えたい武将の屋敷を敵対する武将たちが武装した兵を率いて取り囲み、訴えられた武将が逃げられないようにして、その上で本人に切腹しろ(つまり「死ね」)等と、「恫喝・要求」するものです。

 上記のような「騒動」は、確かに「当時における普通の(武家の)訴訟騒動」といえるのかもしれませんが、現代的な言葉で「単なる訴訟騒動」としてしまうと、まるで現代的な公平で平和な裁判をやっているかのような錯覚をしてしまいますので、あまり語の使い方としては違和感を抱きます。

 近年のこの頃の「新説」を見ますと、「①一次史料を見ると⇒②結果として「〇〇事件」は発生していなかったことがわかる⇒③よって、〇〇事件を『起こそうとする計画』そのものがなかった」という解釈する「新説」がみられる傾向があるように見受けられます。

 しかし、最初に何かの陰謀や計画があったとしても、その後の事情の変化や、あるいは交渉によって、その計画が計画どおり実行されるとは限りませんし、「計画」は、後に起こる事象によって変更・断念される可能性も当然ある訳です。

 その発生しなかった「結果」をもって、「計画」そのものがなかったと断定するのは、「結果論」といえるでしょう。

 

 と、ここまで書いておいてですが、個人的な意見を述べますと、「襲撃」というのが、「ある人物を『殺害するために襲撃する』」という意味であれば、「七将」がそうした意味の「襲撃」の計画をした可能性は実際きわめて低いでしょう。なぜなら、豊臣公儀の許可を得ず、勝手に豊臣公儀の奉行を殺害してしまうのは、公儀への反逆ととられて当然であり、殺害した瞬間、殺害犯は「豊臣公儀の反逆者」になってしまうからです。

 そのような「公議の反逆者」になってしまう手段を使うのではなく、相手方を武装した兵で取り囲んで屋敷に閉じ込め、公儀に相手方の非を訴え処罰(切腹)させれば、「合法的に(?)」相手方を葬りさることができます。特に公儀の実力者がバックについていて、自分の訴えを取り上げて、自分に有利な裁定をしてくれることが確実ならば、こちらの方が明らかに有効な手段といえるでしょう。

 

 次回に続きます。

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 参考文献

尾下成敏「前田利家の居所と行動」(藤井譲治『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦大坂の陣吉川弘文館、2007年

白峰旬『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社、2019年

白峰旬「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動」である : フィクションとしての豊臣七将襲撃事件」http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04810