古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その3 黄巾の乱の時の中郎将

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 三国志考察というと歴史研究の蓄積があり、三国志マニアもたくさんいるので、本当は中々適当な事は書けないのかもしれませんが、私は歴史学者ではないのでもう少し自由に適当に書いていこうと思います。私の書いていることについても、「それについては既に○○が□□と書いているよ!」と容赦なく突っ込んでいただけると幸いです。

 

 といいますか、三国志は史料多過ぎ。その割には手に入りにくいものが多い。中国語の史料・文献で和訳されてないのも多いのでフォローしきれません。

 

 さて、今回は黄巾の乱の時の中郎将についてです。黄巾の乱の軍事の最高司令官は、霊帝外戚である大将軍何進ですが、実際に戦う現場の司令官は中郎将です。

 

 黄巾の乱の時の中郎将は以下の通りです。

・北中郎将 盧植→(免官)→・東中郎将 董卓→(免官)

・右中郎将 朱雋

・左中郎将 皇甫嵩

 

 あれ、南中郎将がいねえ。東西南北又は前後左右の四中郎将なのかと思っていたら、そういう訳ではないでのすね。董卓盧植の北中郎将の後任ではなく、東中郎将ですね。

 

 それはともかくとして、大将軍何進霊帝外戚というだけで出世した男で、元は肉屋だったということですので、戦争の経験はありません。実質上中郎将が黄巾討伐軍を動かしていたといえるでしょう。

 

 黄巾の乱後漢王朝の衰亡の一因であったことは確かですが、肝心なのは後漢王朝は直接黄巾の乱によって滅んだのではなく、黄巾の乱は鎮圧されたということです。残党はいましたが、黄巾の残党によって後漢が滅んだ訳ではありません。

 

 これは、指揮官である中郎将の皇甫嵩、朱雋、盧植(は途中で讒言により免官されてしまいすが)が優秀で、人選が正しかったということです。指揮官の適切な人選ができるだけ、まだ後漢の朝廷は正常な運営がされていたということでしょう。

 

 彼等中郎将の人選をしたのは誰なのでしょう?大将軍何進?正義派の宦官とされる呂強?いずれにせよ、このような人事が可能だったことを考えると霊帝は言われるほど無能ではなかったと思われます。