古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について

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 ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』(野矢茂樹訳、岩波文庫)をたまに読み返すことがある。胸に刺さってくるような箴言がいくつもある。こういう箴言集のように読むのは本来の読み方ではないのだろうが、彼の言葉のひとつひとつに感銘を受けるのだ。 

 

 以下に好きな文句を抜粋する。(本当は、全体の文脈で語られるものなので、単独で切り取ってはいけないのだが、言葉のひとつひとつがとがっているので、こうして単独に読む邪道な楽しみ方も許してほしい。)

 

 *                 *                  *

 

「本書は哲学の諸問題を扱っており、そして――私の信ずるところでは――それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。」 

 

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」

 

「したがって、限界は言語において引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。」

 

「他方、本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる。それゆえ私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている。」

→ここまで言い切っちゃうのはすごいですね。

 

「論理においては何ひとつ偶然ではない。」

 

「ものが事態のうちに現れうるなら、その可能性はもののうちに最初から存していなければならないのである。」

 

「真なる思考の総体が世界の像である。」

 

「思考は、思考される状況が可能であることを含んでいる。思考しうることはまた可能なことでもある。」

 

「命題はただものがいかにあるかを語りうるのみであり、それが何であるかを語ることはできない。」

 

「定義とは、ある言語から他の言語への翻訳規則である。」

 

「思考とは有意味な命題である。」

 

「哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。」

 

「すべての哲学は『言語批判』である。」

 

「哲学の目的は思考の論理明晰化である。

 哲学は学説ではなく、活動である。

 哲学の仕事の本質は解明することにある。

 哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。

 思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。」

 

「哲学は、語りうるものを明晰に描写することによって、語りえぬものを指し示そうとするだろう。」

 

「およそ考えられうることはすべて明晰に考えられうる。言い表しうることはすべて明晰に言い表しうる。」

 

「現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。」

 

「一つの命題は、それ自体では、確からしいとか確からしくないといったことはない。できごとは起こるか起こらないかであり、中間は存在しない。」

 

「未来の行為をいま知ることはできない。ここに意志の自由がある。」

 

「論理は何かがこのようにあるといういかなる経験よりも前にある。」

 

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」

 

「論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。」

 

「思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。」

 

「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」

 

「世界と生はひとつである。」

 

「私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」

 

「主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」

 

「世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。

君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だという。だが、君は現実に眼を見ることはない。

 

「論理学の命題はトートロジーである。」

 

「太陽が明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない。」

 

「世界は私の意志から独立である。」

 

「たとえ欲したことすべてが起こったとしても、それはなお、いわばたんなる僥倖にすぎない。なぜなら、意志と世界の間にはそれを保証するいかなる論理的連関も存在せず、さらにまた、かりに意志と世界の間になんらかの物理的連関が立てられたとしても、その物理的連関それ自身を意志することはもはやできないからである。」

 

「世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。――かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。」

 

「善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。すなわち、善き意志も悪しき意志も、言語で表現しうるものを変化させることはできない。

 ひとことで言えば、そうした意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのでなければならない。

 幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。」

 

「同様に、死によっても世界は変化せず、終わるのである。」

 

「死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。

 永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠を生きるのである。

 視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。」

 

「神秘とは、世界はいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」

 

「永遠の相のもとに世界を捉えるとは、世界を全体として-限界づけられた全体として捉えることにほかならない。

 限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。」

 

「答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。

 謎は存在しない。

 問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。」

 

「たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直観である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されていない。そしてまさにそれが答えなのである。」

 

「生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。」

 

「私を理解する人は、私の命題を通り抜け――その上に立ち――それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)

 私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。」

 

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」