古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「諸葛孔明は忠臣か?」~あるいは託孤寄命とは。

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

☆三国志 考察 目次  に戻る

 

諸葛孔明は忠臣か?」という質問があるとします。これは愚問です。なぜなら、孔明が「忠臣」という概念のモデルだからです。

孔明」=「忠臣」のモデルな訳ですから、孔明が忠臣でないとすると、「忠臣」のモデル自体が存在しないことになってしまいます。

 

 では、そもそも「忠臣」とは何か?それは「論語 泰伯編」に書いてあります。

 

「曾子曰く、以て六尺(りくせき)の弧を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪う可からず。君子人か、君子人なり。」

 

「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也。君子人與、君子人也。」

 

 大意は以下の通りです。

 

 曾先生はおっしゃった。今ここに一人の人物がいて、(先君が)幼少の君主を(この人に)委ね託すことができ、(大国の君主が没して喪中の時に)政治を担当させることができ、国家の存亡にかかわる大事を前にして確固たる信念・節操を持ち続けることができるとする。このような人物は君子人であろうか。(そうだ、真の)君子人である。

 

 このような人間こそが「忠臣」のモデルであり、孔明はまさにその忠臣のモデルな訳です。

 

 彼が「忠臣のモデル」となったのは、三国時代以降、隋・唐に至るまで中国が数百年間の「大分裂」及び「家臣の乗っ取りによる短期王朝交代」という混乱した時代になった事の反省によるものだと思われます。魏の曹丕、晋の(基盤を築いた)司馬懿以降、その王朝の君主権力が衰えると、その王朝の重臣が乗っ取って自らの王朝を立てる者ばかり現れるようになりました。新王朝の君主がまさに「前王朝の乗っ取り正当化の模範」になっている訳ですからどうしようもありません。このような君子像が模範である限り「分裂」と「乗っ取り」が続き混乱が続くのは当たり前です。

 

 この反省から、唐以降は、次の君主が幼少であろうと(劉禅は当時18歳なので幼少ともいえませんが)、多少暗君であろうと忠実に補佐し、国の大事に確固たる信念を持って対処した孔明が「忠臣」のモデルとして称揚される事になりました(それ以前から称揚はされていますが)。だから、「忠臣」とは孔明のように行動する家臣の事を意味する訳です。彼が「忠臣」という概念のモデルである以上、彼が「忠臣」でない訳がありません。

 

*                *                   *

 

 孔明の話から離れますが、宇野哲人論語新釈』(講談社学術文庫)の該当部分の解説に以下の記述があります。

 

加藤清正が嘗(かつ)て人に向って「前田利家が晩年儒学に志して、わしや浮田秀家や浅野幸長を招いて、話のついでに論語の『六尺の孤を託し百里の命を寄す』の章を挙げたことがあったが、わしは当時学問をしなかったから、何の意味だかわからなかったけれども、今になって考えて見るとほぼ暁(さと)る所がある。今日この語を念(おも)わない者は、おそらく不忠不義に陥るだろう」と曰ったが、秀頼を奉じて家康と二条城に会見して無事に帰った時、泣いて「わしは今日いささか太閤の恩に報ゆることができた」と曰ったということである。」(一部旧字体を新字体に改めました。)

 

 とありますが、「暁(さと)る」のが遅すぎたと思われます。

 

 もちろん、徳川家康は「君子人」とはとうてい言えない、「君子人」から最も遠いところにいる人物といえます。(儒学に深い家康は、当然自覚していたと思われますが。)

 

参考文献

加地伸行論語 増補版』(講談社学術文庫

宇野哲人論語新釈』(講談社学術文庫