古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十三「七将襲撃事件」とは何だったのか?②

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 前回の続きです。

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2.(慶長三年閏三月五日~)「七将襲撃事件」の経過について②

 続いて、閏三月五日以降の流れを見ていきます。

 

「慶長四年閏三月五日付浅野幸長徳川家康書状」(a)(中村孝也、p398)で、「七将襲撃事件」の「七将」の一人である浅野幸長が部下の人数を連れて伏見に赴く旨を家康は了承し、委細は幸長父の長政が伝えるとしています。七将の一人である幸長が人数を率いて伏見に入るのを家康は認めた訳であり、この書状から、家康は七将と事前に繋がっていることが分かります。また、ここから、この「七将襲撃事件」自体が「内府方」の「七将」を使って家康が裏で糸を引いている事件なのだという事だということになります。

 また、この件では幸長父である長政が、家康の委曲を伝えている訳であり、奉行衆でありながら長政も「内府方」として家康の側近くにおり、委曲を七将に伝えるなど、家康に積極的に協力していることが分かります。 

 

「慶長四年閏三月五日付七将宛徳川家康書状」(b)(中村孝也、p398~399)では、七将からの二度の陳情を家康が受けていることが記され、また七将に三成が伏見に来てる事を家康は伝えます。(前日の閏三月四日に石田三成は大坂から伏見城内の治部少丸に移動しました。)

 

 この家康書状に七将の宛名が明記されており、ここから「七将」とは、加藤清正浅野幸長蜂須賀家政福島正則藤堂高虎黒田長政・長岡(細川)忠興だということが分かります。

 七将の陳情に対しては、家康はこの時点での処置の確答は保留しています。(これは他の大老との交渉がまだ定まっていなかったからでしょう。)この書状より、「七将」の「訴訟」の訴え先は、大老徳川家康であり、他の大老ではないことが分かります。(白峰氏が主張するように、「七将」の訴え先が「不明」(白峰旬①、p65)な訳ではありません。)

 また、この書状には、利家没後の大坂城における「御番」は「両人」の申す通りにするが宜しい(「其地御番之儀、両人如被申候被成之由尤候、」)と記されていますがこの「両人」の名はこの書状では明かされていません。

 私見ですが、この「両人」とは、日付欠の毛利元康宛毛利輝元書状(※)において輝元に、「内府方」と指摘された(光成準治、p36)(白峰旬②、p145)片桐且元小出秀政の事を指すと考えられます。

 

上記の輝元書状(日付欠の毛利元康宛毛利輝元書状)の一部について以下に引用します。

「① 一 a自治少・小西・寺沢被越候ハねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる、 b於于今ハ仕合候条、自此方可被仕懸候、左候ハヽ、c輝元天馬のことく罷下陣取、 あまさきへ持つゝけ候様ニと被申候事、

 ② 一 d面むきハさ様申候か、彼衆申候所ハ御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり、不入立之由候事、(中略)

③ 一 g上様被仰置之由候而、昨日、内府・景勝縁辺之使、互ニ増右案内者にて調候、内心ハ それニハそミ候ハす候、h公儀ハ上様御意まゝと景勝ハ被申由候へとも、是もしれぬ物にて候〱、とかくはやよいめに成行候間、爰ハ分別之ある所候、

 ④ 一 i御城つめニハ、こいて・かたきりなと居候、是ハ内府かたにて候、如此候時ハ、何も かもいらさる趣候、(後略)」(白峰旬②、p145~145。①~④の付番は筆者)

 

 ④の文に出てくる小出秀政、片桐且元ですが、元々彼らは大坂城の門の守備を担当している訳ですので、大坂の「御番」をしていた前田利家死後は「大坂の御番」を自分達二人が直接担当すると家康に言上し、そのまま認められたという事でしょう。この二人が「内府方」に付く事により三成は、大坂城に入城することもできず、かえって大坂にいるのは危険な状態になってしまいました。

 ②の文を見ると、「此の方衆」つまり石田三成ら(浅野長政を除く)奉行衆・親奉行派(毛利輝元ら)等の「家康牽制派」は、大坂城の(小出秀政、片桐且元ら)「内府方」により大坂城から締め出されてしまったようです。このため、三成は大坂離脱を余儀なくされ、伏見に移動してきたという事になります。

 また、この上記の書状により、「七将=襲撃してくる『敵方』」は「内府方(徳川方)」であると、三成と輝元は共通に認識していたことが分かります。

 

(※) 光成準治氏は、この日付欠の毛利元康宛毛利輝元書状(【46号文書】 (『山口県史』史料編・中世3、光成本のA文書)を慶長四年(1599)閏三月に比定していますが、白峰旬氏は、慶長五年(1600年)六月上旬のものと比定しています。(白峰旬②、p147)どちらの年代比定が正しいのでしょうか?

 この書状について、私見を述べさせていただくと、

A そもそも、この書状が仮に慶長五年六月のものとすると、この書状は、三成を首謀者とする家康打倒のための事前謀議に輝元が加わっていたということを示す証拠文書になってしまいます。このような危険な文書を毛利家がわざわざ保存して残すとはちょっと考えられません。

B ①の文に「自治少・小西・寺沢被越候」(白峰旬②、p144)

「治少より、小西(行長)・寺澤(正成)越され候わば、」(光成準治、p35)

とあり、慶長五年六月と比定すると、佐和山で隠居しているはずの三成が小西・寺澤に指示を出して輝元の元へ派遣できる権限を有していたということになり、極めて不自然です。

 特に、慶長四年閏三月に三成が失脚して慶長四年四月に起こった庄内の乱以降、寺澤正成は家康に急接近しています。慶長五年六月の時点では親徳川派に転じていたと考えられる寺澤を、三成が反家康の密議の使者に使うというのも考えにくいです。白峰氏の訳ですと、石田三成小西行長・寺澤正成の連署状ということになっていまが、いずれにしても寺澤正成が入っているのは不自然ということになります。

C ③の文によると「昨日、内府(徳川家康)・(上杉)景勝縁辺の使、互いに増右(筆者注:増田長盛)案内者により調い候、」(光成準治、p36、白峰旬②、p145)とあります。

 昨日、増田長盛の案内により徳川家と上杉家の縁談が調った(実際には実現していませんが)とする記述ということになりますが、慶長五年六月の段階では既に上杉征伐は決まっており、六月十六日に家康が総大将となり軍を率いて会津へ向けて大坂を出発する状況になっています。この頃に、徳川家と上杉家の縁談が進められ調った、あるいはそのような交渉がされていた、という事自体が考えられないことです。長盛が嘘をついている可能性もある、という反論もあるかもしれませんが、そもそもこのような非現実的な嘘を輝元に対して長盛が言う意味がありませんので、これも極めて考えにくいことです。

 以上のA~Cの理由により、「日付欠の毛利元康宛毛利輝元書状」は慶長五年六月のものとは考えられず、慶長四年閏三月に比定されるべきと考えます。

(上記の【46号文書】 (『山口県史』史料編・中世3、光成本のA文書)「日付欠の毛利元康宛毛利輝元書状」については、(光成準治、p35~38、白峰旬②、p144~145)に記載されています。「日付欠の毛利元康宛毛利輝元書状」は複数ありますが、上記では【46号文書】のみ指摘しています。)

 

閏三月六日条 「ふしみに御さうせつものよしさたあり。」(『お湯殿の上日記』)(白峰旬①、p41)

 

閏三月七日条

「一、石田治卩正輔卩入道、去四日ニ大坂ヨリ伏見へ被行也云々、今日も騒動了、

 一、伏見雑説ニ付而京都騒動了、」(『言経卿日記』、白峰旬①、p36)

閏三月七日条「世上静謐、珎重、」(『義演准后日記』、白峰旬①、p38)

閏三月七日条「大坂・伏見以外さハき申、石田治部殿を福嶋大夫殿・摂州なと其外大名衆御申合候て、はら御きらセ候ハん由風聞申、」(『北野社家日記』、白峰旬①、p39)

閏三月七日付鍋島信房・石井生礼・鍋島生三宛鍋島勝茂書状には、「(前略)上記の石田三成に対する訴訟の関係で三成以外に、さらに二~三人がこのままでは済まない可能性(敵対する大名からの訴訟の対象になる可能性)がある。(伏見では)現在も弓・鑓を寄せ集めて、走ってきて出会うことをしていて、このことは止まない状況である。(後略)」(白峰旬①、p56)とあります。

 

「閏三月八日付藤堂高虎徳川家康書状」(d)(中村孝也、p400)にて、家康は高虎へ返書を送っています。

 高虎は特に念を入れて大坂の状況を伏見の家康に報告していたことが、この書状の記述に示されています。「七将」の一人である高虎は「内府方」として大坂の情報収集をして、家康に詳細な報告をしていた訳です。これに対して、家康は伏見も平穏であると高虎に返しています。この書状からも、家康が「七将」と連携・協力し、情報交換をしつつ、政敵である「奉行衆」と主体的に対峙していたことが分かります。(中村孝也、p400)

 

閏三月八日条 「一、伏見雑説、太閤政■(※)御アツカイニテ無事成也云々、珎重々々」(『言経卿記』、白峰旬①、p36)((※)■・・・字が変換できませんでした。「所」の意と思われます。)

 

閏三月八日条 

「天気快晴、伏見へ罷越、各大名衆見廻申、大谷形部少殿ニて各無事ノ様子承、

 一、中納言殿廻申、振舞有之、」(『北野社家日記』、白峰旬①、p39~40)

 上記から、北政所大谷吉継毛利輝元もこの事件の仲介に入っていたことが分かります。

 

閏三月九日条「伏見、治部少輔・衛門尉・徳善院一所二取籠由候、乍去曖在之由候、」(『多聞院日記』、白峰旬①、p41)

 この時点で、石田三成増田長盛前田玄以伏見城に籠っていたことが分かります。

 上記について、白峰氏は「伏見では、石田三成増田長盛・徳善院玄以が「一所」にとじこもったが、扱い(=仲裁)があったということである。」(白峰旬①、p46)としており、「これまでの通説では、石田三成が籠った場所は伏見城内の三成の屋敷であり、その理由は、豊臣七将の襲撃に対する軍事抵抗と理解されてきたが、豊臣七将襲撃事件がフィクションであると勘案したうえで、三成一人ではなく、増田長盛・徳善院玄以(つまり五奉行のうちの三人)も伏見における「一所(=一つの場所)」に籠ったということからすると、政治的な謹慎と言う意味にとらえられる(軍事的抵抗であれば、三成一人が籠ればよかったはずである)」(白峰旬①、p49)と解釈していますが、後述するように「他の奉行も七将から「襲撃」される可能性があり、他の奉行衆も「襲撃」を警戒する必要があった」とすると、他の二人の奉行も「襲撃」に備えるために伏見城に籠るのは、何の不思議はないことになります。奉行衆にとって、伏見城内が一番安全だからです。

 

*この時点(閏三月九日)での、五大老五奉行の居所(想定です)

伏見・・・

徳川家康(伏見の向島屋敷)、

毛利輝元(中野等『毛利輝元・居所集成』、p231~232)、

上杉景勝(尾下成敏『上杉景勝・居所集成』、p266~267)(毛利輝元上杉景勝については、直接書かれていませんが、前後の居所から考えると閏三月にも伏見が居所だったことが考えられます。)

石田三成増田長盛前田玄以長束正家(秀吉遺言により長束は伏見在住、『多聞院日記』閏三月九日条より石田・増田・前田は伏見在住、浅野長政(閏三月五日付浅野幸長徳川家康書状から長政も伏見在住が想定される。)・・・この時点で、伏見に五奉行が集結し、大坂に五奉行がいない事態になったことが想定されます。

大坂・・・

前田利長前田利家は秀吉遺言で、慶長四年一月から大坂にいたため、息子の利長も引き続き大坂の前田屋敷に居住していると考えられる。)

宇喜多秀家(秀家も秀吉遺言により、義父の利家とともに慶長四年一月に大坂へ移動し、そのまま大坂に居住していると考えられる。↓)

(※ 参考エントリー)

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「閏三月九日付福島正則蜂須賀家政浅野長政徳川家康書状」(d)(中村孝也、p400~401)にて「石田三成佐和山に閉口」処分に決定され、翌日(十日)に佐和山へ向かう事、前日(八日)に、三成の嫡男重家が伏見向島の家康の元に到着した事を、家康は「七将」の福島正則蜂須賀家政浅野長政に知らせています。

 

(a)~(d)の徳川家康書状を見ると家康と「七将」が事前から繋がっているのは明らかであり、「七将」と協力して情報交換も密に行いながら、当事者として主体的に家康がこの事件を処理していることが分かります。この事件の当事者は徳川家康自身であり、「七将」は「内府方(徳川方)」として動いていたということです。

 家康がこの事件の「善意の仲裁者」という事はありえず、追及された奉行衆と親奉行衆の大名も、「七将」の背後に家康がいることは当然の前提として事件の対処を迫られています。調停に動いている大谷吉継増田長盛毛利輝元らも、家康を相手に交渉をしている訳です。 

 また、後の文書になりますが、慶長五年七月十七日に三奉行が家康を弾劾した書状(「内府違いの条々」に、

「一、五大老五奉行の間で相互信頼の誓詞を取り交わしたにもかかわらず、いく程もなく奉行二人(浅野長政石田三成)を逼塞においこんだこと。(中略)

 一、若い衆を教唆先導して徒党を立てさせたこと。(後略)」(笠谷和比古、p37・42)とあり、「七将襲撃事件」を起こした張本人が徳川家康であると三奉行は認識していたことが、ここからも分かります。

 

「閏三月九日付(と推定される)毛利輝元毛利輝元書状」(他の書状の状況との一致により閏三月九日付の書状と光成準治氏はしています。(光成準治、p50)

「aあつかい調、治少ハ佐ほ山へ被罷越、息ハ大坂へ被罷居、秀頼さまへ御奉公候へとの事候、 b為一礼夕部、内府息被罷越候、c右之趣不存候てやらん、夜前も所ニより大さわき候つる、 d安国寺やかて治少へ被罷越候、弥様子可聞之候、e内府へも被参候而万被申談候へかしと 申候、f気分悪せうし千万候、御気分如形候ハヽ、後刻可有御出候」(白峰旬②、p148。光成準治、p50~51にも同書状記載)

毛利輝元も調停(仲裁)に加わり、結着がついた訳ですが、その調停結果に対して輝元は非常に不満であったことが、「f気分悪せうし千万候、」から分かります。

 

閏三月九日条「伏見申事、弥無■儀、云々、(■=上が已、下が大)」(『義演准后日記』、白峰旬①、p38)

閏三月九日条「石田治部少輔与七人大名衆、伏見申合在之、然共捄(ママ)内府家康ヨリ中(ママ)■此事云々、治部江州佐保山城江隠居、」(■=上がやねかんむり、下が小)

(『舜旧記、白峰旬①、p38』)

 

閏三月十日条「一、石田治卩少輔入道之事、無事ニテ早朝近江国佐保山へ隠遁也云々、京・伏見方々悦喜了、」(『言経卿記』、白峰旬①、p37)

閏三月十日条「石田治部少輔江州サヲ山ノ城へ隠居、大名十名トヤラン申合訴訟云々、内府家康■見云々、」(■=上が已、下が大)(『義演准后日記』、白峰旬①、p38)

閏三月十日条「天気快晴、今朝石田治部少殿さほ山へ下、治少隠居也、隼人殿ニ家をゆつり被申候、熊半次・福原馬助なとは高野へ御参由、風切(ママ)(説ヵ)申候、」(『北野社家日記』、白峰旬①、p40)

閏三月十日条「石治部少輔江左へ隠居、」(『三藐院記』、白峰旬①、p40)

 

閏三月十一日条「石田治部、佐保山へ家康子人質に取置候て城へハイリ候、先々静二成候、

(『多聞院日記』、白峰旬①、p41)

 石田三成が家康の子を人質に取った記述から、この事件の交渉の相手方は徳川家康であったことが分かります。(閏三月九日付の家康書状から、家康も三成の嫡男を人質に取っています。)

 

閏三月十二日条「内府家康、伏見西ノ丸へ被移云々、諸人大慶、」(『三藐院記』、白峰旬①、p40)

 

閏三月十三日条「一、伏見御城へ内府御移也云々、」(『言経卿記』、白峰旬①、p37)

 

閏三月十四日条「十三日午刻、家康伏見之本丸(ママ)(西の丸ヵ)へ被入由候、天下殿二被成候、目出候、」(『多聞院日記』、白峰旬①、p41)

 

 以上見てきたように、「七将襲撃事件」という「訴訟騒動」は、「内府方」の優位に交渉が進むことになり、交渉の結果として、「石田三成佐和山隠居」と「徳川家康の伏見入城」という「政治的勝利」を「内府方」は得ることになります。

 なぜ、このように、この「訴訟騒動」が内府方に優位となったかといえば、大坂城が「内府方」に占拠されてしまったことによるものでしょう。本来、大坂城を守護すべき前田利家が死去した間隙をぬって、大坂城の「御番」を「内府方」の小出秀政・片桐且元が指揮する形にしてしまった訳です。これにより大坂城から「家康警戒派」は排除されてしまうことになります。奉行衆の中で唯一大坂に残っている石田三成も、七将の「襲撃」を回避するために、大坂を離脱して伏見に行かざるを得なくなります。大坂城を「内府方」に握られた以上、「家康警戒派」の勝ち目はなく、「内府方」に譲歩・屈服せざるを得ないというのが、「家康警戒派」の出した結論でした。

 この事件(政争)に「勝利」した家康は、徳川警戒派を屈服させることに成功し、その政治的勝利の証として、伏見城の二の丸に入城することになります。これは、この「事件」が「戦争」に発展し京都が戦場になることを恐れていた諸人にとっては大慶であり、戦争をせずに家康警戒派を屈服させ、伏見城に入城した家康の権威は高まり、家康を「天下殿」と呼ぶ者もあらわれるようになったということになります。

 次回は、「3.「七将襲撃事件」の「襲撃対象者」は誰だったのか?」について検討します。

(次回のエントリーです。↓)

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 参考文献 

尾下成敏「上杉景勝の居所と行動」(藤井譲治『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

中野等「毛利輝元の居所と行動(慶長5年9月14日」(藤井譲治『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦大坂の陣吉川弘文館、2007年

白峰旬①『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社、2019年

白峰旬②「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利 輝元書状(「厚狭毛利家文書」)の解釈について」

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk02109

白峰旬③「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動」である : フィクションとしての豊臣七将襲撃事件」

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04810

中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究〈新装版〉中巻(オンデマンド版)』、吉川弘文館、2017年

光成準治関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』角川ソフィア文庫、2018年