古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「徳川秀忠より上杉景勝の三家臣に遣れる書状〔慶長三年十月二十三日〕」について

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 慶長三(1598)年十月二十三日、徳川秀忠上杉景勝の三家臣に以下の書状を送ります。

 

「〔参考〕徳川秀忠より上杉景勝の三家臣に遣れる書状〔慶長三年十月二十三日〕

 

 今度中納言上杉景勝)殿上洛付而、被仰置候旨、先度大久保治部少輔(忠燐)迄来書之通披見、本望候、如承候御留守中相應之儀、不可存疎意候、委曲治部少輔可申入候條、令省略候、恐々謹言、

                           江戸中納言

                               秀忠

 

     (慶長三年)十月廿三日

       大石播磨守(元綱)殿

       岩井備中守(信能)殿

       安田上總介(能元)殿

 

 上杉景勝は、上洛に際し、家臣大石播磨守元綱・岩井備中守信能・安田上總介能元に命じ、江戸在城なる徳川秀忠の家臣大久保治部少輔忠燐に書状を遣って、景勝が上洛の行程を急ぐため、江戸城を訪問せざる旨を申し遣はせた。秀忠は書状を見て、大石元綱等にこの書状を裁し、景勝不在中、相應の事に就ては粗略を存ぜざる旨を申し送ったのである。」(中村孝也、p340)

 

 上杉景勝は秀吉死去の報を受けて、慶長三(1598)九月に上洛し、十月七日に京都に上洛しました。先の書状において景勝は、上記中村氏の解説のように、三家臣を通じて(本来であれば上洛までの途中にある江戸城を訪問して秀忠に挨拶すべきだが)上洛の行程を急ぐため、江戸城を訪問せざる旨を伝えます。この書状はその返書で、秀忠は景勝の伝えたことはもっともで、景勝の留守中も粗略のないようにする、と上杉家の三家臣に大久保治部少輔忠燐を通じて伝えた、という書状です。

 

 高橋陽介氏は、この書状を「徳川秀忠は、上杉領国の仕置のため、家臣大久保忠燐を会津へ遣わすこととした」(高橋陽介、p114)書状であり、そこから「上杉景勝徳川家康の指事どおりに動いており、もちろん、対等の関係ではない」(高橋陽介、p114)という、訳の分からない解釈を導いていますが、なぜこのような解釈になってしまうのか、全く意味不明です。

(当然の話ですが、大久保忠燐は書状の使者として会津に行っただけで、上杉領国の仕置のため会津に行った訳ではありません。もちろん、上杉景勝徳川家康の指事どおりに動いている訳では全くありません。)

 

 参考文献

中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究<新装版>中巻』吉川弘文館、1980年(新訂版)

高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』河出書房新社、2019年