古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の二 石田三成の「取り成し」人生

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 よく「関ヶ原の合戦で西軍が負けたのは石田三成の人望がなかったからだ」と言う人がいます。 

 これは、あえて石田三成徳川家康と「同格」であるとして過大評価しつつ、その直後に徳川家康と比べて人望がないと貶めているという、いわゆる「上げて、落とす」という評価の仕方で、あまり感心できません。 

 実際には、石田三成は当時近江19万5千石・官位も従五位下治部少舗の小大名です。対する徳川家康は関東250万石を超える大大名、官位も正二位内大臣、三成とは比較にならない巨大な存在です。強きになびくのが世の風潮の戦国時代、むしろこれほど弱小な存在でありながら、三成の味方についた大名が多いというのは意外なことです。秀吉在世の頃、石田三成が奉行として強大な権勢を振るったといっても、それは秀吉の権威を背景にしていたためです。江戸時代にも(石高としては低い)側用人が権勢を振るうことがありましたが、将軍が交代すると当然の如く権力を失うことになっています。 

 秀吉死後、秀吉の威光もなくなり、七将襲撃事件で奉行職も追いやられた三成が決起したことによって、天下の半分の大名が三成の味方となったということは、三成の本当の個人としての「人望」によって天下の半分の西軍諸将が味方についたということになります。兵力・権力・家柄などの要素を抜かして,、はだかの「個人」としてこれだけの味方を集めるのは稀有のことです。こうした意味では、むしろ石田三成は日本史上で「個人」として一番人望のある人間といえるのではないでしょうか。

 

 さて、このような三成の「人望」はいかにして高まったのかでしょうか。石田三成といえば「優秀な行政官」とのイメージが強いですが、対大名との外交官としての役割も重要なものでした。そして、三成の人望は「外交官 石田三成」として諸大名を「取り成す」ことによって高まりました。秀吉の大名に対する統制は苛烈を極め、秀吉の怒りを買って取り潰された大名も多いです。本来秀吉に取り潰されてもおかしくない大名が、三成の「取り成し」によって救われることもありました。

 具体的に三成らの「取り成し」によって滅亡を免れた大名は、上杉家、島津家、津軽家、佐竹家だと考えられます。他にも、三成は取次として毛利家との関係を親密なものとしています。 

 結局の所、関ヶ原の合戦では、三成の「取り成し」に感謝して三成の味方につく大名が多かったのです。

 

 ちなみに、このような「取り成し」は石田三成だけではなく、秀吉政権下の各武将がやっています。徳川家康もまた「取り成し」によって人望を集めた人物といえるでしょう。 

 また「取り成し」に失敗すると、黒田官兵衛・長政の城井氏粛清のような陰惨な事件に発展してしまいます。「取り成し」はいつもうまくいくとは限らず、失敗すると取り成そうとした大名と共に自らが秀吉によって粛清される危険のあるものなのです。

 

 しかし、このような「取り成し」による大名との友好関係は構造として欺瞞的ではあります。大名に苛烈な要求をする秀吉も「秀吉政権」、それを取り成す三成ら「外交官」も「秀吉政権」です。大名個人と直接外交の窓口に立つ家臣達は「取り成す」三成らに対して恩義を感じますが、直接外交の窓口に立たない大名家の他の人間達は、「どちらにしたって秀吉政権の苛烈な要求のせいで、我等は危機になったのではないか」と冷めた視線を送ります。 

 このため、関ヶ原の合戦において西軍についた大名の多くは家中がまとまらず、内部混乱を引き起こします。このことが西軍の敗因のひとつといえるでしょう。

 これが、秀吉政権の「外交官」としての三成の人望の「限界」といえます。

 

 対して、徳川家康は秀吉の「義弟」(秀吉の妹朝日姫が家康に嫁いでいます。もっとも朝日姫は天正18年(1590年)に亡くなっていますが。)という立場ですが、巧妙に自身を「豊臣政権」の「外部」であるように振る舞う(振る舞うというより、豊臣政権の「外部」となることが最終目的)ことによって各大名に「取り成し」は感謝され、かつ「豊臣政権」そのものに対する恨みは買わないという、おいしいポジションを獲得しました。これが、家康の関ヶ原の合戦の勝因のひとつといえるでしょう。

 

(研究書とかを読むと、大名間の外交を担う人を「取次」と書かれていることが多いのですが、歴史学用語は厳密なため「この場合は『取次』ではなくて『奏者』だ」等、用語についての議論がどんどん細かくなってしまうので、あえて現代語である「外交官」という言葉にしました。)

 

 次回以降のエントリーから三成と各大名との外交関係について個別に検討します。 

1 上杉景勝① ②  ③  ④  ⑤  ⑥  ⑦ 

2 蒲生秀行

3 島津義弘①  ③        

4 津軽為信

5 佐竹義宣①   

6 伊達政宗①    

7 毛利輝元①  

 また、外交関係ではありませんが、三成と縁戚関係であり関係の深い真田昌幸・信幸(信之)、共に決起した大谷吉継との関係についても検討します。

8 真田昌幸

9 真田信幸(信之)

10 大谷吉継

 

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