古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

関ヶ原の戦いは西軍が負けるべくして負けた戦い~毛利輝元の「天下三分の計」

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1.西軍の総大将は毛利輝元 

 前(考察・関ヶ原の合戦 其の一 はじめに)にも書きましたが、関ヶ原の戦いの西軍の総大将は形式的にも実質的にも、毛利輝元であり石田三成ではありません。そして、毛利輝元は神輿にかつがれた訳でもなく、総大将として西軍全軍を指図しており、基本的には輝元のデザインした戦略の通りに西軍は戦っています。

 

 なぜ関ヶ原の戦いで西軍が負けてしまったかということですが、結論から言えばこの毛利輝元という総大将の軍事能力は相当に疑問符がつき、彼のような人物を総大将とした時点で、西軍の敗北は決まってしまったといえます。

 

 しかし、これは結果論です。輝元が軍事的に無能な人物だと当時から広く知れ渡っていれば、彼をそもそも総大将として担ごうと思う人物はいないでしょうし、輝元が総大将なら必敗だと味方につく大名もいなくなり、関ヶ原の戦いは史実のような日本を二分する戦いにはならなかったはずです。

 

 これは、輝元は優秀なおじ二人(吉川元春小早川隆景)らの補佐のおかげで、ボロを出さずに優秀な人物と言われないまでも普通程度の人物だと周囲の大名から思われていたためだと考えられます。このため、毛利のネームバリューで多くの大名が西軍につくことになります。しかし、優秀なおじ達も亡くなり、自分の判断・決断で戦わなければいけなくなった時に途端にボロが出ることになったのではないでしょうか。

 

 輝元の能力はともかくとして、西軍の総大将として西軍は彼の立てた戦略の元に

動くことになります。次は輝元の戦略を見ていきます。

 

2.毛利輝元の「天下三分の計」

 では、輝元のデザインした戦略とはなんだったのでしょうか。それは、輝元版「天下三分の計」です。

 

 輝元は、もともと強力で百戦練磨の家康軍と正面から戦う気はありませんでした。仮に同数の兵で家康と正面から戦っても自分は勝てないだろうと思っています。家康の戦上手、自分の戦下手を自覚している戦略と思われます。また、毛利家は伝統的に慎重な家です。(追記:毛利家が伝統的にというより、毛利元就が、輝元が凡庸な器であることを理解していて、積極的な策を取らないように本人及び周りの補佐役達に言っていたような感じらしいですね。)正面から戦って勝つか負けるかは時の運みたいな戦いはバクチのようなもので、そのようなリスクはなるべく避けたいのです。

  

 しかし、現時点で会津上杉景勝と家康はにらみ合っている状態です。上杉と対峙している以上、家康が西上することはないと、輝元は判断します。そのため、家康が動けない間に、まず自分の地盤を固めるため、輝元は西国内で西軍に逆らう小勢力を滅ぼし、西国における自分の支配圏を確立することに全力を注ぎます。東国へ攻めることは、輝元の構想にはありません。東国は家康の支配圏であり、それは「くれてやる」地域なのです。そして、東北(陸奥・出羽)は上杉の支配圏として認めます。

 

 つまり、西国=毛利、東国=徳川、東北=上杉という天下三分の構造を確立させ、そののち適当な時期を見計らって和睦を行い、徳川家の東国支配は認めるが、中央政権からは排除する形で決着をつけるというのが輝元の目指す国家構想だったと思われます。そして、この三家の上に、関白豊臣家が君臨するという構造です。

 中央政権の政治は、二大老毛利輝元宇喜多秀家)と四奉行(前田玄以増田長盛石田三成長束正家)が行うことになります。

 

 この天下三分の計に基づいて、総大将毛利輝元の指示により北陸・伊勢・岐阜・山陰・九州・四国等へ西軍は兵を分散し多方面攻撃をすることになります。

 

 徳川とは初めから和睦することが目的ですので、戦争が始まった瞬間から和睦交渉は始まります。吉川広家徳川家康に内通したといいますが、これは毛利輝元黙認のものでしょう。といいますか、当時の戦国大名毛利輝元に限らず、一方で戦争していると同時に一方落としどころを探して和睦交渉をする「和戦両様」が普通でした。

 

(令和2年8月15日 追記)

 光成準治氏の『関ヶ原前夜』(角川ソフィア文庫、2019年)によると、慶長五(1600)年8月1日(西軍の攻撃で、伏見城が陥落した日)に、毛利輝元は同日付益田元祥宛て書状に、徳川家康からの書状を毛利秀元吉川広家に披見させるよう伝えています。(「仍内府(徳川家康)よりの書状案文、秀元・広家へ遣わし候条、披見あるべく候、」)(p99)

 この徳川家康の書状から、慶長五年の戦役の最中にも、毛利輝元徳川家康からの連絡を受けており、両者の交渉ルートは開かれていたということが分かります。

 戦争の結着をつけるのには、殲滅以外には和睦交渉による決着もありますので、戦争中でも、敵との交渉・書状のやり取りは当然あることです。

 

 光成準治氏は、以下のように述べています。

「家康は七月二十三日頃に石田三成大谷吉継謀議の情報を得ている。二十一日の時点ですでに細川忠興は輝元も決起の主要人物であることを認識しており、その情報は家康にも伝わったものと考えられ、家康の書状はこの情報に対する反応である蓋然性が高い。その内容は推測するしかないが、講和の道を探るものだったのではないだろうか。反徳川闘争の決起は家康には全く想定外であり、前方に上杉景勝、後方に上方の決起軍、周囲には動向不明の豊臣系大名が存在するという危機的な状況から、家康は弱気になり、講和の道を探っていたとも考えられる。」(p100)

 この後、続けて光成氏は、西軍決起後も東軍方の黒田如水・長政と連絡をとっていた吉川広家が、一時期長政との交渉を中断しており、これは上記の家康の弱気な書状を見て東軍有利の確信が持てなくなっていたからではないかとしています。(p96~100)

(令和2年8月15日 追記おわり)

 

 しかし、後世の人から見ると、この戦争している一方で「別ルートで和睦交渉している人物」というのは内通しているように見えてしまうんですね。まあ、この和睦交渉している人物がどこまで主君の意を通しているかわからず、自分自身の意思を前面に出していることも多いため、内通していると思われても仕方ない場合もありますし、正直広家の動きは輝元の意思を正確に反映しているようには思えず、独自の思惑で動いているようにみえます。(そういった独自の思惑で動く人物を交渉役にして放置している輝元が問題なのですが。)

 

 しかし、このような和睦に家康が応じるかは不明です。家康の望みは秀吉になりかわって天下人になることであって、東国の支配のみに甘んじることではありません。けれども、輝元という人物は、こういった人物にはありがちな思考回路なのですが、「自分が考えているように、相手も同じように考えるだろう」という推測をしてしまうんですね。

 

 そして、こうした人物は「自分が考えているように、相手も同じように考えるだろう」という推測が外れていまうと、パニックになって頭が真っ白になってしまいます。輝元の推測では絶対来ないはずの家康が西上してきて、輝元は「これは、もう負けだ」と思考停止します。

 

 しかも、他の西軍諸将には家康の接近を知らせもしません。関ヶ原付近まで来た毛利軍が、おそらく広家の指示で南宮山に入って戦う意思がないのを示しているのは家康の接近が分かっているからです。なぜ、他の西軍諸将は家康が来るのが直前まで分からなかったのでしょうか。それは、西軍で諜報を担っていたのが総大将の毛利軍だったからでしょう。毛利軍は諜報で得た情報を他の西軍諸将に知らせなかったのです。

 

3.他の西軍諸将には黙って勝手に和睦 

 結局、輝元(あるいは広家)は、他の西軍諸将には黙って家康と勝手に和睦してしまうという最悪の選択肢をします。しかもそれは軍を率いている毛利秀元にすら知らせません。(これが広家の独断か、輝元の意思かは不明ですが、その後の輝元の動きを見ると、広家の独断だったとしても、輝元は彼が独断で動くことを認めていたんじゃないでしょうか。)

 

 西軍諸将は、毛利軍が南宮山に籠って戦う意思を示さないので疑心暗鬼になります。総大将の派遣した毛利軍が戦おうとしない訳ですから「こいつら、俺達に黙って勝手に和睦しちゃったんじゃないの?」と疑われることになりますね。しかも黙っているわけですから、味方を見殺しにする気な訳です。戦う前から総大将が負けを認めて和睦しちゃっているんだから、勝てるわけがありません。

 

 ということで、これだけ無能な人物を総大将にした時点で、西軍の敗北は決まっていたといえるでしょう。残念ながら関ヶ原の戦いは初めから負けるべくして負けた戦いなのです。

 

4.最後に石田三成について

 最後に石田三成ですが、結局、彼の関ヶ原の戦いでの存在は過大評価されすぎで、その実像より巨大なものとして扱われていると思われます。関ヶ原の戦いの彼は西軍諸将の一人に過ぎません。実際には関ヶ原の戦いの戦後処理の責任押し付けの狂言で「実質的な総大将」に祭り上げられただけに過ぎません。(豊臣家にも、和睦した毛利輝元にも総責任を押し付けられない以上、代わりの生贄が必要だった。)

 

「外交官」としての三成の能力は卓越したもので、よく西軍側に多くの大名を味方に引き入れたものだといえますが、その能力はあくまで「外交官」としての能力であり、全軍を指揮する「総大将」としての能力は問われておらず、また実際に彼は西軍を「総大将」として指揮などしていません。(他の三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)の軍事能力や指揮能力など誰も問うていないことで、戦いにおける「奉行」の位置づけがどの程度のものか理解できるでしょう。)

 

 また、関ヶ原の戦いに至る戦いの決起を主導したのが石田三成だというのも疑問です。総大将である輝元の戦略で西軍が動いている以上、この戦いは輝元が主導であり、それに三奉行が家康排除(三奉行の目的は家康の豊臣政権からの追放であり、打倒ではない(打倒できるとも思っていない))の目的に同調したのが実態だと思われます。家康の豊臣政権排除が目的であり、家康打倒ではないという戦略で輝元と三奉行は一致しています。

 これに対して開戦後の三成は家康打倒派というべきで、これは三成が家康を個人的に憎んでいるからとかではなく、家康は豊臣政権の打倒が目的なんだから、和睦に応じる訳ないだろ、という分析によるものだと思われます。しかし、この三成の家康打倒の主張は結局西軍の主流になることはありませんでした。

 

 じゃあ、石田三成大谷吉継佐和山決起は何なんだという話なんですが、この家康排除計画の話の順番は、毛利輝元→三奉行→石田三成という順番なのではないかと思われます。毛利輝元軍の決起は相当前から準備していないとできませんし、三奉行は大坂で人質作戦を展開していますので、これは毛利輝元と初めから通謀していないと話になりません。三奉行は毛利輝元軍が到着してから態度を改めたのではなく、はじめから毛利輝元とつるんでいます。(もちろん、三奉行→毛利輝元石田三成という可能性もあります。)

 

 石田三成大谷吉継佐和山で決起した時、前田玄以増田長盛が家康に通報しているので、三奉行は後から毛利輝元が大坂に入城後、促されて仕方なく西軍についたのだと誤解している人がいますが、そんな訳がありません。この石田三成大谷吉継の決起の家康への通報は大坂方と輝元が軍を動かすための目くらましです。石田三成大谷吉継の決起への対応という理由がないのに、軍を勝手に動かせば、それは反乱の意図だと他の大名から思われてしまいます。大坂にも親家康派はいますから、反乱の意図ありということになりますと親家康派と戦いになってしまい、この「反乱軍」には正当な名目もないため、大坂付近にいる諸将がどちら側につくか全く分からなくなってしまいます。結局、毛利輝元等が大軍を動かすには口実が必要ですし、大坂に到着するまで、家康方に対応させる隙を与えるわけにはいきません。

 

 ということで、石田三成大谷吉継の決起は上記のように軍を動かす口実をつくるために、毛利輝元と三奉行サイドから提案されたものだと考えるのが自然です。

 

 実際には、石田三成が主導で関ヶ原の戦いの計画を立てたというのは考えにくいのですね。なぜなら、石田三成が家康打倒の計画を立てるなら、まず早い時期に親しい大谷吉継真田昌幸に相談・説得すると思われるからです。しかし、大谷吉継への説得はぎりぎり直前でした。

 

(平成29年6月26日追記)

(最近では、三成が西軍決起を吉継に説得したのではなく、吉継が三成を説得した説もあるようです。

 三成は、この時期は隠遁しており、佐和山から動けず、また家康方の監視の目も光っていたことを考えると、自由に動けた三奉行・毛利輝元・吉継の方が、先に決起の謀略を共に計画し、その後、吉継が三成を説得した流れの方が確かに自然です。)

 

 また、真田昌幸とは縁戚でもあり、地理的にも上杉景勝との連携を考えると真っ先に仲間に入れなければならない人物です。しかし、実際には事前の昌幸との通謀はなく、前もって計画を知らせなかったのは水臭いではないかと三成は責められて言い訳をしている手紙が残っています。

 

 こうした事実を考えるとはじめに輝元・三奉行主導で家康排除計画は立てられ、その計画を持ちかけられた三成は実はしばらく迷った末に決断したというのが実態ではないかと思われます。

 

関ヶ原の戦いを巡る考察は以下にしていますので、ご覧いただければ、幸いです。↓

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