古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

文禄の役時の石田三成の動向について①

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(以下の記述については、主に中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年を参照しました。)

 

 これより、文禄役時の石田三成の動向について記します。

 

  天正二十(1592)年四月二十二日、日本の軍勢が朝鮮半島への上陸を開始し、いわゆる「文禄の役」がはじまります。破竹の勢いで進軍する日本軍は、五月三日には朝鮮の首都である漢城を陥落させ、入城します。

 

 この間の朝鮮侵攻諸将たちの兵粮事情ですが、「上陸間もない段階で日本の諸将は、朝鮮半島の豊かな兵粮事情を報じていた。たとえば、加藤清正鍋島直茂連署状には「諸勢兵粮の儀、国本にても加様の繁多の事、これ有るまじくと、下々満足仕ることに候」「口々城々も兵粮多く御座候間、人を残し置き、御動座の御用に立て候ようにと存じ候間」などとある。漢城到達以前の小西行長も、秀吉に対し「高麗の城々十ヶ所退散、(中略)国の図を進上、城々に兵粮二三千石づつ□□、摂津守封を付け、奉行を置く」という内容の注進を行っている。このように朝鮮半島上陸、日本の軍勢は各地に残された兵粮を確保し、それらを厳重な管理に委ねつつ、北進していったのである。

 侵攻基地である名護屋には一定規模の兵粮が集積されていたが、如上のような朝鮮事情が伝えられるなか、兵粮の現地調達も可能であるとの判断が下され、当面は兵員や武器・弾薬などを優先的に日本から輸送することになった。」(中野等②、p50)

 

とあり、朝鮮軍が城や倉庫に残した兵粮が豊富に残されており、これを日本軍が奪取することによって、充分な兵粮が確保できたことが分かります。

 

この勝利を受け、豊臣秀吉は自らの渡海を計画しますが、六月二日に至って徳川家康前田利家らが秀吉渡海の再考を促し、秀吉は渡海の延期を決定します。この時、石田三成は秀吉の渡海を主張したといいます。左記の詳細については、以前以下のエントリーで記述しました。↓

秀吉の朝鮮渡海を主張する石田三成 

 

 秀吉の渡海が延期されたことに伴い、秀吉は自らに代わり長谷川秀一、前野長泰、木村重玆、加藤光泰、石田三成大谷吉継の七名の奉行衆を朝鮮に派遣することを決定します。

 奉行衆は六月六日の朝に名護屋から出船し、その日のうちに壱岐に着陣しました。そして、七月十六日には漢城に到着しました。

 彼ら奉行衆の役割については、「長谷川秀一以下の四名は秀吉古参の家人衆であり、軍事的な監察の役目を帯びていたように推察される。秀吉の指揮権を代行するという意味では、むしろ三成と大谷吉継増田長盛がとりわけ重要な立ち位置を占める。」(中野等①、p165)とされます。

「まもなく長谷川秀一や木村重玆は慶尚道内の経路確保を目論んで漢城から南下し、細川忠興らとともに晋州城攻略に従う。漢城には、前野長泰(但馬守)・加藤光泰(遠江守)と、三成ら三奉行とが残留」(中野等①、p166~167)します。漢城には他に主将である宇喜多秀家が在陣します。

「以後、三成(治部少輔)は、大谷吉継(刑部少輔)・増田長盛(右衛門尉)とともに「都三奉行」あるいは単に「三奉行」などと称され、基本的に漢城にあって在朝鮮の諸将に秀吉の軍令を伝え、指示を発していく。」(中野等①、p167)

 三奉行が秀吉の指示により渡海した目的は、秀吉が六月三日に発した軍令(「六月三日令」)を朝鮮在陣諸将に伝達・指令することでした。その内容については、「朝鮮各地に転戦する九州・四国・中国の諸将に充てられた「六月三日令」の主眼は、朝鮮半島の奥地、さらに明国へ侵攻することを要求するものであった。」(中野等①、p167)

しかし、一方で「朝鮮にいる武将たちのあいだでは、明国との国境を目指すより朝鮮半島の制圧を優先すべし、との議論が支配的となり、現地諸将の決定によって、軍団を朝鮮八道に分遣し、それぞれの担当地域を経略するという作戦が実施されていた。」(中野等①、p167)とあり、秀吉の軍令が到達する前に現地においては、現地諸将の独自の判断による作戦が既に実施されていました。

このように、初期の朝鮮在進快進撃の報(漢城陥落は五月三日)を受けた、秀吉の六月三日の軍令は、七月十六日頃に諸将へ伝達されたわけで、戦勝の報告→報告を受けての秀吉の判断・命令→命令の諸将への伝達まで約二月余りのタイムラグが発生しています。その間に刻々と戦況は変わっている訳で、秀吉の代行として派遣された奉行衆は、このタイムラグに終始悩まされることになります。

 

「三成らの伝達した「六月三日令」によって策定された八道分割支配に関する現地決定はくつがえされ、変更を余儀なくされたのである。三成らの渡海目的が「六月三日令」の徹底を第一義としていたことがわかる。

 しかしながら、三成が実見する朝鮮の状況は、名護屋で想定していたものと大きく異なるものであった。平壌を押さえていた小西行長は、状況説明のために漢城へ戻り、兵粮事情に深刻な不安があることや、奥地への侵攻を強行すると、絶対的な兵粮不足によって退路を断たれるおそれがあることなどを、三成らに細かに告げたようである。最前線に展開する小西行長の意見は充分傾聴に値するものであった。三成ら奉行衆はすみやかに明国境を侵せと命じる秀吉の軍令と、実際に見聞する朝鮮半島の現状のあいだで、深刻な板挟みの事態に陥ってしまう。」(中野等①、p168)

 三成ら奉行衆が漢城に着いた頃には、当初の現地の状況に対して、情勢は既に変化しており、当初の現地からの報告を基にした秀吉の軍令は実行するのは現実的なものではなくなっていました。

 次回のエントリーでは、この現地の状況を受けて、名護屋へ向けて三成ら奉行衆が発した書状について検討します。

※ 次回のエントリーは以下参照↓

文禄の役時の石田三成の動向について②~勝申候内二日本人ハ無人ニ罷成候 

 

参考文献

中野等①『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2017年

☆慶長争乱(関ヶ原合戦)主要人物行動・書状等時系列まとめ ④慶長五(1600)年1月~5月

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☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

関ヶ原への百日

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

↓以下、本文

☆慶長5年(1600年)1月

1日 北政所、「青陽の賀を京三本木の屋敷で祝う。元旦早朝、豊国社へ詣づ。」(『居所集成』〔第2版〕、p435)

1日 伊達政宗、元日は大坂屋形で祝儀。(『居所集成』〔第2版〕、p289)

1日~3日 上杉景勝は、正月三箇日を会津で迎える。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

5日 片桐且元、「三奉行(徳善院・増田・長束)より小出吉政とともに大坂城内営繕関係の責任を命じられた」(『居所集成』〔第2版〕、p348)

16日 毛利輝元、在伏見確認。(『時慶』)(『居所集成』〔第2版〕、p236)

19日 『北野社家』19日条には「伏見へ参、芸中納言(筆者注:毛利輝元)へ礼申」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

  

☆慶長5年(1600年)2月

1日 徳川家康は、田丸忠昌に美濃国恵那・土岐・可児の三郡を与え、美濃国兼山城主森忠政川中島に移し、更級・水内等、四郡の地、十二万石を与えた。」(藤井治左衛門、p121)

※ 秀吉死後の諸大名への加増については、下記を参照願います。↓

其の四十一「五大老」について~3.領地の給与

 

14日 毛利輝元、大坂に下ってきた西洞院時慶と面会(『時慶』)(『居所集成』〔第2版〕、p236)

18日 北政所、「豊国社へ詣づ」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

 

☆慶長5年(1600年)3月

2日 北政所、「2日夜、社参す」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

『当代記』によると、3月頃から、上杉景勝徳川家康の対立が表面化したらしい。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

 

☆慶長5年(1600)4月

8日 四月八日付の島津義弘書状には、上杉景勝が出仕(上洛)しないことが問題視され、伊那令成(徳川家臣)が十日に会津へ出立することが書かれている。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

12日 浅野長政、再び江戸に下る。(『居所集成』〔第2版〕、p332)

21日 西笑承兌、「在京都:家康訪豊光院」(『居所集成』〔第2版〕、p414)

27日 島津惟新は島津竜伯に対して上国の形勢を報じ、併せて家康から伏見城の警備を依頼されたので、兵員、糧食の急送を申し入れた。」(藤井治左衛門、p131)

→最終的に、この話は「立ち消え」になってしまい、島津氏は伏見城への入城を鳥居元忠に入城を拒否されることになります。この間の経緯については、下記を参照願います。↓

島津義弘と石田三成について⑧-義弘の伏見城入城はなぜ拒否された?

 

 

☆慶長5年(1600年)5月

3日 「家康は太田原の家臣伊王野資信に対して会津征伐を報じ、その方面の警備を命じた。」(藤井治左衛門、p133)

5日 「長束正家が慶長4年12月1日付、慶長5年4月8日付の輝元・秀家・家康の三大老連署知行宛行状に輝元の加判を求めており(以上『毛利』)、ここでも(筆者注:毛利輝元の)在伏見が継続していたと考えられる。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

7日 長束正家増田長盛中村一氏生駒親正堀尾吉晴は、家康に対して会津征伐諌止の状を発した。」(『古今消息集』)(藤井治左衛門、p133)

11日 西笑承兌、在大坂、「西丸登城」(『居所集成』〔第2版〕、p414)

12日 西笑承兌、在大坂、「長束邸参会」(『居所集成』〔第2版〕、p414)

24日 西笑承兌、在大坂、「西丸登城」(『居所集成』〔第2版〕、p414)

25日 毛利輝元本願寺准如を訪問(『鹿苑』)(『居所集成』〔第2版〕、p236)

29日 細川幽斎、出陣用意のため帰国(『舜旧』)(『居所集成』〔第2版〕、p201)

☆慶長争乱(関ヶ原合戦)主要人物行動・書状等時系列まとめ ③慶長四(1599)年1月~12月

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☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

関ヶ原への百日

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

↓以下、本文

☆慶長四(1599)年1月

1日 「元日、諸大名が伏見城へ出仕し年頭の礼を行った(『義演』)。「関原始末記」はこの日、(筆者注:前田)利家が幼い秀頼を抱いていたと伝えている。」(『居所集成』〔第2版〕、p222)

1日 「「御年譜(景勝)」によれば、元日を(筆者注:上杉景勝は)伏見屋敷で迎えたとされる。(『居所集成』〔第2版〕、p270)

3日 「島津竜伯(筆者注:義久)が徳川家康と往来したので、三成は惟新(筆者注:島津義弘)及び忠恒に竜伯を悄めさせた。竜伯は他意のないことを明らかにして、誓書を与えた。」(藤井治左衛門、p69)

9日 五大老、「連署島津忠恒(のちに家久)に泗川合戦の感状を与え(『島津』)、越前北庄の小早川秀秋筑前筑後に再封する宛行状を発する。(『毛利』)。(中略)前後の状況から輝元は伏見にいたと考えてよかろう。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

9日 浅野長政、「島津家久に対する加増目録を奉行人連署で発給している」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

10日 「秀頼が伏見城から大坂城へ移り(『言経』)、利家もこれに従ったとされている(「公徳公記」)。以後、閏3月3日の逝去までの間、大坂屋敷が(筆者注:前田利家)の」本拠となる。

 ※ 秀吉遺言の覚書は「大坂ハ 秀頼様被成御座候間(利家)大納言御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、御城御番之儀ハ、為皆々相勤候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても御上り候ハんと被仰候者、無気遣上可由、被成 御意候事」と記すので(『浅野』)、利家の大坂移転は予め定められていたとみるべきであろう。)(『居所集成』〔第2版〕、p222)

10日 「秀頼が伏見城から大坂城へ移った。景勝は供を務め、移徒を終えた後、伏見に帰に帰還したと伝えられている。(「御年譜(景勝)」)。(『居所集成』〔第2版〕、p270)

10日 「秀頼が大阪城本丸に移徙。これにともない茶々も大坂城本丸奥御殿に移ったが、日時は明らかではない。」(『居所集成』〔第2版〕、p452)

10日 秀頼が伏見から大坂へ下向し、家康もこれに御供した。(言経卿記)(藤井治左衛門、p70)

12日or13日 秀頼の大坂下向に御供した、徳川家康が伏見に戻る。(藤井治左衛門、p70)

14日 石田「三成と浅野長政が豊臣家蔵入り地となった越前府中領大井村の百姓に条規を与える」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

中旬 『当代記』によると、慶長四己亥正月自中旬、於伏見各有物言、是亡家康公を度との企、専石田治部少輔執行折節内府公衆歴々自関東上伏見叉大谷刑部少内府公□荷擔之間、彼組之衆多以同之然而二月無爲内府家康公與羽柴筑前北國主和平、」

とあります。

 いわゆる石田三成による徳川家康暗殺計画の風聞(物言)について書かれたものですが、当代記』は寛永年間(1624年-1644年))頃に成立したとされる二次資料 であり、編纂したのは徳川家康の外孫である松平忠明とされるため、上記の記述についての信憑性については疑問が強く残ります。(ましてや、その当代記』においてすら「物言」としか書いていません。)上記の『当代記』の記述の解釈については、以下のエントリーで書きました。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!? 

 

18日 浅野長政、「同じく5人の奉行連署伊達政宗に対して、大坂での鉄砲使用を制限している」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

19日 「家康と毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家、そして利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、」

(『居所集成』〔第2版〕、p222)

19日 石田三成、「前田利家を擁し、他の奉行衆とともに、家康が秀吉の遺命に背いたことを責める(『言経』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

19日 浅野長政、「伏見において他家との縁辺の問題で家康を詰問した」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

19日or21日 西笑承兌、「在伏見:前田利家ら家康詰問の使者を務む(『言経』『朝野』)(『居所集成』〔第2版〕、p413)

19日 石田三成、「同日付で筑前国内に慶長3年産米の年貢について指示を発している。」

20日 1月20日以前に今井宗薫の取次で伊達政宗の娘五郎八姫と徳川家康の七男松平忠輝との婚約がきまる。(『居所集成』〔第2版〕、p289)

20日 「20日(筆者注:家康と四大老五奉行との対立)は和解が目指されていた(『言経』24日条)。」(『居所集成』〔第2版〕、p222)

20日 「伏見毛利邸に諸大名が集まり談合」(『北野社家』)(『居所集成』〔第2版〕、p235)

21日 毛利輝元、「北野社からの挨拶をうける」(『北野社家』)(『居所集成』〔第2版〕、p235)

23日 毛利輝元、「秀元への国割について増田長盛石田三成から連署奉書を得、同日この事案について秀元へ書状を発する(『長府毛利家文書』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

24日 毛利輝元、「他の大老と家康が秀吉の遺命に違背をすることを責める(『言経』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

 

 

☆慶長四(1599)年2月

2日 石田三成ら、「秀吉の遺命により伏見で剃髪」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

2日 浅野長政、「秀吉の死の公表にともない、伏見城において他の奉行とともに出家した」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

5日 徳川家康は養女によって福島・蜂須賀・伊達(筆者注:伊達氏との婚姻は実子七男の忠輝)・加藤(清正)等と姻を結ぼうとしたが、五奉行五大老に詰問されたので、和解をして誓書を交換した。」(藤井治左衛門、p77)

(12日) 「縁辺問題が一段落し、徳川家康と他の「大老」「五奉行」の間で、誓詞が取り交わされた」(『居所集成』〔第2版〕、p331)(※毛利家文書では、誓詞は二月十二日付となっているが、他の諸書では、二月五日付とされているものが多い。中村孝也氏は通説に従って二月五日としている。)(中村孝也、p386)

12日 浅野長政、「徳川家康の縁辺(縁組)問題に一応の決着が着いた段階で、大阪に移ったものと考えられる。」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

14日 黒田家文書等によると、「この年の春、石田治部等五奉行が背くという風説があった際、黒田如水・同甲斐守等は家康の館を守護し、正則・清正等も亦、味方として種々尽くした。」とあります。(藤井治左衛門、p79)

※ この他にも江戸時代の二次史料には、この頃、石田三成等が徳川家康を襲撃するという「計画」があった、あるいはそうした「風説」があったという記述が散見されますが、主に後世の徳川方についた大名等が作成した二次史料であるため、そのまま鵜呑みができません。

①風説自体はあったが、実際にはそのような計画はなかった。

②風説自体はあったが、徳川方が自作自演で流した風説であった。(このような「風説」を流せば、「このような『風説』があるのだから、家康殿をお守りせねば」といって、徳川方は「家康殿の守護」を口実に自分の手勢を自由に動かすことができるようになります。)

③風説自体が当時はなく、後世に徳川方が自らを正当化するために創作されたものである。(少なくとも当時の公家・寺社の日記にはそのようなことは書かれていません。)

④風説のとおり、徳川家康暗殺計画なるものがあった。

等、色々な可能性が考えられます。

 個人的意見としては、当時の公家・寺社の日記にはそのようなことは書かれていない(徳川家康を守護するために大名が手勢を集めて家康屋敷等に集結等していたら、当然、騒然としたものとして周囲の知るところになりますので、当時の日記に書かれていてしかるべき事です)ため、③の「風説自体が当時はなく、後世に徳川方が自らを正当化するために創作されたものである。」という説が妥当と考えられます。

 

29日 前田利家が伏見の徳川家康邸を訪問(『当代』『増訂加能』)。(『居所集成』〔第2版〕、p222)

 この時、「利家は家康と和し、向島に移ることを勧めた。」とあります。(藤井治左衛門、p77)

29日頃 福島正則、「家康より藤堂高虎への伝言を請け負っている。」(『居所集成』〔第2版〕、p339)

 

 

☆慶長四(1599)年3月

11日 徳川家康が大坂の前田利家邸を訪問(『当代』『増訂加能』)。(『居所集成』〔第2版〕、p222)

 その後、家康は「藤堂高虎の第に泊まった」とあります。(藤井治左衛門、p79)

11日 「11日には家康が大坂の前田利家を見舞う予定があり、幸長・加藤清正細川忠興がその旨を大坂の長政に告げている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

19日 「3月19日以降には(筆者注:細川幽斎から)智仁親王に古今伝授が行われる(『続幽斎』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p201)

26日 徳川家康向島の屋敷に移る。」(藤井治左衛門、p105)

 

☆慶長四年(1599)年閏3月

3日 前田利家、大坂屋敷で病により死去。(4日に亡くなった説もあり。)「前年12月の段階ですでに病状は悪化していたが(『義演』慶長三年12月3日条)、遂に持ち直すことはなかったのである。」(『居所集成』〔第2版〕、p222)

3日 毛利輝元、「閏3月3日付で大老連署の知行宛行状を発する。(『毛利』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

→ただし、この五大老連署状には、既に前田利長の名前が入っており、前田利家の死の直後にこのような連署状が発出されたとは考えにくいため、後日に日付を遡って作成されたものではないかと考えます。

4日 「七将襲撃事件」。

「七将襲撃事件」については、下記で、まとめました。↓

其の四十二「七将襲撃事件」とは何だったのか?①

其の四十三「七将襲撃事件」とは何だったのか?② 

其の四十四「七将襲撃事件」とは何だったのか?③ 

其の四十五「七将襲撃事件」とは何だったのか?④ 

其の四十六「七将襲撃事件」とは何だったのか?⑤ 

 

4日 石田三成、「大坂で反三成派の諸将に襲撃され、伏見へ逃走する。」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

4日 福島正則、「石田三成を襲撃して伏見の屋敷に追い込む(『居所集成』〔第2版〕、p339)

8日 「伏見雑説、北政所御噯にて無事とのこと(『言経』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

9日 「伏見の徳川家康が、(筆者注:浅野)幸長ら7将と石田三成との騒動の顛末を大坂の長政らに報せている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

10日 石田三成、「家康の勧告を容れて、佐和山へ引退」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

10日 織田秀信は滝川周善軒に対して、石田三成と行動を共にする意向を示す。」(藤井治左衛門、p113)

15日 「滝川周善軒は上加納庄屋棚橋九郎右衛門に、外山番並町口固めを命じた。」(藤井治左衛門、p113)

21日 毛利輝元、「家康と起請文を交わし、義兄弟の契りを結んで政権の安定を図ろうとした(『毛利』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

26日 「徳川家康大野修理御代官所のことにつき委細は中村一氏堀尾吉晴より申し入れらると、片桐且元へ伝える」(『居所集成』〔第2版〕、p348)

 

☆慶長四年(1599)年4月

1日 毛利輝元、「他の大老と「ばはんニ罷渡族可有之候之間、堅可被停止候」の連署状を発する。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

2日 徳川家康島津惟新父子に誓書を遣わして、互いに動揺しないことを誓う。」(藤井治左衛門、p114)

→上記は、慶長五年九月三日に五大老五奉行が取り交わした起請文の条項、

「一、拾人之衆中と、諸傍輩之間ニおゐて、大小各ニよらず、何事ニ付ても、一切誓

   紙取りかハすへからす、(後略)」の明確な違背行使であり、「七将襲撃事件」の「勝利」において家康が豊臣公儀の主導権を握ったことにより、以前取り交わした起請文について遵守する気が家康に全くなくなった事を示しています。

※ 慶長五年九月三日付起請文については、下記参照願います。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文について

 

某日 「沓井三ヶ村を豊臣氏の天下領とする。」(藤井治左衛門、p115)

5日 伊達政宗は誓書を有馬則頼・今井宗薫に遣わして、家康に二心のないことを誓う。(藤井治左衛門、p115)

8日 浅野長政、「同日早暁の伏見火災の報を受けており(中略)、大阪にいたと考えられる」

(『居所集成』〔第2版〕、p331)

25日 北政所、「豊国社へ社参す」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

 

☆慶長四年(1599)年5月

3日 「輝元重臣堅田元慶が端午の祝儀として秀頼に拝謁するため5月3日から大坂へ下っており、あるいは輝元も一緒か。(『広島古代中世Ⅱ』「厳島野坂文書」)。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

11日 5月11日付浅野長政等宛徳川家康連署状(『居所集成』〔第2版〕、p235)

 

 

☆慶長四年(1599)年6月

1日 「義演、石山観音堂修理を北政所より仰せつけた由を聞く」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

6日 宮木長次宛浅野長政連署状。この間浅野長政は大坂にいたと考えられる。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

11日 浅野長政、大阪に下向した西笑承兌と会う。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

12日 「その後(筆者注:毛利)秀元への国割りに言及した6月12日付内藤元家充て内藤隆春(周竹)書状に、「内々殿様御下向とこそ申候処、結句御むつかしき事共出来候、無申計候」とみえており(『閥閲録』「内藤小源太家文書」)、輝元は一時帰国を考えたようであるが、結局は果たせなかったようである。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

15日 毛利輝元、「秀元へ知行宛行状を発し、同日付で秀元に領内仕置に関する法度を与えている(「長府毛利家文書」)。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

24日 「再び承兌が大坂に下向したが、(筆者注:浅野)長政は「上洛」とのことで、伏見か京都にいたと考えられる」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

26日 「同月26日付で秀元へ起請文を発する(「長府毛利家文書」)。これらの措置も伏見でなされた可能性が高い。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

 

☆慶長四年(1599年)7月

28日 「略記」によると上杉景勝は、「秀頼に暇乞いをするため、伏見屋敷から大坂城へ赴いている。」(『居所集成』〔第2版〕、p271)

 

☆慶長四年(1599)年8月

3日 「略記」によると、上杉景勝伏見を発つ。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

7日 大老連署の知行宛行状を発する。(『毛利』『西笑』)。(『居所集成』〔第2版〕、p236)

7日 「家康等五大老連署知行宛行状をもって豊光寺(筆者注:西笑承兌豊臣秀吉の追善のために建立した寺)領500石が寄進された。(伏見大光明寺領と合わせて1000石、『西笑』相44)(『居所集成』〔第2版〕、p413)

7日 長束正家増田長盛浅野長政前田玄以の四奉行は連署して、片山村の中、千石を池田勝吉に寄せる。(藤井治左衛門、p117)

10日 8月10日付上杉景勝徳川秀忠書状。「「御下国二付而、其筋被成御通由候、爰許程近之儀候間、可為御立寄と存候処、直ニ御下之由、一段御残多存知候」と記され(『上杉』)、8月10日よりも前に徳川領国を通過した事実が判明する。とすれば、8月上旬には(筆者注:上杉景勝は)伏見を離れ、関東へ入ったと理解すべきだろう。

※ この年、秀忠は江戸にいた(藤井1994)。」(『居所集成』〔第2版〕、p271)

22日 「略記」によると、景勝はこの日会津に到着。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

 

☆慶長四年(1599)年9月

7日 毛利輝元の「嗣子松寿丸が大坂城に出仕、秀頼に拝謁している。このときは輝元も大坂城にのぼり、速やかな元服を乞うている。秀頼はこれを許して元服の儀を執り行い、偏諱を与えて「秀就」を名乗らせた。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

7日 徳川家康、「大阪に下向し(『義演』)」た。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

7日 「西笑承兌、下坂す。徳川家康の御供にて(筆者注:片桐)且元のところへ行く」(『居所集成』〔第2版〕、p348)

8日 西笑承兌、「在大坂:登城」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

9日 西笑承兌、「在大坂:宿所山口正弘邸」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

9日 浅野長政、「重陽の礼(筆者注:9月9日)のため伏見から大坂へ下向した徳川家康の暗殺騒動に巻き込まれ」る。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

10日 西笑承兌、「在大坂:家康に相伴」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

12日 「雑説の報が京都に伝わっており(「言経」)」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

14日 9月14日付上杉景勝徳川家康書状。「遠路御礼本望之至候、路次中無何事御下国之儀珍重候、然者此間大坂へ罷下、仕置等申付候」と記されている。(『上杉』)。大坂・会津の距離を考慮に入れるのなら、遅くとも9月上旬には国許に到着していたと考えねばならない。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

22日 「北政所、京都移徙近日との由」(『義演』)(『居所集成』〔第2版〕、p434)

26日 北政所、「大阪城西の丸屋敷を出、京都新城へ移った」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

27日 徳川家康、「北政所に代わって(筆者注:大坂城)西丸に入った」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

28日 北政所、「豊国社へ参詣す。湯立あり」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

 

☆慶長四年(1599)年10月

1日 「10月1日付の(筆者注:毛利家臣)内藤元家充て内藤隆春(周竹)書状は大坂城内の為体を嘆息し、「兎角若衆計伺候被申候ヘハ、無正儀事ニて候間、家康・輝元ハ大坂ニ御座候ハてハ不可然候、伏見にハ三河守殿、秀元御座候て尤可然之由、被仰談之由候」とあり(『閥閲録』「内藤小源太家文書」)、ここから逆に輝元の在伏見が類推される。(『居所集成』〔第2版〕、p236)

1日 徳川家康宇喜多秀家毛利輝元等は連署して、堀尾吉晴に越前府中城の留守を命じた。」(藤井治左衛門、p117)

5日 浅野長政、「大坂を発って関東へ下った」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

18日 石田三成、「長浜の船方中へ炭を佐和山へ運ぶように命じ」た。(『居所集成』

〔第2版〕、p310)

18日 北政所、「豊国社へ社参」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

26日 西笑承兌、「在大坂:訪前田玄以」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

 

☆慶長4年(1599年)12月

4日 「関東を下向した(筆者注:浅野)長政は江戸に滞在して」いた。(『居所集成』〔第2版〕、p332)

10日 浅野長政甲府に帰る。(『居所集成』〔第2版〕、p332)

17日 西笑承兌、在大坂「訪増田長盛長束正家」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

18日 西笑承兌、在大坂「訪家康」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

18日 北政所、「豊国社へ社参」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

20日 西笑承兌、在大坂「訪伊達政宗、宿所山口修広邸宅」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

22日 西笑承兌、在大坂「宿所山口修広邸宅」(『居所集成』〔第2版〕、p413~414)

25日 西笑承兌、「家康・増田・長束等に暇乞」(『居所集成』〔第2版〕、p414)

27日 石田三成、「相良頼房(長毎)に進物の礼状を発するが、これも佐和山からであろう。」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

☆慶長争乱(関ヶ原合戦)主要人物行動・書状等時系列まとめ ②慶長三(1598)年9月~12月

☆☆目次☆☆

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

関ヶ原への百日

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

↓以下、本文

☆慶長三(1598)年9月

 

1日 毛利輝元の嗣子・松寿丸、上洛の途次にあったが秀吉の訃報を受け、備後鞆の浦から引き返し、9月1日広島に到着。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

2日 「9月2日付の(筆者注:毛利輝元家臣)内藤元家充て内藤隆春書状に「宇喜多事、日々殿様へ参之由、家中者共之悦候事非大形之由風聞候」とあり。秀吉の遺志に基づき宇喜多秀家が毛利邸をしばしば訪れて輝元と交誼を結んでいる(『閥閲録』「内藤小源太家文書」)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

3日 五大老五奉行起請文(『居所集成』〔第2版〕、p309、p330) 

(起請文の内容については、以下参照↓)

考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文について  

4日 浅野「長政は、石田三成らと筑前へ下向する旨、黒田長政に告げている」(『居所集成』〔第2版〕、p330)

5日 四大老徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝はまだ上洛していない。)連署で在朝鮮将兵に充てて和議交渉に関する書状を発している(『黒田』)。ここでは家康・秀家とともに輝元も博多へ下向することも表明されているが、程なく沙汰やみとなった。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

10日 毛利輝元、「安国寺恵瓊東福寺入寺につき西笑承兌から書状をうる予定があり、在伏見が継続している(『西笑』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

13日 細川藤孝、13日には一旦丹後へ帰国。(『舜旧』)(『居所集成』〔第2版〕、p201)

16日(または17日) 上杉景勝、上洛の途に就く。「景勝の会津出発について『当代』は16日、「略記」は翌17日の出来事と伝える。」(『居所集成』〔第2版〕、p270)

19日 「同月29日付の景勝宛て増田長盛書状に「一、十九日ニ那須大田原迄御着座之旨、御書中之通、尤存候」(『上杉』)、すなわち同月19日、景勝が下野の那須大田原まで進んだとある点から、9月中旬に会津を離れたとみても差し支えはないだろう。」(『居所集成』〔第2版〕、p270)

 

☆慶長三(1598)年10月

2日  「10月2日付の景勝宛家康書状は「仍御仕置等被仰付、早速御上洛之段、御大儀共候、何様御上之時可申承候間」と記し(『上杉』)、景勝が伏見にいないことを示唆する文面となっている。ゆえに、伏見到着はこの日以降であろう。」(『居所集成』〔第2版〕、p270)

5日 西笑承兌、「在伏見:赴家康邸、後陽成一件種々談合」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

7日 「「略記」では、(筆者注:上杉景勝の)伏見到着を10月7日と伝える。(『居所集成』〔第2版〕、p270)

14日 浅野長政、「10月14日には小倉についたことを杉原長房に告げている」(『居所集成』〔第2版〕、p330)

15日 毛利輝元、他の大老とともに連署状発出(『黒田』『島津』)在伏見。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

26日 浅野長政上座郡の所務について指示。(『居所集成』〔第2版〕、p330~331)

27日 浅野長政、「江戸の徳川秀忠側近に宛て、自身の筑前下向を報せている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

28日 浅野長政穂波郡の所務について指示。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

 

☆慶長三(1598)年11月

2日 五大老連署状発出、毛利輝元在伏見。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

2日 石田三成、「撤退を告げる使者として朝鮮にわたる徳永寿昌・宮木豊盛の両名を名島城に迎えている。」(『居所集成』〔第2版〕、p309~310)

2日 浅野長政、「筑前名島で朝鮮から帰還した徳永寿昌・宮木豊盛と会った」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

14日 浅野長政、「祐筆に宛てて算用(筑前についてか)について申し送」る。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

15日 浅野長政、「毛利秀元の宿所を訪ね、神屋宗湛の振舞いを受けている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

24日 浅野長政、「甲府にいる幸長側近に対し、近々上洛の予定であると告げている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

25日 五大老連署状発出、毛利輝元在伏見。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

25・26日 浅野長政、「名島で神屋宗湛と茶席をともにしていることから(「宗湛」)、上洛はそれ以降であろう。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

 

☆慶長三(1598)年12月

5日 「12月5日以降、烏丸光広徳川家康らが幽斎邸を訪れているから、同月初頭には(筆者注:細川幽斎は)再上洛していたらし」い。(『言経』「耳底記」)」(『居所集成』〔第2版〕、p201)

8日 伊達政宗、大坂屋形で男児誕生(虎菊丸、後の忠宗)(『居所集成』〔第2版〕、p288)

10日 毛利輝元、北野社で松寿丸(秀就)祈念の連歌興行(『居所集成』〔第2版〕、p235)

10日 「朝鮮から戻ってくる将兵の世話に当たる(筆者注:石田)三成の筑前滞在は12月10日ごろまで続」く。(『居所集成』〔第2版〕、p310)

11日 (毛利輝元)「翌11日清書された連歌到来(『北野杜家』)。そのままこの年は伏見で越年か。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

24日 「朝鮮からの軍勢撤退を見届けた、(筆者注:石田)三成は筑前を発ち、12月24日には島津忠恒らをともなって大坂に到着している」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

24日 「24日には(筆者注:細川幽斎は)伏見で烏丸光広と歌論を行っている。(「耳底記」)。(『居所集成』〔第2版〕、p201)

26日 石田三成、「他の奉行と連署して園城寺三井寺)への寺領宛行を行う」((『居所集成』〔第2版〕、p310)

考察・関ヶ原の合戦 其の四十九 徳川家康の人質にされそうになった(?)毛利輝元養女(追記あり)

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(令和2年10月22日追記)

 このエントリーは、表題のとおり「慶長四(1599)年九月に毛利輝元の養女が徳川家康の人質にされそうになったか?」がテーマです。

 それはこの時期に、徳川家康が本当に毛利輝元養女を江戸の人質に要求するようなことを行ったとしたら、これは相当に輝元の心情を害し、後に西軍決起に対して西軍の総大将として引き受ける大きな要因になったと考えられるからです。

 これが史実として妥当なのか否かは慶長四年と推定される九月十三日付毛利秀元毛利輝元書状において、徳川家康が強く「江戸下向」を(大坂城淀殿に)勧めたという「中納言殿女中」が誰なのかによって全く変わってきます。

 以下のエントリーでは、西尾和美氏の「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」を基に、「中納言殿女中」とは「毛利輝元養女=小早川秀秋正室」であることを前提に記述しましたが、一方で、跡部信氏等が、家康が強く江戸下向を勧めた「中納言殿女中」は、徳川家康の三男(嫡男)である徳川秀忠の室のお江であるとしています。ツイッターで、HI氏より指摘があり、こうした異説について知りました。HI氏のご指摘に感謝します。

 この「中納言殿女中」が「徳川秀忠室=お江」であったとしても、大名の子女は大坂に常住することを義務付けられている事を破る行為であり、当時の家康の傍若無人さを示し、淀殿が怒って阻むのが当然な行為(このようなことが認められてしまえば、他の大名の子女も領国へ下向できてしまうことになります)ではありますが、輝元が直接的に家康に対して強烈な反感や不信感を抱く行為とまではいえません。

 この文書のやっかいなのは、九月十三日付毛利秀元毛利輝元書状にある「中納言殿女中」が、西尾和美氏の唱える「中納言殿女中=小早川秀秋室=毛利輝元養女」説でも、「中納言殿女中=徳川秀忠室=お江」説でも、どちらもそのように読めばつじつまが合うということです。このため、研究者間でも意見の分かれている書状の解釈についてどちらが正しいのかは、現時点では個人的にわかりません。

 以下のエントリーは西尾和美氏の「中納言殿女中=小早川秀秋室=毛利輝元養女」説が正しいという前提の上での考察で、そのように書いています。「中納言殿女中=徳川秀忠室=お江」説という有力な異説が別にあることを前提としたうえで、一考察としてご参照いただければと思います。

(令和2年10月22日追記 おわり、以下原文です。)

 

 豊臣秀吉は、西国の大大名である毛利家との関係を親密なものとするため、何重もの婚姻関係を結んでいます。以下では、西尾和美氏の「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」を元に、豊臣家と毛利家との間にどのような婚姻関係があったかをみていきます。(以下のページは上記著作を参照したページ数です。)

 

 豊臣家と毛利家には以下の婚姻関係があったとされます。(p103~104)

 

① 羽柴於次秀勝と毛利輝元養女との婚姻

② 秀吉養女(大友義鎮娘)と小早川秀包との婚姻

③ 秀吉養女(宇喜多直家娘)と吉川広家との婚姻

④ 秀吉養女(秀吉弟羽柴秀長長女)と毛利秀元の婚姻

⑤ 小早川秀秋毛利輝元養女(宍戸元秀娘)との婚姻

 

 ここでとりあげるのは、⑤小早川秀秋毛利輝元養女(宍戸元秀娘)についてです。

 文禄三(1594)年十一月、秀吉の妻おねの甥、秀吉の元養子であり、小早川家の養子となった小早川秀秋(当時の呼び名は秀俊ですが、ここでは秀秋に統一します)と毛利輝元養女(宍戸元秀娘)との婚姻が行われます。(p107)

 輝元の養女となった宍戸元秀の娘は「輝元室の姪にあたり、また、輝元にとっても従兄弟の娘にあた」(p120)ります。

 しかし、婚姻後の輝元養女と秀秋との仲はよかったとはいえず、特に女房衆から秀秋への讒言が多く、そのため秀秋の輝元養女に対する警戒や腹立ちを招いており、女房衆との関係にひどく悩まされたようです。(p128)

 秀吉死後の慶長四(1599)年九月十三日付と推定されている毛利秀元毛利輝元書状を見ると、このころ別の女性に秀秋の子どもが生まれる状況があり、そうなれば秀秋室の気に障りになるだろうから、という理由で徳川家康が秀秋室の江戸下向を強く勧めたことがわかります。

 同書状から、この家康の勧めに淀殿が強く反発したということが記されています。(p130)

 

 江戸下向とは、つまりは体の良い徳川の人質ということです。側室に子が生まれることは当然当時は普通にあったことであり、家康が小早川家内の問題に介入し、どさくさ紛れに秀秋室を人質にとろうなどいう暴挙をしようとする事に対して淀殿が怒り、阻止しようとするのは当然の事かと思われます。

 

 家康は、輝元にも「自分の勧めを妨害する者がいると聞いているので輝元からも是非申し立てるように言ってき」(p130)ており、これは輝元の養女である小早川秀秋室を江戸の人質にするように、輝元自身が申し立てろ、と家康が輝元に言ってきたわけです。このような家康の所業に対して、輝元が家康に極めて不快感を抱き不信を感じたのは想像に難くありません。のちに、輝元が西軍決起に総大将として応じたのも、結局のところ、このような所業をしている家康に対する不信感と警戒感が相当に大きかったためということになると考えられます。

(また慶長四(1599)年九月は、家康の大坂入城、宇喜多秀家の伏見移動強制、徳川家康暗殺計画疑惑事件(のちに前田利長への嫌疑に発展します)、北政所大坂城退去など政変がめまぐるしく起こった時期です。こうした時期に家康は秀秋室の江戸下向を淀殿・輝元に突き付けてきたわけで、輝元がこれは家康の恫喝であると理解したでしょう。)

 

 結局、慶長四(1599)年十月十一日頃までには秀秋と輝元養女は離縁することと決まり、同女は毛利領国に下向します。(p131~133)

 家康の恫喝をはねのけるには、離縁させるのもやむ無し、と考えた輝元の意向と考えられます。その後、輝元養女は関ヶ原合戦後の慶長七(1602)年八月、興正寺門跡に再嫁しました。(p124~125)

 

 参考文献

西尾和美「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」(川岡勉・古賀信幸編『西国の権力と戦乱〈日本中世の西国社会①〉』清水堂出版、2010年

文禄の役時の宇喜多秀家の立ち位置と黒田官兵衛の動きについて

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1 文禄の役における宇喜多秀家の立ち位置について 

 文禄の役における宇喜多秀家の立ち位置について、中野等氏の『秀吉の軍令と大陸侵攻』(以下①)を参考文献としてみていきます。(以下「」内の記載は、中野等氏前掲書からの引用です。

 天正二十(1592)年四月より始まる文禄の役での宇喜多秀家の立ち位置は、「漢城にあって前線の諸将を統括する立場にはあったが」(①p158)、「彼とて基本的には一軍団(中略)の長であり、そうした意味合いにおいては、他の諸将と同列の存在」(①p158)でしかありませんでした。これは、これまで「総大将はあくまで渡海が予定されている秀吉」(①p158)であったためです。

 しかし、文禄二(1593)年二月十八日付の秀吉朱印状発出に至って、「平壌の敗戦(筆者注:文禄二(1593)年一月七日の小西行長らの平壌退却のこと)に端を発する自軍の退勢という事態に対して、秀吉は軍勢としての一体性・有機性の確保を強く求め」(①p158)、「宇喜多秀家を頂点、すなわち「大将」とする朝鮮侵攻軍の再編」(①p158)を行うことになります。

 このほか、小早川隆景を「宇喜多秀家以下「若者共」の後見が命じられ」(①p159)、「十八日の「覚」では、前野長康(但馬守)・加藤光泰(遠江守)らに対しても「宿老」という位置づけを与えて、秀家に対する意見・助言を促してい」(①p159)ます。

 このように、文禄二(1593)年二月十八日付の朱印状をもって、朝鮮に在陣する諸将は宇喜多秀家を頂点(大将)とする形に再編された訳ですが、秀吉は更に「兵粮の手当を主務」(①p161)として浅野長吉及び、「「御行」すなわち直接的な軍事問題への対処」(①p161)を託すために黒田孝高の両者に渡海を命じます。二月二十八日付小早川隆景宛秀吉朱印状には、「その後の軍事展開(御行)について「一書」を託した黒田孝高(勘解由)の指事に従うべく命じて」おり、秀吉が軍事展開について、黒田孝高に具体的な指示をしていることが分かります。

 この、秀吉が黒田孝高に「一書」で託した具体的な指示とは何か。おそらく、「漢城放棄をやむを得ないことしながら」(①p162)、「全羅(赤国)・慶尚(白国)・忠清(青国)三道の実効支配を目指し」(①p164)、「そのためには「もくそ城」(晋州城)の攻略が不可避の戦略課題と考え」(①p162)たため、晋州城の攻略を現地の諸将に指示するよう黒田孝高に命令したということだと考えられます。秀吉の晋州城攻略命令は三月十日付の「覚」において詳細な命令が出されることになります。(①p164~171)

 

2 文禄の役時の黒田(官兵衛)孝高の動きについて

 以下では、新たに秀吉に渡海を命じられた黒田孝高の動きについて記載します。こちらについては、中野等氏の「黒田官兵衛朝鮮出兵」(以下②)を参考文献としてみていきます。(以下「」内の記載は、中野等氏前掲書からの引用です。) 

 黒田孝高は、文禄の役においては天正二十(1592)年四月から五月にかけて一度渡海し、毛利輝元小早川隆景らと同道していますが(②p167)、病となり秀吉の許しを得て九月末に帰国(②p168~169)この後病が快癒したのでしょう、今回の渡海命令は再渡海ということになります。

 文禄二(1593)年二月中旬に浅野長吉とともに渡海した黒田孝高は、二月下旬には釜山浦に到着しますが、両者とも北上はせず、そのまま釜山付近にとどまっています。これは半島南岸での拠点形成に従っていたとみられます。(②p169)

「さて、漢城をめぐる戦線は膠着し厭戦気分も拡がるなか、明軍は捏上(でっちあげ)の勅使を小西行長の陣営に投じる。日本側はこれを明軍降伏(詫び事)の使節と解釈し、名護屋の秀吉に経緯を伝えた。石田三成増田長盛大谷吉継ら奉行衆と小西行長は偽りの明国勅使を伴って名護屋へ向かう。朝鮮半島を南下してきた奉行衆は官兵衛・浅野長吉と面談する必要を感じたようであり、梁山での合流と決した。」(②p170)

 しかし、この梁山での会合では浅野長吉のみが出向き、黒田孝高は出向きませんでした。孝高は、「朝鮮半島での処置について秀吉の指示を仰ぐため肥前名護屋城に戻ることになる。この間の経緯について、フロイスの『日本史』は次のように記している。

 

 関白(ここでは秀吉)は朝鮮に使者を派遣し、黒田官兵衛殿がその武将たちをもって赤国(全羅道)を攻略し、ついで越冬のための城塞工事に着手するように、と命令した。だが、朝鮮にいる武将たちの間では、まず城塞を構築し、それを終えた後に赤国(全羅道)の攻略に赴くべきであるとの見解が有力であったので、彼らは官兵衛殿を他の重臣とともに、関白の許に派遣してその意向を伝えることにした。

 

 ここでいう「赤国(全羅道)」とは、具体的に晋州を指す。晋州は慶尚道に位置しているが、当時日本側は何故かここを全羅道と属していると認識していた。沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきかで、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため名護屋に戻ろうとしたのである。五月二十一日、官兵衛は名護屋に到着するが、こうした行動は軍令違反ととられてしまう。秀吉の不興をかった官兵衛は対面すら許されずに朝鮮に追い返されてしまう。」(②p170~171)

 また、中野等氏は前田玄以豊臣秀次側近駒井重勝に充てた書状をもとに「この時期の秀吉にとって晋州城の攻略は何よりも優先される軍事上の課題であった。官兵衛はこの晋州城攻略に何らの手配も施さないまま、名護屋に戻ったと見なされたのである。先に述べたように、官兵衛には官兵衛なりの理由もあったのであるが、秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされたのである。」(②p172)としています3.

 

3 黒田孝高の(無断)帰国はなぜ秀吉の激怒を買ったのか?

 上記より、黒田孝高の(無断)帰国が、秀吉の激怒を買ったのか以下にまとめることができるかと思われます。

① 元々、孝高への渡海命令の目的そのものが、晋州城攻略への手配を朝鮮在陣諸将へ指示することだったのでしょう。まず、この命令を実行することをせず、何らの手配も施さないまま、名護屋へ勝手に戻れば職務違反以外の何物でもありません。

② 「朝鮮にいる武将たちの間では、まず城塞を構築し、それを終えた後に赤国(全羅道)の攻略に赴くべきであるとの見解が有力であった」とのフロイスの言ですが、朝鮮にいる武将たちも多数いるわけで、そのうちの誰の意見なのかフロイスの記載では不明です。釜山に留まった孝高が朝鮮在陣の将全員の意見をとりまめられたとは考えられず、「沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきか」の判断(晋州攻略を優先する判断ならば秀吉の判断そのままですので帰国して秀吉と相談する必要はなく、帰国して秀吉と相談する必要があるとしたら、それは「沿岸部の城塞構築を晋州城攻略より優先すべき」という判断をしたということになります)は、現地の武将の意見もあったでしょうが、結局、孝高個人の見解といってよいと考えられます。

 もちろん、現地を見て「秀吉の命令はこうだが、現地で見聞した判断ではこうすべきだ」と判断が分かれる場合もあるでしょう。しかし、この場合も、二月十八日付の秀吉朱印状発出より、朝鮮在陣の「大将」は宇喜多秀家であり、宇喜多秀家を頂点とする「現地指令部」と相談の上、現地の判断を具申すべき話な訳です。

 実際に現地の司令部の判断と、元の秀吉の命令が食い違うこともあった訳で、例えば、秀吉の当初の命令では最前線の拠点を尚州付近としました(①p163)が、「在朝鮮の諸将は、尚州を最前線とする案が現実的ではない旨を秀吉に伝えたようであ」(①p173)り、これに対して「四月十二日にいたって秀吉は、宇喜多秀家毛利輝元らの諸将に充てて、晋州城の攻略を最優先することを条件に、朝鮮における諸将の駐屯場所を現地の判断に委ねることを伝えてい」(①p173)ます。このように秀吉に対する意見具申が正式なルートを使って出された場合は、秀吉も現地の判断に委ねることをしている訳です。

 これに対して、意見具申をする訳でもなく、いきなり帰国して秀吉と直談判に及ぼうとする孝高の行動は、現地の指揮命令系統を完全に逸脱しており、その独断による行動そのものが秀吉としては許されざる越権行為とうつったのだと考えられます。

 また、文禄二(1593)年二月十八日以降、「大将」に位置付けられた宇喜多秀家についても、これ以降何でも現地の「大将」の判断で直接指揮命令ができるようになった訳でもなく、戦略的な判断については、(これまでと同じく)秀吉の判断を仰がねばらならなかったことが分かります。

 

 なお、中野等氏は「『黒田家譜』などは三成以下が東萊に官兵衛と浅野長吉を訪ねたが、両者が囲碁に興じて適正に対応しなかったことを恨み、秀吉に訴えたとする。しかしながら、長吉が梁山に乗り込んで三成等と会談は行ったわけであり、秀吉による叱責の理由も既述した通りである。『黒田家譜』の挿話は、後年石田三成等を貶めるために創作されたものに過ぎず、史実として採用することはできない。」(②p173)としています。

 

 参考文献

・中野等①『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年)

・中野等②「黒田官兵衛朝鮮出兵」(小和田哲男監修『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』宮帯出版社所収、2014年)

考察・関ヶ原の合戦 其の四十八 イエズス会が分析した関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因について

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 『イエズス会日本報告集』に、イエズス会が分析した関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因について記載があります。以下引用します。

 

「しかし、大軍を率いて(上杉)景勝の征伐に出発したかの武将たちは、内府様(筆者注:徳川家康のこと)に対して次のように約束した。自分たちは彼(内府様)が戦さの武将と軍勢をいっしょに派遣するなら尾張の方へ赴こう。それは自分たちが尾張の城郭に到着した時ずっと容易に敵軍を制圧し、そしてこれによって尾張から都へ行く自由な街道を確保できるようにするためである、と。

 内府様は、援軍として武将と兵士を派遣することを拒みはしなかった。なぜなら彼は短時日で、その(尾張の)城へ集められた三万の軍勢に対して少しの休息を取る許可を与えず、ただちにもっとも迅速に岐阜城へ突入させるようにしたからである。①この戦闘の全期間に、内府様の軍勢は己が指揮官の命令を遂行するに際しては最大の迅速さを示した。つまり全軍は、一人の人間の意志に従っていたからである。これに反して敵方では、多数の人々によって指揮されていたので、遅延と緩慢以外の何ものもなかった。なぜなら奉行たちは熟考し、そして互いに多くのことを議論している間に事態に善処すべき機会が両手から逃げてしまったからである。

(中略)

 以上が下(シモ)の九ヵ国(筆者注:九州のこと。これより前の文章に九州の動向が記されていますが、省略しました。)の状況であるが、②多くの地に分散した軍勢を擁していた奉行たちは軍勢を美濃の国へ集結させる意図を少しも棄てず、それを実行した。そこで八万人が集結したが、その力をもってすれば、内府様側についてそれらの地にいたすべての軍勢が短時間で殲滅し根絶されうるものであった。しかし奉行たちの相互間の意見の一致はいかにも乏しく、全三十日の間に、三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである。反対に内府様は、(上杉)景勝に対する戦のために、すべてを適切に配備しておいて、〔彼は軍勢を侮ることなく、③己が息子(秀忠)を大将にして、(上杉)景勝に対して抵抗させた〕③、残りの軍勢を率いて尾張の国へ赴いた。このことは反対(の奉行)派の予想外の出来事であった。なぜなら彼らは、内府様が(上杉)景勝に対して武器を取って抵抗していることを熟知していたし、④それと同時に彼が都へ引き返して、敵方の不正(行為)を撃退しうるほどの軍勢をもつことはできまいと思ったからであった。④しかし、内府様は時間が無駄に過ぎぬよう、尾張へ到着したその日に、美濃にいた軍勢と合流し、そのうえ⑤五万の軍勢を擁するようにした。

翌日彼は敵と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった。彼らの中には、太閤様の奥方の甥であり、太閤様から筑前の国をもらっていた(小早川)中納言(金吾秀秋)がいた。同様にたいして勢力ある者ではなかったが、他の三名の諸侯が奉行たちの軍勢に対して武器を向けた。⑦奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。同じく毛利(輝元)殿〔彼は九ヵ国の国主であった〕の軍勢は、合戦場から戦うことなく退却した。

 こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた。(後略)」(『イエズス会日本報告集』、p306~310)(下線、番号、太字は筆者)

 

コメント

「この戦闘の全期間に、内府様の軍勢は己が指揮官の命令を遂行するに際しては最大の迅速さを示した。つまり全軍は、一人の人間の意志に従っていたからである。これに反して敵方では、多数の人々によって指揮されていたので、遅延と緩慢以外の何ものもなかった。なぜなら奉行たちは熟考し、そして互いに多くのことを議論している間に事態に善処すべき機会が両手から逃げてしまったからである。

→上記の報告書を記述したイエズス会修道士ヴァレンティン・カルヴァーリュは、まず西軍(奉行方の軍)の敗因、東軍(家康方の軍)の勝因として、以下の理由を挙げています。

 

西軍(奉行方の軍)の敗因:西軍は多数の人々(二大老毛利輝元宇喜多秀家)・四奉行(前田玄以増田長盛石田三成長束正家)によって指揮されており、互いに多くのことを議論して指揮していたため、その判断・決定は遅延と緩慢以外の何ものでもなく、事態を善処すべき機会を失い続けた。

東軍(家康方の軍)の勝因:東軍は全軍が一人の人間(徳川家康)の意思に従っており、このため迅速に家康は判断・決定・命令を下すことができ、東軍の軍勢もその命令に迅速に従うことができた。

 

 ②「多くの地に分散した軍勢を擁していた奉行たちは軍勢を美濃の国へ集結させる意図を少しも棄てず、それを実行した。そこで八万人が集結したが、その力をもってすれば、内府様側についてそれらの地にいたすべての軍勢が短時間で殲滅し根絶されうるものであった。しかし奉行たちの相互間の意見の一致はいかにも乏しく、全三十日の間に、三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである。」

→西軍諸将が、美濃に軍勢を集結させようとして、実際に美濃に軍勢が集まり始めたのは九月過ぎのことです。また、下線部にある8万人とは、9月15日の関ヶ原の戦い時に関ヶ原の近辺に集結していた西軍の総数のことを指していると考えられます。

 このため、「全三十日の間に、(筆者注:西軍八万の軍勢が)三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである。」という状況は存在せず、この部分においては、イエズス会関ヶ原の戦いの状況認識は誤っているといえるでしょう。

 

 以下に時系列的に記します。(いずれも慶長5年(1600年)のことです。(※下記の軍勢の数が本当に正しいかは不明ですが、ここでは小野田哲男氏監修の書籍の説に基づきます。)

 

8月23日 東軍、織田秀信の美濃岐阜城を攻略。(東軍、岐阜城攻略部隊は池田輝政福島正則ら3万4千余。織田秀信の軍勢6千程)(小和田哲男、p74~76、p171)

8月23日 東軍、美濃河渡の戦いで、舞兵庫(石田三成家臣)ら千余の軍を破る。

小和田哲男、p80、p171)石田勢らは大垣城に退却。

(※元々、石田三成が率いていたとする美濃方面軍がどの程度の規模なのか。石田三成の軍勢は6千。島津義弘の軍勢は1千程度とされます。(笠谷和比古、p60)同行している小西行長の軍勢は、直属兵2千9百名+与力4千名=6千9百名。(鳥津亮二、p205)これを足した1万4千9百程度が美濃方面軍といえるでしょう。(小西の与力4千名は破格に多く、本当に4千名つけられたかは疑問ですが。)

8月24日 東軍、大垣北方の赤坂の陣に到着。この時の東軍の総数は4万余。(8月23日より数が増えていますが、岐阜城攻略前後に東軍有利とみた美濃近辺の大名たちが東軍についたことによると考えられます。)

8月26日 「増田長盛は、吉川広家に対し、安濃津城攻略の戦功を賞し、併せて美濃表の状況を報じ、赴援を促した。」(藤井治左衛門、p298~299)

8月27日 伊勢安濃津城の富田信高、安濃津城を開城(前日に降伏)。(富田信高の軍勢、1千7百余。毛利秀元吉川広家長束正家安国寺恵瓊長宗我部盛親鍋島勝茂ら西軍3万余)(小和田哲男、p82~83、p171)

安濃津城開城の期日は書籍によって微妙に違うのですが、ここでは小和田氏の説に従います。)

9月1日 徳川家康、江戸を出陣。(家康の軍勢3万2千余)(小和田哲男、p84~85、p171)

9月3日 大谷吉継脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保・平塚為広・戸田重政ら、越前から引き返して関ヶ原に布陣。(6千余)(小和田哲男、p113、171)

(※ 伏見城が落城(8月1日)後に越前を平定した後に北陸道を抑える(主に加賀の前田利長対策)ために大谷吉継が率いた兵は2万余とあり(小和田哲男、p55)とあり、上記の6千余との落差1万4人はどこへ行ったのかが不明です。越前留守居部隊として残った軍勢もいたでしょうが、前田利長の脅威が薄れたため、主に伊勢方面の応援に回った形でしょうか。そもそもこの2万余という数字自体が過大な数字であるかもしれません。)

9月3日 宇喜多秀家、伊勢から戻り大垣城に入る。(宇喜多勢、1万7千余)(小和田哲男、p91、p171)

9月7日 毛利秀元吉川広家長宗我部盛親長束正家、伊勢から戻り南宮山に布陣する。(毛利秀元等の軍勢、3万余。)(小和田哲男、p171)

9月8日 毛利元康・立花宗茂ら東軍側についた京極高次の近江大津城の攻撃を始める。(毛利元康・立花宗茂らの軍勢1万5千余。大津城の京極高3千余)(小和田哲男、p93p171)

9月13日 細川忠興、勅命講和を受け、丹波亀山城を開城。(小和田哲男、p46~47、p171)(丹波亀山城攻略部隊は、小野木重次ら1万5千余の軍勢。細川幽斎勢は5百名程)

9月13日 毛利輝元増田長盛、多賀出雲守に対し、大津城攻撃の激励文を送る。(藤井治左衛門、p352~353)

9月14日 徳川家康美濃赤坂城に着陣。(小和田哲男、p172)

9月14日 小早川秀秋、美濃松尾山城に入る。(小早川秀秋の軍勢、1万1千余)(小和田哲男、p106、172)

9月15日 京極高次、近江大津城を開城し退去。(小和田哲男、p172)

9月15日 関ヶ原の戦い

 

 

 これを以下にまとめると、以下のようになります。

東軍

尾張集結・岐阜攻略軍 約4万

徳川家康直属軍    約3万2千(9月14日合流)

        実質合計7万2千

程度の軍勢だったことが分かります。

 

これに対し、

西軍

美濃方面軍 (石田・小西・島津等) 1万4千9百

宇喜多隊等             1万7千  (9月3日大垣合流)

大谷吉継隊等              6千  (9月3日関ヶ原着陣)

毛利秀元隊等            3万    (9月7日南宮山着陣)

小早川秀秋隊            1万1千  (9月14日松尾山着陣)

合計                7万8千9百

 

 西軍と東軍はほぼ互角、西軍がやや有利ということなります。四捨五入すると、イエズス会が記す、西軍8万とだいたい同じ数字になりますので、実際の西軍の数字もこの程度になるのかもしれません。

 

 しかし、上記をみていくと、美濃方面の西軍はしばらく少なく、西軍が東軍の兵数を一時的に上回るのは、9月7日の毛利秀元隊が南宮山に布陣してから14日に家康の軍が合流するまでの話になります。

(ちなみに、8月26日「増田長盛は、吉川広家に対し、安濃津城攻略の戦功を賞し、併せて美濃表の状況を報じ、赴援を促した。」(藤井治左衛門、p298~299)とあり、他の諸将へも美濃への集結を指示したのは大坂城増田長盛であるということがうかがえます。)

 これは、関ヶ原の戦いの8日前。イエズス会の言うような「30日ものあいだ機会があったのに何も攻撃しなかった」という状況とは全く違います。

 西軍がイエズス会の指摘通りにするならば、9月7日に南宮山に毛利秀元等の隊が合流した後、9月14日に家康本隊が到着する前に、赤坂の陣の部隊4万に対して西軍は決戦を挑むべきだったのでしょう。その時点であれば、西軍の総軍勢は7万8千9百となり約1.7倍の兵力差になります。これで確実に勝てるかまでは当然分かりませんが、少なくとも実際に起こった関ヶ原合戦よりかは遙かに有利な状況になります。

(9月7日の時点で、小早川秀秋がどこにいたのかは実は不明です。慶長5年8月29日付の保科正光(徳川家臣)の自らの家臣宛の書状によると、大垣城石田三成らに加えて小早川秀秋も籠城しているとの記載があります。(白峰旬、p36)これがどの程度精度の高い情報か分かりません。上記の7万8900人には小早川秀秋も入れていますが、小早川秀秋の軍勢を除くと当時の西軍は、6万7900人程度になります。)

 問題は、この9月7日~9月14日の間に命令を即決できるような総大将(すなわち毛利輝元)の能力が欠如していたことです。南宮山の毛利秀元隊は、南宮山に籠ってしまい全く戦う姿勢をみせません。(総大将の意向か分かりませんが、主力の毛利軍にやる気がない以上、そもそも一大決戦など無理な話です。)

 大津城攻めの毛利元康ら1万5千の軍勢が関ヶ原の戦いに参加できなかったのも、西軍の大きな敗因といえます。京極高次の大津城は確かに要地であり、排除しないと兵糧等の輸送に支障をきたすことも分かりますが、赤坂の東軍主力を打倒できず敗退してしまえば、そもそも史実通りほぼ勝負はついて終了になります。「重要な事態」より更に「致命的に重要な事態」というのは存在する訳です。

 よく石田三成が西軍の総大将といわれますが、実際、毛利秀元や毛利元康のような毛利一門に対して、総大将毛利輝元をすっとばして三成が直接秀元・元康に直接指示できるなんてことは常識的に考えられません。こういったところから見ても、形式的にも、実質的にも全軍の指揮(方面指揮官である一門の毛利秀元や毛利元康らに対しても含め)ができるのは毛利輝元しかできないということが分かります。

 つまり、毛利輝元は毛利元康隊を関ヶ原方面へ急行させるべきだったのです。あるいは毛利秀元隊に督戦し、大垣城勢と連合して赤坂の東軍を攻撃させる作戦を実行すべきだったのです。こういった判断ができてこそ「名将」です。そしてこの決断は大津城攻めの指揮官が毛利元康で分かるように、総大将輝元以外に決断できません。

「勝ち」のフラグにまったく気が付かない総大将では勝てません。逆に家康は「勝ちフラグ」を適切に見極め、美濃へ急行しました。総大将の能力差が勝敗を決めたといえます。 

 

「己が息子(秀忠)を大将にして、(上杉)景勝に対して抵抗させた。」

徳川秀忠は、上方へ向けて出陣しているので、この「己が息子」は秀忠ではなく次男秀康の誤りと思われます。(元々の原文の間違いか、訳文の間違いかは分かりませんが。)

 

 ④「それと同時に彼が都へ引き返して、敵方の不正(行為)を撃退しうるほどの軍勢をもつことはできまいと思ったからであった。」

→家康が上洛してくるかどうかについては、西軍首脳部はあまり予想していなかったのは、実際の驚愕ぶりから分かります。この読みの甘さは西軍諸将に共通していたといえます。(徳川方と内通していた吉川広家は家康の動向を把握していたかもしれませんが。)

 

 ⑤「五万の軍勢を擁するようにした。」

→家康が率いた軍は諸書では3万2千程度とされています。(小和田哲男①、p84~85、p171)『イエズス会報告書』が5万としている根拠は不明です。

 

⑥ 翌日彼は敵と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった。」 

奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。同じく毛利(輝元)殿〔彼は九ヵ国の国主であった〕の軍勢は、合戦場から戦うことなく退却した。」

関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋らの裏切り、毛利勢の不戦が関ヶ原の戦いの直接の敗因であると、イエズス会も認識していることになります。

 

まとめ 

 イエズス会の報告によると、関ヶ原の西軍の敗北は以下にまとめることができます。

 

A 西軍は首脳部が多く、互いに多くのことを議論して指揮していたため、その判断・決定は遅く、事態を善処すべき機会を失い続けたのに対し、東軍は全軍が一人の人間(徳川家康)の意思に従っており、このため迅速に家康は判断・決定・命令を下すことができ、東軍の軍勢もその命令に迅速に従うことができたため勝利した。

B 直接的な敗因としては、当日の小早川秀秋らの裏切りと毛利勢の不戦により西軍は敗北した。

 

Aについては、西軍の全軍の判断・行動が遅く、勝利の機会があってもそれを失い続けたのに対し、東軍が勝機とみると判断を即決し、行動を迅速に行ったため勝利したという指摘は妥当でしょう。

 しかし、西軍の判断の遅さの原因を集団指導体制による無駄な議論による時間の浪費にイエズス会は原因を求めますが、元々総大将毛利輝元の立てた全国に兵を分散させる戦略や、せっかく美濃に軍を集結させたのに、家康が到着する前に東軍主力と決戦をしようとせず毛利勢を南宮山に籠り続けさせる等、戦略そのものが「愚策」なのであり、仮に、総大将輝元が東軍の家康と同等の軍事指揮権を掌握し一人の指揮で決断・命令できていたとしても、元々の戦略が「愚策」である以上、この敗因は覆りません。

 西軍が集団で議論して全軍指揮していたといっても、結局は最大兵力を擁し、総大将であった毛利輝元の意向が色濃く反映された全軍の指揮であった訳で、元々の総大将輝元の全軍指揮が誤っていれば勝ちようはありません。他の大老・奉行も、総大将毛利輝元の戦略ではまったく勝ち目は見えないが、西軍全軍の大きな部分を占める毛利軍の言う事を無下にすることもせず、懸念する意見を伝えながらも、結局輝元の愚策が通ったということでしょう。

 仮に西軍諸将が「輝元は無能」と判断し毛利を見限れば、西軍内で内部分裂ということになり、敵を目の前にしている軍が内部分裂しては当然勝ち目がありません。イエズス会の指摘する「集団体制が問題」という話だけでなく、その中の第一人者に選ばれた人物が「無能」だった場合どうするかという課題が西軍諸将に突き付けられ、西軍諸将はその課題を克服できなかった訳です。(これは短期間で克服できる問題ではないので、「無能な輝元を総大将にして、短期決戦となった時点で西軍の負けはほぼ決まった」という事になるでしょう。)

 このため、「西軍は集団で議論して全軍の指揮をしていたため、判断が遅れ負けた」というイエズス会の見解は、一般論としては正しいのですが、関ヶ原の戦いの敗因の分析としては妥当ではないかと思われます。

 

Bについては、妥当といえます。主力である毛利勢が不戦(というか前日に降伏している)の戦いで西軍が勝てる訳がありませんし、戦闘中に裏切りが発生すれば、致命的な打撃を受け敗北する可能性が高いのは当然のことといえます。

 

 

 参考文献

小和田哲男監修『関ヶ原合戦公式本』Gakken、2014年

笠谷和比古関ヶ原合戦大坂の陣吉川弘文館、2007年

白峰旬「通説打破!"天下分け目の戦い“はこう推移した 関ヶ原合戦の真実」(『歴史群像 2017年10月号』Gakken、2017年所収)

鳥津亮二『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像-』八木書店、2010年

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1979年

松田毅一監訳『十六・七世紀 イエズス会日本報告集 第Ⅰ期第3巻』同朋舎出版、1988年