三国志 考察 その8 曹操の屯田制は過大評価されている
建安元(196)年、曹操は、許都の近辺に屯田を設けます。「これは主に流民を募集して、持ち主のない農地をあたえ、牛や農具を支給して、集団で農業に従事させて租税を納めさせるもので、許都での成功の後、さらに広い範囲で実施」(*1)されます。
「いわば国家直営の集団農場であり」(*2)、「内地で一般人民による屯田を大規模に行ったのは、中国史上、この時代だけである。」(*3)
現代において、曹操が政治家としても優れていると評価される政策としてよく屯田制があげられますし、実際この屯田制のおかげで曹操は兵糧を確保し、たび重なる戦争を遂行することができたのです。(*4)
しかし、この屯田制って、そんなに高く評価されるものでしょうか?
いつの時代もどこの国でも土地改革というのは大変なものです。ローマのグラックス兄弟の土地改革は失敗して、暗殺や自殺に追い込まれましたし、日本の太閤検地でも、反発した国人衆の一揆が頻発しました。
これは、土地改革というのは土地に既得権を持っている層の権利を排除するものだからです。当然、既得権を排除しようとすれば、既得権層は猛反発します。その反発をいかに抑えるかが、土地改革の一番の難事なのですね。
ところが、この曹操の屯田制の場合、与える土地は持ち主のない農地な訳です。最初の排除すべき既得権層が存在しない。なぜ、持ち主のない農地がそんなにたくさんあるのか?後漢末の長い戦乱のため、元の持ち主が殺されたり、戦乱を避けて逃亡したりしたためです。
官渡の戦い以前の曹操の支配地域は、司隸・豫州・兗州・徐州の四州です。
この四州は後漢末の戦乱でもっとも荒廃した地域です。
豫洲は黄巾の乱、その後李傕(リカク)による虐殺、その後袁術による圧制で荒廃しています。
徐州は、曹操の徐州の民虐殺、その後下邳(カヒ)水攻め等により荒廃しています。
このように、曹操自身が原因の戦乱も含めて、曹操の支配地域は戦乱等により荒廃し、それがゆえに元の持ち主が殺されたり、戦乱を避けて逃亡したりしため、持ち主がない農地がたくさんあった訳です。
「持ち主がない農地」といいますが、これ、実際には持ち主いるはずなんですね。死んでも、遺族などいればその人が持ち主ですし(家族も含め虐殺された例もあったでしょうが)、逃亡してもその土地が持ち主のものであるというのは変わりません。(そういった土地の所有権の管理もできるのがまともな国家な訳ですが、後漢末は一種の無政府状態ですので、曹操も含め、なかなかそういうのが期待できません。この時代にまがりなりにも、まともな統治ができていたのは袁紹・劉表ぐらいなのではないかと思われます。)
そういった農地をドサクサに紛れてネコババして、はじめから自分が土地の所有者であるかのような顔をして、流民たちに与え、その代わり重税を搾り取るというのが曹操の屯田制の実態です。戦乱の中でのことですので、いたしかたない面はあるかもしれませんが、とりたてて高く評価するような制度ではないと思われます。
(注)
(*1)金 文京、2005年 p72
(*2)金 文京、2005年 p73
(*3)金 文京、2005年 p73
(*4)金 文京、2005年 p72
参考文献