古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その15 党錮の禁と袁紹の「奔走の友」について

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前回のエントリー:三国志 考察 その14 曹操の祖父、曹騰の宮廷遊泳術

 

 後漢桓帝霊帝の時期の政界を大きく揺るがせた事件として党錮の禁があります。

 

 党錮の禁の概略について鶴間和幸『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社、2004年より参照・引用します。

 

 党錮の禁とは、「党人を禁錮」したという意味であり、「党人」とは、「本来こころざしを同じくする輩(なかま)の意味である。政争のなかでは徒党を組んだ政敵のグループを批判する呼称になった。」(p409)とされます。

 

 そして、桓帝霊帝の時期の政界においては、「中央政界で宦官勢力を批判した官僚たちが、逆に宦官側から党人として一くるみに呼ばれ、この党人と宦官の政争で党人側の多くの人材が犠牲になることにな」(p409)りました。

 

 以前のエントリーで見たように、外戚の梁冀を排除した宦官達に対する桓帝の寵愛は著しく、宦官達は自らの養子に爵位を継がせ、土地を独占し、親族を高位高官につけ勢力をつけ、富貴をほしいままにします。宦官の傍若無人ぶりに士人らは反発します。

 

 こうした中、延熹9(166)年、第一次の党錮の禁が起こります。

 

延熹9年 (一六六)、第一次の党錮の禁が起こり、司令校尉の李膺ら二百余人が党人として逮捕された。そもそもの事件のきっかけは、李膺が河南尹であったときに、宦官と交際のあった張成という風角師の関わった、あらかじめ恩赦の日を占ってから子どもに殺人をさせた事件を厳しく取り締まり、張成を死刑にしたことに始まる。恨みに思った張成の弟子は、李膺らが太学の遊学者や地方の郡の生徒たちと徒党をなし朝廷を誹謗していると上書した。桓帝はこのことを聞いて怒り、全国の党人を賞金をかけて逮捕するように命令し、李膺、陳寔ら二百余人を捕えた。翌年六月には尚書の霍諝や竇武らが釈放を願い出、逮捕者は故郷に帰されたが、逮捕者の名が中央の府庫に記録され終身の禁錮(任官できない身)となった。

しかし、世論の支持は党人側にあった。宮廷では宦官が勢力を広げる一方、清流派の名士たちは在野で評価を得た。三君、八俊、八顧、八及、八厨という人物のランクが定められ、竇武、陳蕃は三君、李膺は八俊に位置づけられた。三君、八俊の三五人の伝記が『後漢書』党錮伝に収められた。

その後桓帝が死去し、建寧元年(一六八)一一歳の霊帝が即位すると、陳蕃は太傅、竇武は大将軍、胡広は司徒として官界に復帰した。」(p409)

 

 この期に竇武・陳蕃らは宦官の撲滅を計ろうとしますが、この計画は失敗し、逆に宦官らは「竇武・陳蕃らは皇帝の廃立を図り大逆を為そうとした」と反撃します。宮中の戦いに敗れ、竇武・陳蕃は殺されます。

 

「しかしすぐに中常侍曹節が陳蕃、竇武と尚書令の尹勲、侍中の劉喩、屯騎校尉の馮述らを殺し、一族を処刑した。建寧二年(一六九)、今度は中常侍侯覧が役人にほのめかして、前の司空虞放、太僕杜密、長絡少府李膺らを逮捕して獄中で殺し、死者は百余人に及んだ。

 全国に党人を逮捕すべき詔書が出されると、多くの人々が党人とされた。恩赦があっても党人だけは除外され、さらに太学の学生千余人も逮捕され、党人と関係の深い門生、故吏、父兄、子弟たちも官職を追われて禁錮の身となった。しかし黄巾の乱が勃発すると釈放された。黄巾の乱と党人との結び付きを恐れたからである。これがいわゆる第二次党錮の禁である。殺された者の遺体や、流刑者は郷里に帰された。」(p410)

 

 この党錮の禁の間の、後の後漢末の群雄の一人となる袁紹の動きを見てみましょう。

 

(范曄編、李賢注、吉川忠夫訓注『後漢書』第8冊 列伝第六(岩波書店、2004年)を参照・引用しています。)

 

 袁紹の生年は不明です。袁家は高祖(祖父の祖父)の袁安以下四代続いて三公の位にあり、このため、天下に大きな影響力を持っていました。

 

 袁紹は、年若くして郎に任官にされ、濮陽の長となりますが、母が亡くなると官を去り喪に服します。三年の喪が終わると幼くして亡くなった父親の喪に更に三年服します。喪が明けると洛陽に移りますが、官吏につくことなく、遊興を好み士と広く交わりました。貴賤となく対等に付き合い、彼の屋敷には高級な車とおんぼろ車がびっしりと列を成したといいます。

 

 宦官たちは皆これを憎み、「中常侍(引用者注:宦官の役職)の趙忠、省内(注:禁中)に言いて曰く、「袁本初は坐に声価を作し、好んで死士を養う。知らず、此の児終に何を作さんと欲するやを」(p480)等と袁紹を批判します。

 

 叔父の太傅の袁隗はこれを聞いて袁紹を呼び責めますが、袁紹は行いを改めることはありませんでした。

 

 この頃の袁紹の行いは、「党錮の禁で反宦官勢力の士人を粛清・排除し、宦官勢力によって牛耳られた腐敗した宮中を自分から見限り、官吏に就くことなく在野に留まり、士人らと交わり、自らの評判を高める」という清流派(宦官からしてみると党人派)の行いそのもので、宦官からしてみれば、こうした清流派の行いは政権批判そのもので憎悪の対象でした。

 清流とは、宦官勢力(濁流)に反する士人達の自称です。この袁紹の行いは、こうした腐敗した政権であるにも関わらず、特に反省なく宦官に反対することもなく漫然と高位高官についている親族達への反発でもあったでしょう。

 

 この頃、袁紹は特に張邈、何顒、呉子卿、許攸と親しくし、「奔走の友」となります。

「奔走の友」とは何に「奔走」したのでしょうか。それは『後漢書』党錮列伝の何顒伝に書かれています。

 

「陳蕃、李膺の敗るるに及んで、顒(引用者注:何顒)は蕃、膺と善きを以て、遂に宦官の陥るる所と為り、乃ち姓名を変(あらた)め、亡(のがれ)て如南の間に匿る。至る所皆な豪傑に親しみ、荊、予の域に声(ほまれ)有り。袁紹之を慕い、私(ひそ)かに与(とも)に往来し、結んで奔走の友と為る。是の時、党事起こり、天下多く其の難に離(かか)る。顒常に私(ひそ)かに洛陽に入り、紹に従いて計議す。其の窮困閉厄せる者は、為に援救を求めて以て其の患(わざわ)いを済(すく)い、掩捕せらるること有る者は、側ち広く権計を設けて逃れ隠るることを得しめ、全免する者甚だ衆(おお)し。」(p223)

 

 すなわち袁紹、何顒ら「奔走の友」は、第二次党錮の禁の際に、罪に問われ追われた党人達を救い逃すために「奔走」し、そのおかげで無事に命を全うできた者が多かったのです。ちなみに如南は袁紹の故郷です。何顒が袁紹を頼って如南に逃げたのかはこの伝だけでは不明ですが。

 宦官等が、このような袁紹らを敵視したのは当然といえるでしょう。

 

 後漢末の争いで袁紹が声望を集め、反董卓連合軍の盟主になり、その後も河北を制圧し繁栄したのは、袁家が三公四世の名家の出だからというだけではなく、この頃の袁紹らの「奔走」により、救われた者が多く世間の人望が極めて高かったことが大きいと思われます。

 

 後に袁紹は大将軍の何進の掾に辟され、侍御史、虎賁中郎将となります。中平5(188)年、西園八校尉を置くと、袁紹は佐軍校尉となります。

 

 今まで官吏についてなかった袁紹何進の招きに応じて官吏となったのは、何進と結び、いずれ宦官を誅滅しようという計画が彼の中にあったと思われます。

 

 ところで、袁紹曹操は若い頃より親しい仲にありました。といっても年は袁紹の方が上(おそらく十歳程度?)であり、同僚や友人の関係にはありません。曹操にとって常に袁紹は上司であり先輩であり、この事に曹操は大きなライバル心と劣等感をかきたてることになります。後世の史書の袁紹の描写は曹操やその臣下らのバイアスがかかり、ライバル視している袁紹を感情的に貶めたものであり、あまり鵜呑みにはできません。(陳寿三国志』の曹操関係の史書の元ネタは魏・晋の臣下によるもので、曹家一族・曹魏政権は正当・正統なものであるという前提で評価されています。)

 

 

 次のエントリー(三国志 考察 その16 曹操の清流派への転身① )は今回触れられなかった若き曹操の行動について検討したいと思います。