古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十五「七将襲撃事件」とは何だったのか?④

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 前回の続きです。(前回のエントリーは、↓)

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 慶長四年閏三月三日、豊臣政権の五大老の一人、前田利家が死去し、その翌日の閏三月四日、いわゆる「七将襲撃事件」が起こります。これまで、「『七将襲撃事件』とはなんだったのか」を追ってきましたが、以下では1.「『七将』とは誰のことを指すのか?」と2.「『七将襲撃事件事件』その後」について説明します。

 

1.「七将」とは誰のことを指すのか?

「七将襲撃事件」の「七将」とは、「慶長四年閏三月五日付七将宛徳川家康書状」(中村孝也、p398~399)から加藤清正浅野幸長蜂須賀家政福島正則藤堂高虎黒田長政・長岡(細川)忠興であることが分かっています。

以下に、この「七将」が、「七将襲撃事件」に参加したかを考察します。

 

加藤清正・・・加藤清正は、文禄の役時の講和交渉方針を巡って小西行長及び三軍目付(石田三成増田長盛大谷吉継)と対立したことにより、関係が悪化します。(ただし、石田三成の讒言によって清正が謹慎処分となったという史実はありません。)この時は、加藤清正小西行長を秀吉に糾弾して、行長の失脚を求めている訳で、小西行長とそれを支持する三目付の方が、加藤清正の「讒言」により、失脚する可能性もあった訳です。

 どちらが失脚してもおかしくない批判合戦を両派(加藤清正VS小西行長+三軍目付)は繰り広げていた訳ですが、秀吉は実際にはどちらも処分しませんでした。

 なぜ、秀吉がどちらも処分しなかったというと、「和戦両様」の二枚舌外交で両部下たちにその一舌を担わせて両者を競わせ、そのうち実際に自分にとって有利な判断を選ぶのが秀吉の意思であったからです。結局のところ、加藤清正小西行長らも秀吉の思惑の下で踊らされる駒にすぎなかった訳です。しかし、このような秀吉の二枚舌外交の道具として使われた同士は互いに互いに対して激しい憎悪を抱くことになり、秀吉死後も禍根として残ることになります。

 

浅野幸長・・・父浅野長政石田三成増田長盛と宇都宮氏・佐竹氏の処分方針を巡って対立しています。石田三成増田長盛は、以前宇都宮国綱の取次を務めていましたが、後に宇都宮家は浅野長政の与力となります。しかし、年に宇都宮は突如改易の処分を受けることになり、これには浅野長政の関与があったといわれます。更には石田三成が取次を務めていた佐竹家も連座されそうな事態になります。

石田三成増田長盛はこれ以来、浅野長政・幸長親子と仲がうまくいってなかったと考えられます。

 

蜂須賀家政黒田長政・・・慶長の役の際に蜂須賀家政黒田長政が処罰される事件が起こりますが、戦況を報告した軍目付の福原長尭の縁戚が石田三成であり、これを遺恨に思ったことが理由とされます。このことについては、後述します。(※)

 

福島正則蜂須賀家政・(黒田長政加藤清正・・・福島・蜂須賀は徳川家との婚姻を「私婚違約」だと四大老五奉行によって糾弾されます。この四大老五奉行の糾弾を主導したのが奉行衆(特に石田三成)だとみなされ、遺恨に思われたのが理由と考えられます。(また、この時期から、黒田長政は内々に徳川家との婚姻を進めていたようです。ちなみに、加藤清正と徳川家の縁辺が「七将襲撃事件」後に進められ、清正は家康の養女を嫁に迎えることになります。)

 

 上記のように、加藤清正浅野幸長蜂須賀家政黒田長政については、秀吉の生前から、(浅野長政を除く)奉行衆(前田玄以増田長盛石田三成長束正家)と何らかの政治方針の対立・遺恨があり、秀吉の死によって対立が深刻化したということになります。

 福島正則については、秀吉の生前には対立するような具体的理由はありませんでしたが、徳川家の縁辺の儀を四大老五奉行に阻まれていますので、これは正則が「家康派」に近づき、「奉行派」を敵視する理由になったのでしょう。

 

 藤堂高虎については、特に藤堂高虎は秀吉晩年より家康に急接近しているため、「親家康派」として、「家康警戒派」の「奉行衆」を排除するために動いたということになると考えられます。(中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究〈新装版〉中巻(オンデマンド版)』をみると、徳川家康藤堂高虎は何度も書状のやりとりをしており、秀吉晩年より親しい仲であったことが分かります。)

 

 細川忠興は、「私婚違約事件」で家康との対立の矢面に立った前田利家と縁戚です。また、石田三成と忠興の父細川幽斎は、同じ島津の取次を務めており関係が悪かった訳ではありません。

しかし、前田利家の死去が近いことが分かった段階で、家康に敵対した前田家が利家という大黒柱を失った後、家康によって排除される事態が、忠興にとっては十分に予想され、これに巻き込まれて細川家が前田家と共倒れになる前に、徳川家に恩を売る行動を取って友好関係を深める必要性を考えた故の行動と思われます。

 

(※)「慶長の役の際の蜂須賀家政黒田長政処分事件」について捕捉します。この事件については、実は二大老五奉行が関わっている事件です。まず、秀吉が処分の命令を下した時に、秀吉の側近くにいて協議に参加したのは、前田玄以増田長盛長束正家浅野長政の四奉行です。(この時、石田三成は上方に不在で協議に参加していません。)

 そして、秀吉が激怒した原因となった、三城縮小案を示す十三将連署状の一番・二番目に名を連ねたにも関わらず(署名の筆頭が宇喜多秀家、二番目が毛利秀元、三番目が蜂須賀家政)、なぜか処分を受けなかったのが宇喜多秀家毛利秀元です。

 宇喜多秀家は秀吉の養女婿、毛利秀元は輝元の元養子で、秀吉の養女婿でもあり、毛利一族で重要な位置を占める武将です。秀家と秀元は秀吉の養女婿であるがためおそらく処罰の対象から外された訳で、本来であれば処罰を受けてもおかしくなくない立場であったといえます。

 対して、石田三成は秀吉の処分命令が発せられたときには上方に不在であり、軍目付の報告についての事前の協議も受けていませんでした。(中野等、p353~354)、

 しかし、秀吉に朝鮮の役の報告をした軍目付の福原らが三成の縁戚だったため、連帯責任を問われた訳です。

 こうして、慶長の役蜂須賀家政黒田長政処分事件もまた、審理のやり直しなどすれば、二大老(毛利・宇喜多)、五奉行に類が及ぶ危険性がある話だったといえます。

 他の大老・奉行に類が及びそうな事件であったため、他の大老・奉行衆は自分に累が及ばないように、裁定した秀吉及び協議した四奉行に責任を負わせるのではなく(もとより太閤秀吉に責任など死後であっても誰も負わせられませんが)、報告した軍目付とその縁戚である石田三成に責任を押し付けてスケープゴートにすることにより、事態の収拾をはかったといえるでしょう。

↓(参考エントリー)(①~④まであります。)

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2.「七将襲撃事件」その後

「七将襲撃事件」のその後について、時系列で記します。

 

閏三月十四日条「十三日午刻、家康伏見之本丸(ママ)(西の丸ヵ)へ被入由候、天下殿二被成候、目出候、」(『多聞院日記』、白峰旬、p41)

 この家康が伏見城に入城した状況について、堀越祐一氏は以下のように説明しています。

「これは先述したような秀吉の遺言により認められていた天守の立ち入り許可(筆者注:『浅野家文書』に残る秀吉遺言状参照。下記参考エントリーにあります。)などとは次元の異なるものであり、反家康派を強く刺激する行為であった。このことは、関ヶ原合戦直前にあたる翌慶長五年八月に、西軍首脳が家康の罪状の一つとして「伏見御城被仰置候御留守居を追出、関東之凡下野人之者共御座所を踏荒候段」(筆者注:著者の注によると「鈴木重朝宛宇喜多秀家毛利輝元前田玄以石田三成増田長盛長束正家連署状」)を挙げていることからもわかるが、逆に家康からしてみれば、自らの権威を示すのに大きな効果があったと言えよう。また、ここで注目されるのは「御留守居を追出」という記述である。これは、秀吉から留守居を委任されたはずの「五奉行」が伏見城から完全に切り離され、伏見城がほぼ家康の所有となったことを意味しよう。秀吉が晩年の大半を過ごした伏見城を手中にした家康を、世上の人々は「天下殿」になったと噂したのである。」(堀越祐一、p215~216)

 

※ 秀吉の遺言については、以下参照↓

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閏三月十九日蜂須賀家政黒田長政五大老書状

「朝鮮蔚山表、後巻の仕合わせ、今度様子聞き届け候の処、御目付衆言上の通り、相届かざる儀と存じ候間、新儀御代官所、前々の如く返し付け候、并(ならびに)、豊後府内の城も早川主馬(長政)に返し付け候様に申付け候、然る上は彼表において其方越度にあらざるの段、歴然候間、その意を得らるべく候、 恐々謹言

[慶長四年]                           利長

閏三月十九日                          輝元

                                景勝

                                秀家

                                家康

        蜂須賀阿波守殿

        黒田甲斐守殿」(笠谷和比古、p221)

→上記の書状は、蔚山城後巻戦の蜂須賀家政黒田長政の処罰を誤りとし、処分を取り消した五大老連署状です。同じく処分された軍目付早川長政も没収された城を返却されています。

(なお、前田利長も含む五大老連署状は、慶長四年閏三月三日(前田利家が死去した日)から発給されています(堀越祐一、p156)ので、五大老のうち前田利家が死去した場合は、大老の役割は利家嫡男利長が引き継ぐことがあらかじめ決まっていたことが分かります。)

 

閏三月十九日 石田三成に近い軍目付熊谷直盛・福原長堯が朝鮮出兵時の「私曲」により改易にされる。(『史料綜覧』巻一三、慶長四年閏三月十九日条)(白峰旬、p49)

→このことから、慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処分事件は、「軍目付熊谷直盛・福原長堯の報告が「私曲」であり、責をこの二人(と縁戚の石田三成)を負わせ、蜂須賀・黒田には咎められる責はない、という五大老の「裁定」により結着したことになります。

もとより、熊谷・福原の報告に誤りなどなく、処分を裁定したのは秀吉本人であり、関与したのは四奉行(前田玄以増田長盛長束正家浅野長政)な訳ですが、政争による処分については「事実がどうだったか」というのはどうでもよく、誰が処分を受けるかは政治的な力学によって決まるものといえます。

慶長三年の時点では、貧乏くじを引いてスケープゴートとなったのが蜂須賀・黒田であり、慶長四年の時は、石田・熊谷・福原がスケープゴートとなったという話になります。

 

閏三月二十一日 徳川家康毛利輝元、互いに起請文を交わして和解を図る。

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』より、上記起請文の内容について引用します。

「しかし、その文言には大きな違いがみられる。(中略)

 家康が輝元を「兄弟の如く」としているのに対して、輝元は家康に「父兄の思いを成す」としているほか、書止文言は「恐々謹言」(筆者注:毛利輝元徳川家康起請文)と「恐惶敬白」(筆者注:徳川家康毛利輝元起請文)、宛所も「安芸中納言殿」と「家康様」というように敬称が異なっている。さらに、「讒人之族」が現れたならば、家康は互いに「糾明」しようとしているが、輝元の場合、家康の「御糾明」がなされ、それを「仰聞」かせいただければ満足だと述べているなど、家康を上位、輝元を下位とした両者の上下関係は明らかである。また、全体的に似通った文章表現が用いられていることから、徳川・毛利両家において事前に綿密な文面のすり合わせが行われたことは明白で、この点にも注意する必要があろう。徳川上位、毛利下位の格づけは、両者の、明確な認識・合意の上で決まったのであり、三成失脚により、輝元が家康に対する戦意を喪失したことは疑いあるまい。この直後に勃発した九州島津氏領内における、いわゆる「庄内の乱」は、本来ならば秀吉から西国を任された輝元が中心となって対処すべき案件であるべきなのに、家康主導で行われたことは先述した通りであるが、この事例は、当時の家康と輝元の力関係をよく象徴していよう。」(堀越祐一、p217)

※ 参考エントリー↓

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 前回のエントリーで述べたように、この家康派より仕掛けられた「政争」により、家康派は以下の目的を達しようと考えたのだと思われます。

① 家康が伏見城に入城することによって、天下の実権を握る。

②「徳川家康牽制派」の「奉行衆」を中央政界から排除する。

③「縁辺の儀」をなし崩し的に承認させる。

④「慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処罰」の撤回及び裁定に関わった者の処罰

 

①~④のうち、「奉行衆」全員の排除はできませんでしたが、石田三成の排除はできました。この「政争」の勝利により、家康派は、ほぼその目的を達成したといえます。

「七将襲撃事件」は、慶長四年初頭からの「私婚違約事件」にはじまる「徳川家康派」と「徳川家康牽制派」の延長線上にある事件といえ、「私婚違約事件」においては、妥協を余儀なくされた「家康派」が、前田利家の死去により弱体化した「家康牽制派」を潰して豊臣公儀における主導権を徳川家康が握ることを目的とした事件であるといえます。石田三成と七将の個人的な対立によって起こった事件と誤解してしまうと、この事件の本質を見誤ることになるでしょう。

 ただし、この事件で家康は一気に独裁体制をひけたわけではなく、前述したように「七将襲撃事件」以降も、「五大老・五(四)奉行制」が崩壊した訳ではなく、五大老連署状はその後も発行されています。渡邊大門氏によると、

「事実、五大老制は、その後も維持されていく。いくつか例をあげておこう。慶長四年四月、五大老は薩摩島津氏に対して、海外での海賊行為を禁止している(「東京大学史料編纂所所蔵文書」)。これは、豊臣政権の基本政策の一つである海賊禁止令を徹底したものであり、五大老がある意味で秀吉の政策を基本的に受け継いだことを示している。つまり、表面的に五大老は互いの不信感を拭って、一致していたのである。

 そして、同年六月には、五大老連署により、対馬宗義智に一万石を与えられている(「榊原家所蔵文書」)。宗氏の朝鮮出兵に対する功績を賞するものであった。朝鮮出兵後の戦後処理に関しても、五大老によって対応がなされたのである。いわゆる五大老制の中で、秀家(筆者注:宇喜多秀家)は前田利家が亡くなったことを受けて、署名の順番ではナンバー2になっていた。したがって、先に触れた家康と秀家の対立を避けることは、政権を維持するには不可欠だったのである。」(渡邊大門、p253~254)とあります。

 

 豊臣公儀における「家康独裁体制」を決定付けるには、「七将襲撃事件」政争の勝利だけでは足らず、「七将襲撃事件」の結着は「家康派」にとっても「家康牽制派」を潰しきれなかった、中途半端な処理であったといえます。

「家康派」が「家康牽制派」を完全に潰し、「家康独裁体制」を敷くためには新たな政争を仕掛ける必要がありました。これが、慶長四年九月の「家康大坂城入城クーデター」に繋がっていくことになります。

 

※ 次回のエントリーです。↓

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 参考文献

笠谷和比古「第七章 かくして関ヶ原合戦は起こった」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦』文英堂、2000年)

白峰旬『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社、2019年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究〈新装版〉中巻(オンデマンド版)』吉川弘文館、2017年

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年

渡邊大門『宇喜直家・秀家-西国進発の魁とならん-』ミネルヴァ書房、2011年