古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

詐欺師の使う手法についてリスト(作成中)

詐欺師の使う手法について、サンプルを挙げていきたい。

以下のような手法を使用する人間は詐欺師だと思って疑ってかかる必要がある。

 

1 「二択問題の罠」

⇒AかBか二択の選択肢を突き付けることにより、相手にA・B以外の他の選択肢がある可能性を考えさせなかったり、そもそも質問に回答する必要がない事を忘れさせる手法。

 

2 「説明可能なひとつの問題にのみフォーカスする」

⇒色々複数の問題があるのにも関わらず、他の問題はなかったように、説明可能なひとつの問題にのみフォーカスする手法。他の問題がある事を気づかせなかったり、忘れさせる効果がある。

 

3 「挙証責任の転換」

⇒自ら証明すべきことを、なぜか相手方に挙証させようと責任を転換する手法。これをする人間は詐欺師と思ってよい。

 

(以下、作成中)

 

 

(以下、作成中)

 

石田三成関係略年表⑰ 慶長三(1598)年一月~七月 三成39歳-慶長の役②、蔚山城の戦い、蒲生秀行の宇都宮転封、上杉景勝の会津転封、蜂須賀家政・黒田長政らの処罰、秀吉の病重篤となる、筑前・筑後巡検

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月 ★上杉景勝は、新春を伏見屋敷で迎えたとされる。(尾下成敏②、p270)

正月四日 ★「日本軍の諸勢が蔚山籠城中の加藤清正の軍勢を救援し、明・朝鮮国の軍勢を撤退に追い込む。」(柴裕之、p187)

正月六日 ■島津義弘石田三成蔚山城の戦いに関する詳細な戦況報告を送っている。(中野等、p347)

正月十日 ■「越後の上杉景勝は、秀吉から慶長三年(一五九八)正月十日付で奥州会津への国替を命じられる。蒲生秀行の宇都宮への減転封をうけたものである。(中略)この転封を進めるため、三成は奥州に下ることになる。」(中野等、p348)

正月十一日 ★上杉景勝は伏見を発って大坂に向かい秀吉に国替えの礼を行う。(尾下成敏②、p270)

正月十二日 ★上杉景勝、伏見屋敷に戻る。(尾下成敏②、p270)

正月二十一日 ■徳川家康が四奉行(前田玄以増田長盛石田三成長束正家)に伏見城の「御普請」に応じるため人数を京着させることを告げる書状を出している。(中野等、p342~343)

正月二十五日 ★浅野長政は、この頃徳川秀忠と共に伏見にいたものと考えられる。(相田文三、p330)

二月十日 ■「直江兼続が、三成の家臣今城次右衛門尉・木村造酒丞らに充て、上杉旧領の北信濃に位置する海津城(のち松代城)・長沼城の両城引き渡しに関わる覚書を発する」(中野等、p350

二月十六日 ■「三成は、上杉家老臣直江兼続連署して、会津領などに禁制などを発給している。」(中野等②、p308)

二月二十一日 ■慶長二年六月十二日付で蒲生家重臣、蒲生郷成・小倉良清・蒲生郷可による「御新座衆へ相渡物成御算用状」といった資料が、慶長三年二月二十一日付で石田家家臣、八十島助左衛門尉充て提出される。(中野等、p350

三月四日 ■「さらに、この両名(筆者注:石田三成直江兼続)は連署して、蒲生家重臣蒲生郷安(四郎兵衛)の引き移りに関わる伝馬・人足の規定を定めている。」(中野等、348)

三月六日 ★『上杉家御年譜』には、この日上杉景勝が伏見を発ったとされる。(尾下成敏②、p270)

三月十三日 ★秀吉、「日本勢の中で検討された戦線縮小案を「曲事」と咎める。」(柴裕之、p187)

三月十五日 ★秀吉、「山城醍醐寺で大規模な花見を催す(醍醐の花見)。」(柴裕之、p187)

三月十九日 ★『上杉家御年譜』には、この日上杉景勝会津城に到着したとされる。(尾下成敏②、p270)

四月三日 ★浅野長政、「伏見で徳川秀忠より幸長帰朝の祝いと明後日の来訪についての書状を受けている。」(相田文三、p330)

四月十五日 ■「三成が越後国刈羽郡に関する条書を発している。」(中野等、p351)

四月二十三日 ★「豊臣秀頼が数え六歳にして従二位権中納言となる。」(柴裕之、p187)

五月二日 ★軍目付の垣見一直・熊谷直盛・福原長堯ら、朝鮮より帰国し、上洛し秀吉に謁見する。この報告により、蜂須賀家政黒田長政・竹中隆重・毛利友重・早川長政に処分が下る。(中野等、p347)

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五月三日 ■石田三成、越後から佐和山に帰着。(中野等、p352)

五月三日 ■福原長堯、石田三成に書状を送る。五月二日の秀吉への謁見内容についての報告。

詳細↓

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五月五日 ■石田三成、帰京。(中野等、p352)

五月二十二日 ■石田三成、島津家の「算用場」に関わる規定などを発給する。(中野等、p360)

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五月二十三日 ■石田三成、嶋井宗室充て、博多への下向及び宿所を嶋井邸とすることを伝える。(中野等、p361)

参考↓

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五月二十六日 ■垣見一直・熊谷直盛・福原長堯、島津義弘に書状を送る。

 この書状には、筑前筑後から越前北庄に小早川秀秋が転封となったことを受け、秀吉は旧小早川領を石田三成に与えようとしたが、佐和山に配すべき別の人物がいないということを理由に三成が辞退したこと、代わりに筑前筑後の代官としての支配を三成が命じられたこと、また、来年には福島正則石田三成増田長盛を大将として朝鮮に軍勢を派遣する予定が書かれている。(中野等、p357~358)

参考↓

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★この書状で、浅野「長政が「奉行」に加われたことが、島津義弘・家久に告げられている。」(相田文三、p330)

参考↓

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五月二十九日 ■三成、京を発ち筑前に下向する。(中野等、p361) 

六月 ★秀吉「重篤の身になる。」(柴裕之、p187)

六月十七日 ■三成、博多入りし、二十六日まで逗留する。(中野等、p361)

六月二十二日 ■三成、小早川旧領に対する年貢収納の詳細を定める「条々」を発する。(中野等、p361)

六月二十六日 ■三成、この頃から筑前と北筑後巡検する。(中野等、p362)

七月二日 ■三成、この頃までに博多に戻っている。(中野等、p363)

七月三日 ■この日も、三成の在博多が確認される。(中野等②、p309)

七月十日 ■七月十日以前には、三成は筑前を発って伏見に帰る予定であった。(中野等、p363)

七月十二日 ★秀吉、徳川家康毛利輝元以下諸大名に遺物を分かち後事をたくす。(穴井綾香、p234)

七月十五日 ★秀吉、「この日付で、諸大名・小名に秀頼への忠誠を誓った起請文を提出させる。」(柴裕之、p187)

七月十五日 ★徳川家康前田利家毛利輝元との間に起請文が交わされる。(中野等、p364)

七月十五日 ■島津義弘宛、増田長盛浅野長政前田玄以連署状。長束正家が越前に、石田三成が九州へ下向という理由で奉行衆三人となっている旨がわざわざ述べられており、「五奉行」の連署が本来の形であることが示されている。(中野等、p360)

七月十五日 ★西笑承兌、「在伏見:家康・利家宛、秀吉への忠誠起請文起草」(杣田善雄、p413)

七月中旬 ■この頃、石田三成の在京が確認される。(中野等、p364)

七月十七日 ★浅野長政、「島津義弘に対し、秀吉の病状回復を告げている。」(相田文三、p330)

七月二十二日 ★秀吉の病を見舞うため前田利家徳川家康らと登城。(尾下成敏、p221)

七月二十三日 ■この頃、大阪城の大規模な拡張工事が進められる。この頃、浅野長政石田三成増田長盛大坂城に下向している。(中野等、p365~366)

七月下旬 ★秀吉の遺物分けがすすめられる。(中野等、p364)

七月二十四日 ★浅野長政、「近江神崎郡において蔵入地1万石の管理と、5000石を加増する旨の秀吉朱印状を受けた。(相田文三、p330)

 

※慶長三(1598)年八月以降は、「慶長争乱(関ヶ原合戦)時系列まとめ・関ヶ原への百日」を参照。↓

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 参考文献

相田文三浅野長政の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

穴井綾香「毛利輝元の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

尾下成敏「前田利家の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

杣田善雄「西笑承兌の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

石田三成関係略年表⑯ 慶長二(1597)年 三成38歳-慶長の役①、宇都宮氏改易事件

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月十一日 ■石田三成、「長束正家増田長盛前田玄以ら奉行衆とともに、近江国芦浦観音寺に対して連署状を発し、伏見城の普請用材を拠出するように命じている。」(中野等、p313)

正月二十四日 ■三成、「秀吉の京屋敷造営のために入京している」(中野等、p313)

二月二十一日 ★秀吉、「一門衆の小早川秀秋を総大将に日本軍の朝鮮国への再出兵を命じる。」(柴裕之、p187)

二月二十五日 ■前田玄以長束正家石田三成増田長盛、日用取(日雇いを業とする者)の停止を令する。この令は前年(慶長元年)に出されていたものの再令であった。(中野等、p314~315)

三月一日 ★伏見城再建の普請工事が開始される。(中野等、p314)

三月七日 ■前田玄以・宮部継潤・石田三成増田長盛長束正家連署して「掟書」を発する。内容は、「辻切・摺・盗賊などの取り締まりのため、武家奉公人については五人組、それより下層の下人については十人組を組織して、相互監察を強めようとするものである。」(中野等、p318~319)この「御掟」は伏見城築城に関わって発令された可能性が高い。(中野等、p319)

三月二十六日 ■前田玄以石田三成増田長盛連署して聚楽付近にあった侍屋敷は秀吉の意向としてすべて没収することになった旨を記した書状を発している。(中野等、p320)

四月二日 ■前田玄以石田三成長束正家増田長盛、秀吉の御意として、慶長二年の夏から田方(裏作)麦の収穫量の三分の一を領主に納めさせようとする命令を発する。(中野等、p328~329)

四月二十日 ■三成、近江国内の村々にも田方年貢の徴収を命じる印判状を発する。(中野等、p330~331)

五月 ■三成、神龍院梵舜に『源平盛衰記』の書写を依頼する。(中野等、p332)

五月十四日 ★秀吉、秀頼を伴って大坂城から伏見城に移る。(中野等、p335)

五月十六日 ■秀頼が伏見城へ移ったことを祝う賀儀が十七日に行われるため、長束正家石田三成浅野長政にこの賀儀に参上するよう書状で伝えている。(中野等、p334)

→文禄5(1596)年)四月十日、長政の身上に関わる事件により、伏見で騒動が起き、これにより、長政の息子幸長は能登に配流となり、長政は実権を失ったとされますが、上記の書状をみると、この頃には長政の復権の兆しがみえます。

 これより前の文禄五年七月十三日の畿内地震では、いち早く長政は伏見城のもとに駆け付けたため、これにより、能登に蟄居していた幸長も召還されたとあります。(相田文三、p329)

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六月 ★「朝鮮半島南部の確保を目的とした戦争が始まる(慶長の役・丁酉倭乱の開始)」(柴裕之、p187)

六月十二日 ★小早川隆景が備後三原で急死する。(中野等、p345)

六月末 ★浅野長政甲斐善光寺の大仏を京都に運ぶため、甲斐に下向する。(相田文三、p330)

七月十五日 ★巨済島(唐島)付近での海戦が行われる。(中野等、p336)

七月十八日 ★浅野長政、大仏乳酪に騎馬で供奉。(相田文三、p330)

八月十六日 ★南原城陥落が報じられる。(中野等、p336)

七月二十六日 ★「家臣で親戚でもあった福島正則従五位下侍従となり、さらに羽柴苗字を与えられる。」(柴裕之、p187)

八月十日 ★島津義弘・家久充ての秀吉朱印状に浅野長政が添え状を発給している。(相田文三、p330)

九月 ★秀吉が、毛利輝元に対し名護屋か博多で後詰するように命じるも輝元はみずから朝鮮に渡海すべく領国を発してしまう。(中野等、p345)

九月九日 ■前田玄以石田三成増田長盛長束正家書状。山内一豊に麦年貢の帳が提出されていないことを咎め、督促している。

九月二十五日 ■真田信幸充て石田三成書状。内容は、伏見城普請のさなかに、信幸が下国せざるをえなくなった旨を了承し、父昌幸にあとを任せるとよいと述べた内容。(中野等、p321~322)

石田三成真田信之(信幸)の友誼については↓

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九月二十八日 ★秀吉、「新たに築いた京都新城から嫡男の秀頼とともに参内する。秀頼が内裏で元服」(柴裕之、p187)する。

九月二十九日 ★秀頼、「従四位下左近衛中将となる。同日、京都大仏(方広寺)の近辺に耳塚(鼻塚)を築き、朝鮮での戦場で切り取られた耳・鼻の供養が行われる。」(柴裕之、p187)

十月一日・五日 ★浅野長政、伏見の徳川家康屋敷を訪ねる。(相田文三、p330)

十月 ★下野国宇都宮城主であった宇都宮国綱が突如改易される。この事件は類縁の佐竹氏も巻き込まれることとなり、佐竹家の取次の石田三成も対処を求められることになった。(中野等、p337)

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十一月 ★加藤清正、「慶尚道蔚山で城郭普請を進める。」(柴裕之、p131)

十一月八日以前 ★浅野長政、蒲生家の宇都宮転封の観察として宇都宮に下る。(相田文三、p330)

十二月二十三日 ★毛利輝元が伏見に上り秀吉に拝謁する。これは朝鮮へ渡海しようとする輝元に対し、渡海には及ばぬとすみやかに帰還を命じ、輝元はやむなく壱岐から引き返してきた。今回の輝元上洛は秀吉の配慮に対する御礼言上のためである。

 この時、秀吉に近侍する石田三成の「肉声」が残されている。(中野等、p345~346)

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十二月二十三日 ★「明・朝鮮両国の軍勢が加藤清正蔚山城を攻め囲む。」(柴裕之、p187)

 

 参考文献

相田文三浅野長政の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年所収) 

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

石田三成関係略年表⑮ 文禄五・慶長元(1596)年 三成37歳-文録の役⑤(講和使節の来日→交渉決裂)、慶長伏見地震、サン・フェリペ号事件、二十六聖人殉教事件

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月 ★沈惟敬、釜山を発ち名護屋へ向かう。(中野等③、p180)

正月二十三日 ■前田玄以増田長盛石田三成長束正家は、秀吉と秀頼に忠誠を誓う起請文を提出する。「内容は五ヵ条に及び、冒頭の箇条で次のように誓約する。すなわち、格段の取り立てを受けた連署の四人は、その厚恩に報いるため、秀吉と秀頼に心底奉公し、今後は四名として「諸事」を申し談じ、別心なく「公儀」のために忠節を尽くす。続く箇条では、互いに依怙贔屓なく、法度・置目を遵守することなどを述べ、最後の箇条では、案件によって奉行間での厳格な守秘義務を定めている。

 この起請文から看取されるのは、連署者間の連帯と排他性であろう。」(中野等、p272~273)

三月 ■「島津義弘は朝鮮に在陣している子息忠恒に対し、帰国して上洛するよう促している。もとより明国使節の来日に備えてであるが、こうした指示も三成の意向を受けたものであった。」(中野等、p275)

三月一日 ■「三成は領内の村々に掟書を下す。」(中野等、p286)

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三月十日 ■この頃から、石田三成家臣の安宅秀安が「三河守」を名乗るようになる。(中野等、p301)

三月二十三日 ■三成は、「家中に対して知行宛行状を発給している。」(中野等、p299)

四月二日 ★明国正使の李宗城、日本側の陣営から逃亡。このため、副使の楊方亨を正使とし、新たな副使には沈惟敬がおさまった。(中野等③、p180)

四月五日 ■島津義弘の書状によると、女子(御下・桂樹院)を伊集院幸侃の子忠真に娶すよう、安宅秀安に指示されたとある。(中野等、p301)

四月十日 ★浅野長政の身上に関わる事件により、伏見で騒動が起きた。これにともない嫡子幸長が領国を取り上げられ、長政も政治的な影響力を失ったとされる。(相田文三、p329)

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五月 ■石田三成の意向を受け、島津義弘は子の忠恒に対して帰国して上洛するよう促している。(中野等、p275)

五月十一日 ■「豊臣氏(羽柴家)の親類・徳川家康が正二位内大臣となる。」(柴裕之、p186)「前田利家権大納言に昇任する。」(中野等、p274)

五月二日 ■薩摩に配流されている近衛信輔、越後に配流されている菊亭晴季の赦免が決定される。(中野等、p274)その後、菊亭晴季は早々に帰洛するが、「宮中への使者となった家康と利家が島津家に行った提案が、三成の意向とは相容れなかった」(中野等、p275)ことにより、近衛信輔の帰洛は遅れることになったようである。(中野等、p275)

五月十三日 ★「拾が童昇殿で初の参内を果たす。この後、拾は実名「秀頼」を名乗りだす。」(柴裕之、p186)そうした次第を諸大名に告げ、準備を促す役割も三成ら四奉行によっておこなわれた。」(中野等、p274)

五月二十七日頃 ★朝鮮諸将への帰還命令が急遽撤回される。(中野等、p275)

五月二十八日 ■石田三成島津忠恒に帰還中であっても朝鮮に戻るように指示を与えている。(中野等、p276)

六月半ば ★楊方亨、釜山から対馬にいたる。朝鮮の使節もこれに従う。(中野等③、p180)

六月十六日 ■前田玄以長束正家増田長盛石田三成連署で講和使節を受け入れる準備を進めている書状がある。(中野等、p305~306)

七月四日 ■三成、「島津義久・義弘と連署して、島津領内に対し当給人への年貢収納を命じる書状を発している」(中野等②、p307)

七月十日 ★近衛信輔、鹿児島を発つ。(中野等、p275)

七月十ニ日 ■三成、「佐竹領内所替えの件で、佐竹家臣佐藤大隅守に書状を発している。この時の在所は京都と考えられる」(中野等②、p307)

七月下旬 ★この頃やり取りされた書状には、来春の朝鮮半島の内陸部への侵攻を示唆する書状が見られ、交渉の破綻がある程度予見されていたようである。このため、朝鮮在陣諸将の日本帰還が一部見送られ、一定の兵力を継続して駐留することに決したとみられる。(中野等、p276)

閏七月十二日~十三日 ★「畿内マグニチュード八に近い規模の大地震(文禄地震)が起きる。山城伏見城天守を始め建造物が大破し、山城国伏見山へ移転のうえ、新たな伏見城を築城する。」(柴裕之、p186)

★この時、(謹慎中であったとされる)加藤清正がいち早く伏見城の秀吉のもとに駆けつけた「地震加藤」の逸話があるが、謹慎中であったことも含めて史実ではなく、虚構の可能性が高い。

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閏七月十三日 ★いち早く浅野長様が伏見城の秀吉のもとへ駆けつけた。このためか、4月の事件後能登に蟄居されていた幸長が召喚されることになる。(相田文三、p329)

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八月十四日 ★伊達政宗浅野長政に絶縁状を告げられている。(相田文三、p329)

八月中旬 ★明国及び朝鮮の使節が堺に到着。(中野等③、p181)

八月十八日 ★近衛信輔、大坂に到着。(中野等、p275)

八月二十六日 ★「スペイン船サン・フェリペ号が土佐国に漂着する。」(柴裕之、p186)

八月二十六日 ■前田玄以長束正家増田長盛石田三成連署状で、諸大名に九月一日の使節引見のため、八月晦日までに大坂に入るよう指示を出している。(中野等、p306~307)

九月一日 ★「摂津大坂城で明国使節に対面し、「日本国王」の任官を受ける。」(柴裕之、p186)「列席した徳川家康を筆頭に前田利家宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元ら諸大名にも明国の官職が授与された。」(柴裕之、p128)

九月二日 ★「秀吉の「唐入り」事業の功績を示す要望が受け入れられず、講和交渉は決裂する。」(柴裕之、p186)「明国使節朝鮮半島からの日本軍の完全撤退を求め、また朝鮮国王子が差し出されなかったことに、秀吉は激怒」(柴裕之、p129~131)し、交渉は決裂となる。

九月 ★秀吉、朝鮮半島への再派遣を決定。(中野等③、p188)

九月十五日 ★近衛信輔、京都に戻る。(中野等、p275)

九月十七日 ■石田三成島津義弘に対して島津家中に対する知行加増について指示を与えている。(中野等、p311~312)

十月上旬 ★小西行長肥前名護屋に入る。(中野等③、p188)

十月七日頃 ■石田三成、相良頼房へ国許への帰国と再渡海を指示する。(中野等、p311)

十月二十七日 ★年号が「慶長」に改元される。(柴裕之、p132)

十一月上旬 ★加藤清正、熊本を発し朝鮮半島へ向かう。(中野等③、p188~189)

十一月十一日 ■増田長盛長束正家石田三成前田玄以加藤清正に書状を発し、「文禄四年算用分の年貢運上を督促している。」(中野等②、p307~308)

十一月下旬 ■三成、「近江国佐和山領内の寺社に宛行状を発している」(中野等、p299)

十二月 ★秀吉、閏七月の地震で倒壊した伏見城を再建するため、諸大名に対する課役の指示を下す。(中野等、p313)

十二月上旬 ★小西行長、釜山で再び和平への工作を行う。具体的には朝鮮側に王子の来日を促すことであったが、この工作は失敗に終わる。(中野等③、p188)

十二月八日 ■秀吉、京都と大坂でキリシタンの捕縛を命じる。(中野等、p309)

十二月十九日 ★「肥前国長崎でキリスト教フランシスコ会士と教徒ら二十六人を処刑する。」(柴裕之、p186)

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十二月末 ★明国使節、釜山到着。(中野等③、p188)

 

 参考文献

相田文三浅野長政の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年所収) 

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文録・慶長の役吉川弘文館、2008年

石田三成関係略年表⑭ 文禄四(1595)年 三成36歳-文録の役④(休戦中)、佐竹・島津領国の知行目録発出、蒲生氏郷死去、秀次事件

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月 ★「明国皇帝は日本への勅使派遣を正式に決定」(中野等、p254)する。

正月十五日 ★「「高麗国動御人数帳」が発せられて、(豊臣秀次出馬の)計画は具体化された」(中野等、p257)

正月十七日 ■石田三成充て浅野長吉書状。上杉領における金の採掘を上杉景勝に促すよう、三成に伝えている。(中野等、p237~238)

正月十七日 ■島津忠恒充て安宅秀安書状等によると、石田三成にも朝鮮渡海命令が下っており、石田三成増田長盛とともに釜山浦に駐屯することになっていた。(中野等、p257)

二月 ■石田三成奉行衆によって行われた島津領国検地が完了。(中野等、p244)

二月七日 ★蒲生氏郷、伏見にして死去。(中野等、p246)

二月二十二日 ■前田玄以長束正家石田三成増田長盛・浅野長吉、「覚」を発する。「秀吉の身辺警護をする馬廻り衆・小姓衆を、伏見あるいは大坂城への集住を徹底させようとして発せられた「覚」である。」(中野等、p234~236)

二月二十三日 ■石田三成は相良頼房から送られた漆を秀吉御前に披露している。(中野等②、p306)

四月四日 ■九州に派遣されていた石田家中の島津領国検地衆が帰洛する。(中野等、p244)

四月六日 ★小西行長家臣内藤如安、明国勅使とともに漢城に入る。(中野等、p254)

四月十六日 ★秀吉の「弟秀長の養子となっていた甥の豊臣秀保が病死する。」(柴裕之、p186)

四月下旬 ★明国正使李宗城の意を受けた沈惟敬が釜山に入り、小西行長と面談を行う。(中野等③、p172)

五月十二日 ★「明国使節への派遣に際して、改めて講和条件を提示する。」(柴裕之、p186)「内容は、①明皇帝の求めにより朝鮮を許すので、朝鮮国王子を人質に差し出させたうえ、日本が管轄する朝鮮半島の南部を王子に与えること。②それを受け、朝鮮半島の南岸に設けた一五城のうち一〇を破却するつもりであること、③明皇帝の求めで朝鮮との和平に応じるのだから、明国使節が皇帝の詔書を携え日本に来たうえで、日明両国間の貿易を実施すること、であった。」(柴裕之、p128)((中野等③、p172~173)では五月二十二日になっています。)

五月二十三日 ★豊臣秀吉朱印状。朝鮮半島における倭城について過半の破却を命じる。(中野等、p175)

五月二十四日 ■朝鮮在陣の島津忠恒充て石田三成書状。

「◇小西行長(小摂)が重ねて渡海しますので、(それに託して)一書を以てご連絡します。まずもって(日明間の)御和平が調うこととなり、公私の大慶とはまさにこの事です。そういう次第ですので、皆様の(日本への)御帰朝が決定するのも間もなくのことでしょう。それについて、そちらでの御陣替など、何によらず御相談事がある場合には、小西行長(摂津守)と寺沢正成(志摩守)の両人に何事であっても御相談ください。この両人は私がとりわけ親しくしております。くれぐれも御隔心などございませんように(お願いします)。あなたの御用には尽力するように、私からも頼んでいますので、そのようにご理解ください。」(中野等、p255~256)

六月三日 ■秀吉、蒲生氏郷死後に蒲生家の提出した検地の申告が過少であり、蒲生家年寄衆の不届を糾弾したうえで、蒲生家を改易し氏郷の嗣子鶴千世には堪忍分として近江二万石を与えるとした。この措置は多くの大名に秀吉朱印状と奉行衆(前田玄以・浅野長吉・石田三成増田長盛長束正家連署状によって知らされる。(中野等、p246~248)

六月十九日 ■秀吉、「佐竹義宣(羽柴常陸侍従)に充てた知行割りの目録を発する。」(中野等、p249)検地の結果、佐竹領国は54万5千800石と算定される。(中野等、p251~252)

六月二十一日 ★秀吉、蒲生家改易処分を撤回する。蒲生鶴千世の岳父となった徳川家康の説得が奏功したといわれる(秀吉の命により家康娘が鶴千世に嫁いでいる)。(中野等、p248)

六月二十九日 ★秀吉、「島津義弘(羽柴薩摩侍従)を充所とする領知宛行状・知行割が発給される。」(中野等、p249)検地の結果、島津領国は57万8千733石と算定される。(中野等、p249~251)

七月三日 ■秀吉、石田三成増田長盛聚楽に派遣し、秀次への詰問を行う。(中野等、p256)

七月八日 ★「謀反の嫌疑を懸けられた豊臣秀次高野山へ出奔する。」(柴裕之、p186)

七月十日 ★秀吉、秀次の高野山追放を発表する。(柴裕之、p126)

七月十日 ■秀次の高野山出奔の動揺を静めるため、奉行衆(前田玄以石田三成増田長盛長束正家)が諸大名に書状を発する。

「◇このたび、(秀吉が)関白(秀次)殿を不意の御覚悟によって高野山へお遣わしになりました。それだけのことであり、ほかに子細はありません。その旨(秀吉の)の御朱印が出されますのでご諒解いただき、下々へもよろしくご説明ください。万一根も葉もない噂がたったりしては問題であるとの配慮から、このように仰っています。」(中野等、p257)

「文言を忠実に読めば、決して大事には至らないので安堵するように、となる。」(中野等、p257)

七月十二日 ★秀吉、高野山の住僧たちに秀次の監視を命じる。(柴裕之、p126)

七月十二日 ■石田三成増田長盛、起請文をしたため、秀頼への忠誠と「太閤様御法度・御置目」の順守を誓う。(中野等、p258)

七月十五日 ★「豊臣秀次が自身の無実を世間に示すために切腹する。」(柴裕之、p186)

参考↓

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七月二十日 ■「秀次事件に際して、秀吉・秀頼父子に忠誠を誓う起請文を諸大名に提出させる。」(柴裕之、p186)起請文は豊臣奉行衆の石田三成増田長盛長束正家・富田一白・前田玄以・宮部継潤らを充所として、徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元上杉景勝小早川隆景らの有力大名が提出した。(中野等、p258)「これとは別に、前田利家宇喜多秀家は中央にあって直接に秀頼を補佐し、私に下国しないことを誓い、「順路憲法」に基づき「坂東」を徳川家康が、「坂西」を小早川隆景毛利輝元が管轄する旨を誓約している」(中野等、p258)

七月二十日 ■秀次自決後の大名領再配の案が付くられる。これを見ると当初清洲に倦ウ一万石が石田三成に与えられる計画があった事が分かる(実際は、清洲福島正則に与えられた)。(中野等、p258~259)

七月二十五日 ■伊達政宗家臣針生盛信宛て石田三成書状。(中野等、p3259~260)

内容は↓

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七月二十五日 ■右大臣菊亭晴季の配流(娘が秀次の正室だったため連座した)を、石田三成前田玄以が伝奏へ伝えた。(中野等、p264)

七月二十八日 ■佐藤方政充て宮部継潤・前田玄以石田三成増田長盛・富田一白・長束正家書状。美濃国の木材を近江国まで運ぶようにとの書状。この書状で聚楽第の御殿にあったものを全て伏見へ移すと書かれている。(中野等、p260~261)

八月二日 ★秀吉、「豊臣秀次の妻子たちを京都三条河原で処刑する。」(柴裕之、p186)

八月三日 ★「徳川家康宇喜多秀家上杉景勝前田利家毛利輝元小早川隆景の有力大名の連名で「御掟」と「御掟追加」を出す。」(柴裕之、p186)

八月四日 ★小西行長・寺沢正成、秀次の追放を報じた七月十日付秀吉朱印状を受け、朝鮮在陣の諸将に釜山への集合を呼びかける、(中野等③、176)

八月五日 ■宮部継潤・前田玄以石田三成増田長盛・富田一白・長束正家豊臣秀次及び木村重茲の琵琶湖で所持していた船の調査を命じる。(中野等、p261~263)

八月十六日 ■この頃、石田三成増田長盛京都所司代に命じられる。また、この頃三成は「相当の知行」を拝領したようである。(中野等、p267)(以前より前田玄以は、京都所司代に任じられているので、京都所司代は三人制となったことになる。)

八月二十日 ★朝鮮在陣の諸将、秀吉の罹病を受けて起請文をしたためる。「秀吉に万一のことがあった場合には、御拾(秀頼)に奉公することを誓約するもの。この充所は石田三成前田玄以増田長盛長束正家らだった。(中野等、p265)

八月二十五日 ■近衛信輔に近侍する進藤筑後守充て石田三成書状。薩摩に配流された信輔の在国賄料として秀吉の命として二千石を付したこと、居所をこれまでの坊津から鹿児島に移すことを認める書状。(中野等、p269~271)

八月後半 ■石田三成大和国内の検地を自ら行う。(中野等②、p307)

九月 ★明国使節の一行、漢城を出発する。(中野等③、p180)

九月九日 ■石田三成家中が近江国内で知行を充行われた。(中野等、p276)

九月十八日 ■島津義弘充て小早川隆景書状。

「◇先般は御懇ろなご返事を畏れ入ります。小早川秀秋中納言)殿の御供をして、一両日以前、筑前に到着しました。遠路ご迷惑をおかけしますが、御家中から御一人お出でいただき、初入国の御祝儀を仰っていただければ幸いです。あれこれと心安く相談するようにと石田三成(治少)から内意を得ておりますので、このように連絡しております。来月中旬には秀秋(中納言)殿もさっそく御上洛されます。山口宗永(玄蕃頭)が御供をされます。御心積もりのため、お知らせいたします。」(中野等、p266)

九月二十五日 ★「京都の大仏経堂で八宗の僧侶を集めた法会(大仏千僧会)が実施される。(柴裕之、p186)。

十月十四日 ■稲荷神社充て石田三成増田長盛書状。病気であった秀吉養女豪姫の快癒を願うもの。豪姫に憑いた憑き物をおとさないと、稲荷神社を破却し、日本国中の狐を狩るぞという脅しの書状である。(中野等、p268~269)

十月十一日 ★明国使節副使の楊方亨が釜山入りする。(中野等③、p180)

十一月   ★明国使節正使の李宗城が釜山入りする。(中野等③、p180)

十一月二十二日 ★李宗城が小西行長の陣に入る。行長は沈惟敬に上洛を要請した。(中野等③、p180)

 

 参考文献

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の歴史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

石田三成関係略年表⑬ 文禄三(1594)年 三成35歳-文録の役③(休戦中)、島津忠恒の上洛、伏見城普請、島津領国・佐竹領国の「太閤検地」、秀吉の上杉邸御成

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月十九日 ★秀吉、「山城伏見城の築城工事を東国の諸大名・小名に課す。以後、同城は豊臣政権の所在地となる。」(柴裕之、p186)

正月十九日 ★「「関白降表」を得た沈惟敬は文禄三年正月十九日(明歴二十日)に熊川を発ち、そののちしばらくして小西行長はいったん日本に帰っている。小西が秀吉にどの程度の真実を打ち明けたのかうかがい知るすべもないが、秀吉は明の返答いかんによっては来年(文禄四年)再び派兵する可能性を示唆しており、小西に対しては怠りない在番の継続を命じた。」(中野等②、p156)

正月下旬 ★「秀吉は使者として美濃部・山城小才次の両名を朝鮮に遣わす。この両使は、在番体制を支える兵員や兵粮改めのために派遣されていたが、秀吉は兵粮の状況について高い関心をもっていた。(中略)秀吉は、朝鮮を、見回った美濃部・山城の上申をふまえ、新たな措置を講じることになる。すなわち、「御蔵米」「御兵粮」を新米に入れ替えることを前提に、これらの備蓄米を在番将兵の糧食として流用することを認めるというものである。」(中野等②、p164~165)

二月 ★長寿院盛淳、上洛。(新名一仁、p211)

二月七日 ■朝鮮在陣の島津義弘充て安宅秀安(石田三成家臣)書状。「(前略)忠恒の秀吉への見参が済めば、「悉く国ぶりを変えて豊臣政権からの軍役をしっかり果たせるようにしないと、島津家は存続できないだろう」と政権からの命令が貫徹しない領国支配体制の変革を求めている。その上で、「国家之役儀」をこれまで無沙汰しても島津家が存続できていたのは「取次」の石田三成細川幽斎のおかげであり、島津家が変革しないのなら三成は「取次」を辞めると脅している。」(新名一仁、p211~212)

二月二十日 ★年初に疱瘡にかかり、堺で療養していた島津忠恒の病が快癒する。(中野等、p223)

二月二十一日 ★秀吉、「普請中の伏見城に秀次を招き、茶会を催した。」(中野等、p222)

二月二十七日 ★「秀吉と秀次が連れ立って公家・諸将を従えて吉野に赴き、花見を楽しんだ。」(中野等、p222)

二月二十七日 ■秀吉が秀次付きの家臣となっていた山内一豊を「折檻」し、「高麗」への渡海を命じる。この命令を伝えたのが、石田三成増田長盛・山中長俊らだった。この命令は即日撤回され、有馬則頼・滝川雄利・木下祐慶らによって「赦免」が伝えられた。(中野等、p222)

上記の「折檻」の理由について、堀越祐一氏は、前年(と推定される)十一月十一日付山之内一豊充て前田玄以増田長盛長束正家書状に、一豊が代官をしている蔵入地の算用目録の提出が遅れておりこのため太閤殿下が非常に怒っており期限までに必ず提出するように命令する書状があり、「折檻」の理由もこれに関する理由ではないかと推測している。また、即日撤回された理由について堀越氏は、朝鮮への出陣が「懲罰」と大名達に認識されることを危惧したこと、東海地方の大名については、朝鮮渡海はほとんどしておらず、(徳川家康への警戒のため)日本に待機させる秀吉の方針だったからではないかとしている。(堀越祐一、p241~256)

三月十日 ■伊集院忠棟充て島津義弘書状(正月二十七日付忠棟書状への返信)。

「・忠恒の秀吉への拝謁が済み次第、忠恒は朝鮮に渡海するよう、石田三成から命じられた。

・忠恒のお供として鎌田政近・伊集院久治・比志島国貞の三人を朝鮮に渡海させるよう、三成が国元に命じた。

・義弘はこうした三成の尽力・措置に謝意を示し、特に三人の老臣の渡海が決まれば「若輩之在陣」も気遣いがなくなると歓迎。

・忠恒の在京中の生活について、伊集院忠棟に「異見」するよう求め、万事依頼。」(新名一仁、p209)

三月十七日 ★『駒井日記』三月十七日条に、秀吉の穴太と秀次の穴太が揉め事を起こしたことが記されている。(中野等、p223)

三月十七日 ★秀吉、伏見屋敷に戻る。(新名一仁、p210)

三月二十日 ■島津忠恒、伏見の秀吉に拝謁する。拝謁の実現に向けて石田三成は島津家の取次として尽力していた。「三成が後見となる忠恒が、秀吉への拝謁を果たすことで、久保急死にともなう継嗣問題は、三成主導で解決することになった。」(中野等、p223~224)

詳細は↓

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三月二十六日 ★島津忠恒、京聚楽で秀次に拝謁する。(中野等、p224)

四月七日 ■伊集院忠棟、「朝鮮の義弘に書状を送って忠恒の近況を知らせると同時に、三成が義久の上洛を望んでいる旨、伝えている。」(新名一仁、p210~211)

四月十一日 ★「前左大臣・近衛信輔が薩摩国へ配流される。」(柴裕之、p186)

四月中旬 ★島津義久、鹿児島を発ち上洛の途に就く。しかし、五月上旬になっても、島津義久は京に到着していなかった。(新名一仁、p215)

四月中旬 ★「惟政,都元帥権慄の命をうけて西生浦の加藤清正を訪れ,講和条件を質す」(中野等②、略年表p7)

五月二日 ■「伊集院忠棟は在朝鮮の相良家長・川上忠兄に書状を送り、義久到着が遅れていることを愚痴った上で、石田三成の尽力のお陰で島津家が存続しているのだと強調し、三成一人を押し立てて、京儀を問題なく勤めることが大事であり、ほかに頼るべき人はいないとして、義弘への披露を求めている。」(新名一仁、p215~216)

五月六日 ■石田三成長束正家増田長盛大谷吉継、諸大名に対して竹木の伐採を禁じている。(中野等、p226)

五月七日 ■前田玄以石田三成増田長盛長束正家生駒親正に伏見向嶋橋の用材供出を命じる。(中野等、p226)

五月十九日 ■「三成らは秀吉の命に基づいて、伏見城御殿の作事に必要な「足代」の差配を行っている。」(中野等、p227)

五月二十四日 ★「秀吉,福島正則・毛利友則を朝鮮兵糧米の奉行に任ず」(中野等②、略年表p7)

五月下旬 ■島津「義久・新納忠元らは五月下旬に到着したようである。三成は大坂で待ち構えており、恐らく義久に忠恒と三女亀女との婚姻を認めるように迫ったとみられる。」(新名一仁、p216)

六月一七日以前 ★島津忠恒と亀女との祝言が行われる。(新名一仁、p216)  

六月十八日 ■秀吉は十八日の晩に大坂に入っており、三成もこれに従っている。(中野等、p229)

七月 ★「秀吉の養子だった秀秋が小早川隆景の養子となる。」(柴裕之、p186)

七月八日 ★島津義久、伊集院忠棟に誓紙を出す。石田三成主導の検地を認め、その判断・処置は忠棟に任せるという内容。(新名一仁、p217)

七月中旬 ★「惟政,明将劉綖の書を携え,再び西生浦の加藤清正を訪ねる」(中野等②、略年表p7)

七月十六日 ★島津領国検地の算定基準が定められ、また検地における禁止事項を記した掟書が発布される。(新名一仁、p217)

七月十七日 ■浅野長政石田三成増田長盛長束正家は「文禄四年の三月を期して、馬廻り衆に対して妻子の伏見在住を命じた。」(中野等、p229)

八月五日 ■島津「義弘は石田三成に書状を送り、去年以来、久保の遺骸と共に帰国したものもあり、病死者・病人も帰朝したが、参陣する者がおらず無人数のままだと歎いている。」(新名一仁、p219) 

八月十一日 ■島津領国検地の指揮を執る石田家中の検地奉行衆二十名が大坂を発ち、島津領国へ下向。(新名一仁、p217)

八月十二日 ★「全羅道にあった明総兵劉綖,漢城に到着,その後明へ発向」(中野等②、略年表p7)

八月下旬 ★島津忠恒名護屋に下向。(新名一仁、p216)

九月三日 ■石田三成、実母の葬儀を京都大徳寺三玄院で行う。(中野等、p242)(中野等③、p306)同じ頃、伯蒲恵稜の賛を有する三成父石田正継の寿像が描かれる。(中野等、p242)

九月十四日 ■島津領国検地、薩摩大口城麓より開始され、翌年二月までに完了した。(新名一仁、p217~218

九月二十四日 ■朝鮮在陣諸将に宛てた石田三成増田長盛書状。前日付秀吉の朱印状(島津義弘島津豊久・宗吉智・加藤清正鍋島直茂立花宗茂・筑紫広門・伊東祐兵・毛利秀元吉川広家・毛利元康に宛てたものが確認される)の副状。「拠点としている城々を堅固に護るように述べ、しかるべき時期に関白秀次が出陣し全羅道に攻勢をかける計画を披瀝している。」(中野等、p232)

十月 ■十月から十二月晦日まで、石田家中による佐竹領の検地が行われる。(中野等、p244~245)

十月 ★「明将劉綖北京に帰還」(中野等②、略年表p7)

十月上旬 ★島津忠恒、島津彰久、北郷三久とともに壱岐対馬に渡る。(新名一仁、p216)

十月六日 ■秀吉、伏見を発って大坂に下る。三成も増田長盛とともに秀吉に従う。(中野等、p233)

十月九日 ■上杉景勝充て石田三成増田長盛書状。伏見城惣堀の普請を命じられた景勝に秀吉は対面する予定だったが、秀吉の上洛は明日に延びたので、対面は明後日になることを伝えている。(中野等、p233)

十月十六日 ■石田三成家臣・安宅秀安、島津義弘に書状を送り、検地終了後の知行宛行には義弘と義久の熟談が必要になるため、帰国の準備を進めるよう促している。(中野等、p243)

十月二十日 ★秀吉、徳川家康らを従えて聚楽の秀次を訪問する。(中野等、p233~234)

十月二十五日 ★秀吉、蒲生氏郷の京屋敷を訪問。(中野等、p234)

十月二十六日 ★島津忠恒、兵二五一名を率いて朝鮮釜山浦に到着。(新名一仁、p216)

十月二十八日 ■秀吉、上杉景勝の京屋敷を訪問。石田三成増田長盛は、秀吉の「上杉邸への御成に際して、準備が整ったとして景勝から事前の点検を依頼されている。」(中野等、p234)御成の際に景勝は権中納言への昇任が許されている。(中野等、p234)

十月三十日 ★島津忠恒、唐島(巨済島)に渡り、父義弘と再会。(新名一仁、p216)

十一月上旬 ■「島津忠恒が朝鮮唐島に着陣した直後の同年一一月上旬、義弘は石田三成に対し、島津家の軍役は二〇石に一人から四〇石に一人へ緩和され、五〇〇〇人となったにもかかわらず、「国習之式」で急いで出陣する気配はなく無人数のままだと歎いた上で、現時点の島津勢の人数を具体的に知らせている。」(新名一仁、p219)

十一月二日 ★真田信幸、従五位下・伊豆守に叙任される。(中野等、p321)

十一月十一日 ★「明の宋応昌,経略を辞す,顧養謙ついで孫鉱がこれに就く」(中野等②、略年表p7)

十二月 ★明将劉綎、北京へ帰還する。(中野等②、p166)

十二月六日 ★「内藤如安北京に入る」(中野等②、略年表p7)

十二月十二日 ■石田三成は「長束正家増田長盛ら他の奉行衆とともに、若狭の組屋に対して京で売却したルソン壺代金の請取状を与えている。」(中野等、p245)

十二月十四日 ★「小西行長の使者が明国皇帝に謁見し、日本に使節が派遣されることになる。」(柴裕之、p186)

十二月 ■石田三成は呂宋壺の代価を柳沢某より受け取っている。(中野等、p236)

 

 参考文献

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

堀越祐一「太閤秀吉と関白秀次」(山本博文・堀新・曽根有二『消された秀吉の真実-徳川史観を越えて』柏書房、2011年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②『戦争の日本史16 文録・慶長の役吉川弘文館、2008年

中野等③「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年

石田三成関係略年表⑫ 文禄二(1593)年 三成34歳-文録の役②、拾(秀頼)の誕生

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

 

正月六日 ★小西行長らの守る平壌城、明・朝鮮連合軍の攻撃を受ける。(中野等、p175)

正月七日 ★総攻撃を支えきれなくなった小西行長らは平壌城を放棄し敗走する。(中野等、p175)

正月八日 ★平壌を脱した小西行長らは、黄海道鳳山に到着する。ここは大友義統が守っているはずだったが、すでに大友勢は城を捨てて遁走した後だった。さらに小西行長は南下し黒田勢と合流する。当時、黒田長政黄海道白川にいたが、明軍の追撃を避けるため、ともども小早川隆景吉川広家の拠る京機道の開城へ退く。(中野等②、p99)

 しかし、開城に集結した軍勢も戦線を立て直ため、ほどなく漢城へ移動する。小早川隆景らは開城撤退に反対したが、大谷吉継の説得を受けて漢城へ撤退することになる。(中野等②、p99~100)

正月十一日 ■石田正澄・長束正家充て前野長康・加藤光泰・石田三成大谷吉継増田長盛書状。内容は、

小西行長平安道平壌)の軍勢は、兵粮が不足し継続も難しいと考えていたところ、明軍からの謝罪の申し出があったたため、(休戦協定を結び)、平壌からの撤退(終戦協定の条件の中に日本軍の平壌撤退が入っていたと考えられます)を準備していた。

 しかし、加藤清正(或鏡道)の先手の者が失態をおかし(或鏡道での清正勢の苦戦のことを指すかと思われます)、熊川付近に展開していた軍勢が新城の攻略に失敗(晋城攻略失敗のこと?)したこと、海戦でも日本水軍が苦戦していることが北京に伝えられた結果、明軍は休戦協定を破り、大軍を持って明軍は平壌を襲撃した。正月四日から七日まで激しい戦いがあったが、敵の攻撃は激しく小西勢も兵粮が尽きたため、平壌から(小早川隆景のいる京畿道・開城)へ撤退した。是非もないことである。

黒田長政黄海道・白川)の陣所へも敵三万が攻撃を仕掛けてきたが、撃退した。長政の陣も兵粮は長く持たないので、消耗を考慮して行動すべき。

漢城(京畿道)には去年苅田したことによる兵粮は正月中はある。その外に各軍に配り終えた残りの兵粮は一万四千石となる。

漢城から釜山開までの間のつなぎの城は丈夫に構築しているが、朝鮮国内の反攻が激化している。兵粮が不足し、兵力のゆとりもない。朝鮮への新たな軍勢もないままに、朝鮮の奥地へ兵力もなしに深入りしたのが、かかる事態となった原因である。

小早川隆景(開城)は期待通りに持ちこたえているので問題はない。

加藤清正(或鏡道)らは無計画に奥地に入り込みすぎたので、撤退するようたびたび使いを出しているのに、征服地は穏やかに治まっているとして、後退してこない。どうしようもないことである。

・昨年も申し上げたとおり、釜山浦へ兵粮が到着することが肝要。

・朝鮮水軍を日本水軍が抑えることができていない。これは敵方にある三〇〇艘あまりの「かこひ舟」が日本側に一艘もないから。我が方にも「かこひ舟」を備えることが必要。

・兵粮さえ十分にあれば、どれほどの敵が出てきても打ち果たすことが可能だが、どの軍勢も兵粮が不足している。

福島正則の陣所(京畿道竹山?)に敵が三~四万で攻撃をかけてきたが撃退した。しかし、敵の人数は減少せず、こちら側の損害も重い状態となっている。

・こちらの一人なりとも名護屋へ向かわせたいと使者に言伝している。兵粮の手当と釜山浦に然るべき指揮官を確実に派遣すべく、(秀吉様に)御指示いただくのが肝要と考える。つなぎの城が万一遮断された場合は、回復できるように軍勢を増派していただきたい。

(中野等、p175~181)

正月十二日 ★この頃、江原道の在陣諸将(江原道には、金化に島津義弘、鉄原に伊東祐兵、春川に島津忠豊、原川に毛利吉成・秋月種長・高橋元種らが展開していた)に対して、京畿道の陣替えが命じられる。「朝鮮半島を全域的に支配しようとする戦略はすでに放棄され、戦略の基本は漢城と釜山を結ぶ経路の確保にようやく移ったのである。」(中野等②、p100~101)

正月十五日 ★加藤清正充て島津義弘書状。小西行長平壌の敗退を告げ、清正に漢城への撤退を勧める書状。万が一漢城の日本軍が撤退した場合、或鏡道の加藤軍は孤立することになるので、撤退を強く勧めている。この後、奉行衆から再度(昨年十一月にも加藤清正は奉行衆から撤退の指示を受けている)の撤退指示を受け、撤退を判断している。(熊本日日日新聞、p68~69)

正月十六日 ★小西行長勢、漢城に入る。(中野等②、p102)

正月十八日 ★明の先鋒、開城に入る。(中野等②、p102

正月二十一日 ★漢城にほとんどの軍勢が集結。(中野等②、p102)

正月二十三日 ■木下吉隆・山中長俊・長束正家充て前野長康・加藤光泰・石田三成大谷吉継増田長盛書状。

内容は、

・当初、開城での明軍迎撃を想定してが、開城を維持するのは実質困難なため、開城にいる小早川隆景黒田長政小西行長隊は、漢城に移動させること。漢城付近に明・朝鮮軍が押し寄せてくれば、これを討ち果たす作戦であること。

・兵粮不足が深刻であること。この事態を打開するために諸将談合の上、(穀倉地帯として知られる)忠清道全羅道を攻める予定であること。しかし、この両道を制圧しても兵粮の確保できるか保証はできないこと。

・朝鮮国は広大であり、味方の人数は少なく、このままで奥地に入りすぎると前線とののつなぎの城に充当すべき人数にも不足すること。このため、海端や河端にいくつか城を構築し、相互に連携して地域を制圧するように命令していただけないか提案している。

・通信が途絶しており、使者も注進の返信も帰ってこないことを嘆いている、等

(中野等、p182~188)

漢城に諸将を集結させ、漢城付近で明・朝鮮軍を迎撃する作戦(→碧蹄館の戦い忠清道全羅道の攻略(→晋州城攻略)、海端や河端にいくつか城を構築(→「倭城」の構築)等、後の日本軍の戦略はこの注進状で提案された計画に沿って進んでいく形になります。

正月二十六(二十七)日 ★日本軍と明軍、漢城の北16キロほど離れた碧蹄館で衝突。激しい戦いとなるが日本軍の勝利に終わる。(碧蹄館の戦い)(中野等②、p102では一月二十七日、(中野等③、p16)では一月二十六日となっています。)

正月二十七日 ■「三成ら三奉行は(筆者注:碧蹄館の)捷報をすみやかに名護屋に伝えた。また、三成自身も碧蹄館で戦った諸将に軍功を称える書状を発している。」(中野等、p189)

(参考:文録二年正月二十七日付立花宗茂充て石田三成書状↓)

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正月二十八日 ■細川幽斎家臣麻植長通、島津義弘とともに朝鮮に在陣中の伊勢仁世に書状を送り、「幽斎仕置」の完了を告げる。没収した寺社領の検地は終わったが、延期とした薩隅検地を完了しないと軍役調達は難しいため、石田三成に検地を依頼するようアドバイスをしている。それとともに、島津義久の命令はいつも緩んでいるのではないかと批判もしている。(新名一仁、p194)

二月二日 ■石田三成大谷吉継増田長盛豊臣秀次の使者丹羽五平次の日本帰還の際に、諸々の指示を行い、帰国の便宜をはかっている。(中野等、p189~190)

二月十二日 ■漢城から北西に15.6キロほどに位置する辛州山の古城に集結した朝鮮軍を日本軍が攻める。日本軍は苦戦し、城を落せずに退却。この戦で日本軍はかなりの死傷者を出し、宇喜多秀家吉川広家石田三成前野長康らまで負傷する状態だった(辛州山城の戦い)。(中野等②、p104)

二月十五日から二十日 ★明軍の使者馮仲纓が安辺の加藤清正のもとを訪れ、協議をしている。馮仲纓は朝鮮王子の引き渡しと或鏡道からの撤退を要求し、清正は朝鮮領土の割譲を要求した。両者の折合いはつかず、明使は還去する。(この時期、奉行衆からの再度の漢城への撤退指示が清正に出ており、朝鮮側の反攻で甚大な被害を被っている加藤勢も撤退を応じる方針だったが、明使に対しては強硬な姿勢を崩さなかった。)(中野等②、100~101)

二月二十一日 ★清正、「安辺の陣所を引き払い、漢城へ発足する。」(中野等②、p102)

二月中旬 ★平壌の敗報、名護屋に届く。秀吉の三月渡海計画がただちに再延期されることになる。(中野等②、p107)

二月十五日 ★島津義久宛て石田正澄書状。秀吉の渡海は四・五月になるとしている。(この四・五月の渡海計画も実現することはなかった。)(中野等②、p107)

二月後半 ★浅野長吉・黒田孝高、秀吉から戦局の立て直し・兵站補給体制の見直しを指示され、朝鮮半島に渡る。しかし、内陸部の兵糧事情を危惧し、沿岸部にとどまっている。(中野等、p197)

二月十八日 ★二月十八日付秀吉朱印状。これまで前線の将達に何らの決定権を与えていなかった秀吉だったが、今後は、秀吉の大局的な指示のもと、宇喜多秀家を「大将」として秀家に現地軍を指揮する権限を与える体制に再編をはかる。(中野等②、p108)

二月二十七日 ★諸将は漢城で軍議をもつ。秀吉渡海の延期の上申の他、漢城放棄の議論もかわされたようである。(中野等②、p105)

二月二十八日 ★鍋島直茂漢城に戻る。(中野等②、p105)

二月二十九日 ★加藤清正、朝鮮の両王子とともに漢城に戻る。(中野等②、p105)「1万人いた加藤清正の軍勢は逃亡も相次ぎ、漢城に撤退した時点では約5千500人までに減っていたという。」(熊本日日日新聞、p69)

三月二十日 ★木村吉隆・長束正家充て加藤清正書状。

三月十日 ★秀吉、漢城からの撤退もやむなしと考える。慶尚道尚州(古都)までの後退を認めるが、そのかわり晋州城の攻略を至上命令とし、その陣容を示した。(中野等②、p109~110)

三月頃 ★碧蹄館の敗戦で厭戦気分が明軍にも拡がっており、平壌李如松らが日本との講和の可能性を探るようになる。沈惟敬小西行長のあいだに交渉が持たれることになる。(中野等②、p115)

三月中旬 ★漢城の南にあった竜山館の兵糧が明軍の策略により燃やされる。これにより、城内の食糧事情は悪化の一途をたどる。(中野等②、p115)

三月二十日 ★木下吉隆長束正家充て加藤清正書状。清正としてはあくまで或鏡道の経略は成功したとし、隣国(平安道黄海道・江原道などか)の経略不調のためやむを得ず漢城に戻った。清正は前線へ少しでも前に進むことを主張し、平安道黄海道からの撤退に反対したが、諸将の容れることにならず、本意に反して或鏡道の放棄に至ったとしている。(中野等⑤、p132~134)

⇒実際には、清正の或鏡道の支配は最終的にはうまくいっておらず、朝鮮の反攻も相次ぎ、各地に点在する加藤軍は孤立し苦戦している状況でした。それにも関わらず清正はあくまで或鏡道支配の成功を強調しています。これは秀吉の評価が下がれば、今までの地位もあっという間に転落し処分されることを恐れたものといえます(後述するように、実際に五月一日付で朝鮮陣で失態のあった大名を改易処分を下しています)。豊臣軍の諸将は、常に秀吉による評価にさらされており、失態すれば改易等の処分を受けるプレッシャーを受けていたという事です。

四月九日 ★沈惟敬小西行長の陣所で交渉を行う。(中野等③、p183)

四月十七日 ★明から派遣された「勅使」が漢城に入る。しかし、この「勅使」は、明の将宗応昌の幕下の将であり、明国皇帝の意志とは関係のないでっちあげの「偽りの勅使」であった。(中野等、p193)(中野等③、p184)

 この時の、日明の交渉妥結内容は以下のとおりだったとされる。

 一、明から講和使節を日本に派遣。

 二、明軍の朝鮮からの撤退、

 三、日本軍の漢城からの撤退

 四、朝鮮の二王子と従臣の身柄返還、」(中野等②、p116)

「ちなみに、その後の展開からみて、沈惟敬は朝鮮の領土割譲についても独断で約束していた可能性もある。」(中野等②、p116)

四月十七日 ★日本軍、交渉の妥結を受けて漢城撤退。(柴裕之、p186)

四月十七日 ★加藤清正充て豊臣秀吉朱印状。加藤清正鍋島直茂らの漢城撤退をもっともなこととし、朝鮮王子は返還もありうるためそれまで厳重に監視すること、晋州城を攻撃する書状を改めて送ること、年二回ほど鴨緑江まで攻め上がれば朝鮮は戦意を失い、日本に服従するであろう等の内容が書かれている。ここでは、自らの渡海や明攻めのことは書かれておらず、朝鮮支配が最重要課題になっていることが分かる。(熊本日日新聞、p71)更に、「朝鮮の現地を見たわけではなく、手強い相手ではないという前線諸将の報告をもとに、積極的に攻め進むよう命じたが、今思うと、漢城に兵を留め、広大な朝鮮の地を推し量って作戦を立てていればよかった。奥地へ攻め込んでしまったため、各地で一揆や反乱が起きてしまった。今後はしっかり見極めて判断することが大事だ」(熊本日日新聞、p71)と述べている。

⇒上記の文は、これまでの清正の秀吉に対する注進を全否定するような内容であり、この書状を読んだ清正は大きな衝撃を受けたのではないでしょうか。

四月十八日 ■石田三成大谷吉継増田長盛島津義弘・中川秀成・福島正則ら二十一名の諸将に充てて、日本に渡る明の「勅使」の護送(饗応・従者への食事の供給・宿所の手配等)について指示を出す。三成・吉継・長盛も漢城を離れ明使に同行する。(中野等、p194~195)

四月? ■浅野長政黒田孝高との面談をする必要を感じた三奉行(石田三成大谷吉継増田長盛)は、南下して梁山で浅野長吉(長政)と面談した。一方、黒田孝高は秀吉の指示をうけるため名護屋へ向かったため、孝高との面談は行われなかった。(中野等、p197)

四月末 ★明の「勅使」が小西行の長の陣に入ったという注進状が肥前名護屋にもたらされる。「勅使」の日本派遣は、明の日本に対する降服の使節として読み替えられることとなる。(当時の外交上の慣習として、先に国書を指し出すことは相手への恭順を意味することになるため、日本側がこれを「降服の使節」と解釈するのはおかしなことではない。)(中野等②、p117・p120)

五月一日 ★秀吉、戦線放棄した豊後の大友義統を改易処分とする。また、与力として従うべき島津義弘鍋島直茂に従軍せず、帰国を企図したとして、島津一門の島津忠辰肥前の波多親を改易処分にする。(中野等②、p120~121)

五月一日 秀吉、軍令を発する。明からの「詫び言」を受け入れる一方で、晋州城の攻略の厳命、その後の全羅道(赤国)侵出を指示。(中野等②、p121)

五月六日 ■三成らの一行は、五月六日までに釜山へ到着。(中野等、p197)

五月十三日 ■「三成らの一行は、偽りの勅使を伴い、五月十三日早暁に名護屋に到着。(中野等、p198)

五月二十日 ★秀吉、朝鮮在陣の諸将へ向け、「晋州城攻撃や「仕置き」の城普請について、かなり具体的な指示を発する。」(中野等②、p122~125)

五月二十日 ★島津義弘、晋州城の攻撃を命じられる。この時の軍勢は2128人であり、朝鮮渡海時の軍役の1万人からは隔たりがあった。(新名一仁、p195)

五月二十一日 ★黒田孝高名護屋に戻る。「沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきか、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため名護屋に戻ろうとしたのである。」(中野等④、p171)しかし、こうした行動(無断帰国)は、軍律違反と秀吉にとらえられ、また晋州城攻めに何の手配も施さないまま名護屋に戻ったとみなされたため、秀吉の怒りを買い対面も許されず朝鮮に追い返されてしまうことになる。(中野等④、p171~172)

(参考)

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五月二十三日 ★秀吉、「明国使節」と引見。(中野等②、p129)使節の滞在はこの後一ヶ月以上に及ぶが、これは講和条件について朝廷の勅許を得る必要があったためである。(中野等②、p130)

五月二十四日 ■使節をともなってきた石田三成増田長盛大谷吉継小西行長、朝鮮に戻る。(中野等②、p129~130)

六月五日 ■島津義久石田三成に書状を送る。「幽斎仕置」に対する不満(蔵入地の代官に義久がまったく知らない「若輩者」が配置され、義久が信を置く代官は「悪所」に移し替えになったことへの不満)が述べられている。(新名一仁、p190)

六月十六日 ■石田三成は、相良頼房充て書状で「一両日中」の熊川訪問を告げている。(中野等、p199)

六月二十日 ★小西行長家臣・内藤如安、釜山を発つ。(中野等②、p156)

六月二十一日 ★日本軍、晋州城を囲んで攻撃開始。(中野等②、p133)

六月二十一日 ★島津義弘、晋州城の攻撃に従事。(新名一仁、p195)

六月二十八日 ★秀吉、「明国使節」に明との和平に七ヵ条の要求を提示。(柴裕之、p121~123、p186)内容は、「明皇女の天皇后妃化、断絶していた日明貿易の再開、誓紙の交換、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮国王子の人質差し出し、朝鮮国重臣の誓紙提出など」 (柴裕之、p123)加藤清正が捕えた朝鮮二王子の返還も条件に記されている。(中野等②、p132)

六月二十八日 ★「明国使節」、名護屋を発ち、朝鮮に戻る。(中野等②、p133)

六月二十九日 ★晋州城、陥落。(中野等②、p133)

七月五日頃 ★晋州城陥落の報せが秀吉のもとにもたらせされた。(中野等②、p133)

七月七日 ★明との交渉を進める使節となった小西行長家臣・内藤如安漢城に入る。(中野等、p155~156)

七月八日 ■宇喜多秀家慶尚道の昌原に入り、石田三成大谷吉継増田長盛らと朝鮮支配について談合を持つ。(中野等、p201~202)

七月八日 ■島津義久充て島津義弘書状。細川幽斎が薩摩・大隅の検地を義弘外家中の留守中に行うという情報に困惑し、検地を石田三成に委ねるべきことを提言をしている。(中野等、p206~207)

七月十八日頃 ■三成、大谷吉継小西行長らとともに明国「勅使」を伴い、半島南岸の巡検を行っている。(中野等、p203)

七月二十七日 ★秀吉、朝鮮における「御仕置きの城々」を指定し、守備体制を細かく定めた目録を諸将に発する。「御仕置きの城々」の警衛から外れた諸将の日本への帰還が始まることになる。(中野等②、p138~140)

八月 ★明将李如松及び明兵三万、漢城を発ち、明へ帰る。(中野等②、p156)

八月三日 ★秀吉と淀殿との間に、拾(秀頼)が誕生。この報を受け、秀吉は大坂に戻り、その後名護屋に戻ることがなかった。(柴裕之、p186)

八月三日 ★島津久保、留守居の新名忠元充て書状。「幽斎仕置」により、没収した土地は蔵入地にせよと秀吉の命令があったにも関わらず、皆に配当したことは許されず、配分した所領は没収し、年貢を確かに納入させよと命じる。勝手な者がいたら「成敗」せよとも命じている。(新名一仁、p198~199)「久保がこれほど厳しい指示を出しているのは後にも先にも無く、怒り心頭の様子がうかがえる。」(新名一仁、p199)

八月 ■石田三成ら三奉行は、浅野長吉を支えて在番体制の構築を行っている。(中野等、p210)また、それとともに熊川城の要害構築にたずさわっていた。(中野等、p211)

八月 ■要害の構築を終え、在番を免除された大名の日本帰還が始まる。浅野長吉や三成ら三奉行は、兵粮の確保などの善後策を行い、将兵の帰還を指揮した。(中野等、p211)

八月九日 ★無断帰国した黒田如水(孝高)に対する秀吉の怒りは解けず、如水(孝高)は死を覚悟し息子長政に「遺言」を遺す。これより前、八月上旬には孝高は剃髪・入道して如水と号した。(朝鮮に追い返された後の如水(孝高)は、朝鮮の長政軍に同道していたようである。)(中野等④、p173~174)

八月十日 秀吉、如水を助命する。「秀吉は本来なら如水は「成敗」すべきであるが、そうなると長政の奉公にも支障が生じるだろうから助命に決したと告げている。(中野等④、p174)

八月十六日 ■島津義弘・久保充て(石田三成家臣)安宅秀安書状。「三成が帰国後すみやかに上洛して秀吉に義久隠居の件を言上するので、三成の上洛から二〇日程度経たのちに島津家の使者を上方へ派遣するように指示している。」(中野等、p207)

「要は、石田三成が秀吉を説得して、義久を強制的に隠居させて久保が家督を継承し、義弘・久保親子が領国支配の全権を掌握するという強行策・荒療治である。」(新名一仁、p200)

八月二十一日 ■島津義弘・久保親子充安宅秀安(石田三成家臣)書状。「これまでの義久ら国元の不作為を書き上げて糾弾した上で、「御分別此時候」と父子の決断を迫っている。」(新名一仁、201)「この前後、義弘は名護屋在陣中の奉行長束正家に対して書状を送り、幽斎「仕置」で「棄破勘落」された寺社領のうち一万一〇〇〇石が代官や朝鮮に出陣もしない者らに宛行われている現状を訴え、「棄破勘落」分を残らず久保の蔵入地にするよう命じる秀吉朱印状の発給を要請している。」(新名一仁、p201)

八月二十三日 ★在朝鮮の義弘側近山崎久兵衛尉・川上忠兄充て新納旅庵(栗野留守居)書状。「幽斎仕置」により義弘領である大隅国の収穫量の良い土地は、義久の蔵入地と鹿児島在番衆のものになってしまったと報告している。(新名一仁、p197~198)

八月二十五日 ★秀吉、大坂に到着。(中野等②、p143)

八月二十七日・二十八日 ■島津義弘・久保充て安宅秀康書状。義久の隠居を決断するよう促す内容。(新名一仁、p201~202)

九月 ★明の李松如の軍勢が鴨緑江を超える。(中野等②、p156)

九月 ★内藤如安、明国に入るが遼東で足止めを受ける。(中野等②、p156)

九月四日 ★秀吉、日本の五分の四を秀次に与え、五分の一を拾(秀頼)に与える分割案を秀次に提案。(藤田恒春、p141)

九月八日 ★「島津義弘の長子で義久の婿となり獅子に定まっていた又一郎久保が、巨済島(唐島)の島津陣内で急逝する(中略)久保の急死により、義久を隠居させる計画もご破算となる。」(中野等、p207)

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九月十日 ■「三成は朝鮮在陣中の島津忠長以下御一家・国衆七名、喜入忠続以下重臣一六名に対して条書を与え、久保供養のための帰国は義弘が命じた一〇〇名以内とし、久保の陣所に誰か「老衆之中」または「人持之仁」を在陣させることを命じている。」(新名一仁、p203)」

九月二十一日 ★秀吉、尾州・三州・遠州・駿州の東海四国に鷹狩へ向かう計画を発表。(中野等②、p154)

九月二十三日 ★在番を継続する諸将に対する手当を終えた三成は、日本へ帰る。九月二十三日に名護屋に着岸。(中野等、p213~214)

九月二十五日 ■島津家重臣・伊集院幸侃?充て石田三成書状。島津久保の急死を受けて、久保の弟忠恒を島津家の後継として推し、忠恒のすみやかな上洛を促す内容。義久側では、義久の次女婿である島津彰久を後継として動きがあり、豊臣政権に非協力的な義久側の推す彰久を後継とさせないため、義弘の息子である忠恒を早急に決める必要があった。(中野等、p214~216)この書状には、島津領国の仕置・検地も決定した、とある。(新名一仁、p205)

閏九月十三日 ■浅野長吉・増田長盛石田三成大谷吉継が一両日中に京に参着することを知らせる書状。(中野等、p219)

閏九月二十六日 ■長束正家木下吉隆・山中長俊・石田三成増田長盛大谷吉継らへ寿楽廻りに屋敷が充行われる。(中野等、p220)

閏九月二十六日 ★秀吉、「朱印状で、蓄電した将兵を追跡して厳罰を加えるという現地諸将の申し入れを許諾し、将兵の判別をはかるため、それぞれが領国へ往来するのに際して「切手」、すなわち手形を発行することを提示している。」(中野等②、p163)

閏九月三十日 ■朝鮮在陣の島津義弘充て(当時上洛していた)安宅秀安書状。義久隠居の件の上申取り下げ、島津忠恒の上洛及び忠恒が後継となるよう尽力する旨が書かれている。(新名一仁、p205)

十月一日 ★秀吉、拾と秀次の娘との間の婚約を決める。(柴裕之、p186)

十月一日 ★朝鮮国王、漢城へ帰還。(中野等②、p144)

十一月初旬 ★秀吉、「小琉球」(フィリピン)、「高山国」(台湾)へ入貢を促す。(中野等②、p153~154)

十一月五日 ■秀吉、大坂城二丸御門の定番を行う者は、前田玄以・浅野長吉・石田三成が決定する規定に従う旨等の「定」を発する。(中野等、p221~222)

十一月七日 ■前田玄以・浅野長吉・石田三成、全国の陰陽師を家族ともどもに京都に集めさせる。(中野等、p220)

十一月十五日 ■秀吉、大坂城に関する「定」を発する。この定めによると、二の丸御門の定番は、前田玄以・浅野長吉・石田三成が決定する規定に従って決定することとなっている。(中野等、p221~222)

十一月十八日 ★秀吉、大坂から伏見に入る。(中野等②、p154)

十一月十九日 ★秀吉、尾張に下る。(中野等②、p154)

十一月二十日 ★浅野長吉・長継(幸長)父子、朝鮮で没した加藤光泰の跡を受け甲斐一国を与えられる。この時、長吉には、伊達政宗南部信直・宇都宮国綱・那須資晴・成田氏長らが与力として付られている。(中野等、p264)

十一月二十四日 ★秀吉、秀次の実父三好吉房が預かる清洲城に到着。(中野等②、p154)

十一月二十八日 ★秀吉、清洲城を発つにあたり、九ヵ条にわたる「条々」を発する。尾張の荒廃状況に触れ、復興を期して尾張八郡に奉行を派遣することを決定し、在地の荒廃状況など実態をつぶさに報告するよう命じた。(中野等②、p154)

十一月 ★島津家の継嗣、忠恒に決定される。(新名一仁、p208)

十二月中旬 ★島津忠恒、堺に入り、滞在。(中野等、p223)

十二月十三日 ★島津忠恒、伊集院忠棟とともに大坂に入る。(新名一仁、p208)

年末 ★熊川において、沈惟敬小西行長のあいだで会談が求められる。「ここで、沈惟敬は小西に対して「関白降表」、すなわち明皇帝に上表する秀吉の降服文書の作成を要求したと伝えられる。」(中野等②、p156)

 

 参考文献

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②『戦争の日本史16 文録・慶長の役吉川弘文館、2008年

中野等③『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

中野等④「黒田官兵衛朝鮮出兵」(小和田哲男監修『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』宮帯出版社、2014年所収)

中野等⑤「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(山田貴司編『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正戎光祥出版、2014年所収)

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年

藤田恒春『豊臣秀次吉川弘文館、2015年