古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成の人物評について

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 石田三成の人物評に以下のようなものがあります。

 

1.大谷吉継関ヶ原の戦いの決起に先立ち、佐和山城に三成と共にいた時に、このように忠告したといいます。

「その方の諸人に対する態度は、殊の外 へいくわひ(横柄)であり、諸大名をはじめ一般の人々にも評判が悪い。従ってこの度の決起は毛利輝元宇喜多秀家を上に立て、その下について取り計るように・・・云々・・・」

という記述が大道寺友山の『落穂集』にあるとのことです。『落穂集』は享保12年(1727年)に作られたものです。(関ヶ原の戦いは慶長5(1600)年です。)

 よく、この「へいくわひ(横柄)」者というのは石田三成の性格としてよく使われます。親友の大谷吉継が言っているのだから、間違いないという感じでしょうか。

 

 しかし、この話はデタラメです。関ヶ原の戦いで、毛利輝元宇喜多秀家石田三成が決起するなら、毛利輝元が総大将になるのが当たり前です。輝元と三成では、家格・官位・豊臣政権内の地位・石高・兵力、全て比べ物になりません。(もちろん、全て輝元が上です。)だから、毛利輝元を押しのけて、石田三成(しかも、この時三成は奉行職を免ぜられて無役です。)が総大将になるということは、当時の常識としてそもそも有り得ないことなのです。大谷吉継が、わざわざ「毛利輝元の下につけ」などと話すはずがありません。当たり前すぎてはじめから議論にもならない話なのです。

 

 なぜ、こんな「デタラメ話」がまかり通るかというと、結局「関ヶ原の戦いの首謀者は石田三成だ」と江戸時代以降の世間の感覚ではなっているためです。

関ヶ原の戦いの首謀者は石田三成だ」という話になったのは、早い話、関ヶ原の戦いで敗れたものの減封のみで存続を許された、毛利輝元をはじめとする西軍大名の罪を軽くするための徳川側(と減封を受け入れる大名側)の「方便」です。責任者を石田三成に絞ってスケープゴートにすれば、他の者の罪が軽くなる訳です。

 

 その「方便」が広まり時間が経つにつれ、「方便」の方が「事実」として定着してしまったのですね。この頃になると、むしろ「石田三成は(実質的な)総大将だ」という誤解すら生まれています。(というか、現代でも誤解している人がいますが。)このため、上記のような話が作られたのです。

 

 つまり、実際に大谷吉継がこのような話をする訳もなく、この話は江戸時代の方便として作られた「関ヶ原の戦いの首謀者は石田三成だ」という話が「事実」として定着した以降に、後世の人が作った「作り話」なのです。「へいくわひ(横柄)」は江戸中期の頃に作られた三成のイメージをそのまま引っ張ってきただけのことです。

 

 こういう明らかな「作り話」でも「イメージ」として定着してしまうと、払拭するのは難しいというのは、現代でも同じですね。

 

2.また、高野山の深覚坊応其(木食上人)の語った言葉として以下の言葉があります。

「石田治部という人は、その意に逆らうと報復の怖い人である」

 

 こうした言葉を評価するときに、「語った人はどんな人物なのか」、「どのような状況で言ったのか」を確認する必要があります。

 

 深覚坊応其(木食上人)は高野山の僧ですが、三成と元々親密な人物です。

 天正13(1585)年、関白秀吉が紀州征伐の際に高野山を攻略しようとした時、秀吉に応其は拝謁し、高野山の無事を嘆願し認められています。このとき三成も応其のため秀吉の説得につとめています。応其と三成の親密な関係はここから始まります。

 秀吉政権下においては、応其は三成とともに、九州征討の時の島津勢との開城交渉等に携わっています。

 慶長5(1600)年、正月に七将襲撃事件で佐和山に隠退した三成のもとに、応其は年頭の挨拶に訪れています。

 関ヶ原の戦いでは、応其は西軍側として、阿濃津城や大津城の開城交渉に奔走しています。

 そして、戦後は三成の三男の佐吉を出家させ、甲斐国河浦山薬王寺の法弟に託しています。

 

 関ヶ原の戦いの後、応其が関ヶ原の戦いで西軍側に立って阿濃津城や大津城の開城交渉をしたことについて、徳川の使者から詰問を受けることになります。

 

 その時に深覚坊応其が言ったのが「開城交渉により一人でも多くの命を救うのが、多くの寺頭を建てるより大事なことである」「石田治部という人は、その意に逆らうと報復の怖い人であり、そのため阿濃津城や大津城の開城交渉に奔走せざるを得なかった」という言葉なのです。

 

 石田治部がというより、徳川家康の報復を恐れての言葉と考えるのが自然ではないでしょうか。

 

参考文献

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年