古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その23 なぜ、何進・袁紹は董卓を召し寄せたのか?②

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 前のエントリー(三国志 考察 その22 なぜ、何進・袁紹は董卓を召し寄せたのか?①)の続きです。

 

4.そして悲劇へ 

 外部の軍による脅迫にも関わらず、何太后はなお宦官誅滅の承諾を何進に与えませんでした。さらに何苗何進に宦官との和睦を説きます。

 

「「始め共に南陽従(よ)り来るや、倶(とも)に貧賤なるを以てして、省内(省内とは禁中。そこに奉仕する宦官。)に依りて以て貴富を致せり。国家の事、亦た何ぞ容易ならん。覆水は収まらず。宜しく深く之を思い、且(ひとま)ず省内と和すべきなり。」」(*1)

 

 これを聞いて、何進はまた宦官誅滅をためらってしまいます。袁紹は、何進が計画をためらっているのを懼れ、何進を脅して言います。

 

「「交搆已に成り、形勢已に露(あらわ)る。事留まれば変生ぜん。将軍復(ま)た何をか待たんと欲して而して之を決せざる乎(や)。」」(*2)

 

 袁紹にこのように言われ、ついに何進は決心を固めます。袁紹司隷校尉(帝都洛陽を含む司隷(司州)の長官)とし、王允を河南尹(洛陽のある河南郡の長官)とします。袁紹は洛陽駐在の武官に宦官の監視をさせ、董卓等の兵を平楽観(洛陽西郊の離宮)にまで進めるようにを促します。

 

 何太后はこの動きを恐れ、何進と親しい者を除き中常侍小黄門(宦官)を辞めさせ、郷里に帰るようにさせます。宦官達は、何進の元に来て謝罪し、すべて何進の措置に従うと言います。何進は、この宦官達を宮中から追い出す措置で満足してしまいます。

 袁紹は、この期に宦官を誅殺してしまうことを説きます。宦官達の横暴の罪に比して郷里に帰させるだけの処分では極めて甘く、またこのような措置では将来の宦官の復帰も可能で、いずれこの措置を恨みに思った宦官の復讐を受けて滅ぼされてしまいます。何進が宦官の力を甘くみているのに袁紹は危機感を覚えます。

 

 しかし、袁紹の言う事を何進は今度は聞きません。何苗も言ったように何一族は宦官の支えで富貴の身分になったようなもので、個人的に何進は宦官に恩はあっても恨みはありません。袁紹ら官僚の意見を重視しないと後漢の統治はできないと思っているので、宦官の処分を進めているわけですが、本音は宦官の誅滅までは考えておらず。宦官らの宮中からの追放を行い、それによって官僚らの納得が得られればよい、という程度の考えだったといえます。

 

 これに対して、業を煮やした袁紹は書を偽造して大将軍の意として宦官の親族を捕えよと州都に告げます。宦官の親族は宦官の力によって地方で高位高官につき、財物利益を独占し民衆を侵害していたためです。

 

 一方、宦官の反撃も始まります。中常侍張譲の養子の嫁は、何太后の姪でした。張譲は嫁を通じて何太后を説得させ、宦官が再び宮中に戻れるように詔をさせることに成功します。

 

 何進は何太后が前の命令を覆して宦官を呼び戻したのを見て、もはや自ら何太后に会って直接説得しないといけないと感じ、宮中に向かいます。今まで病と称して宮中に入らなかった何進にとって、これが命取りになります。何進に油断があったといえるでしょう。

 

 張譲等は、宮中に入った何進を暗殺します。張譲何進を暗殺するとき詰って言います。

 

「「天下の憒憒(かいかい)たること、亦た独り我が曹(ともがら)の罪のみには非ざるなり。先帝嘗つて太后と快からず、畿(あや)うく成敗に至らんとするや、我が曹(ともがら)は涕泣して救い解き、各々家財千万を出して礼と為し、上(しょう)の意を和悦せしむ。(注に、「陳留王協の母の王美人をば何后は之を鴆殺す。帝怒り、后を廃せんと欲せしも、宦官固く請いて止むることを得たり」。)但だ卿(きみ)の門戸に託せんと欲せし耳(のみ)。今乃ち我が曹(ともがら)の種族を滅せんと欲するは、亦た太甚(はなは)だしからず乎。(ひどすぎはしないか。)卿は省内穢濁なりと言うも、公卿より以下の忠清なる者は誰と為す」。」(*3)

 

 その後の袁紹等と宦官達の動きです。(『後漢書 何進列伝、董卓列伝』第8冊を参照しました。)

張譲段珪等が、詔を為(つく)り、元大尉の樊陵を司隷校尉、少府の許相を河南尹とします。

尚書盧植が詔板を疑うと、中黄門(宦官)が何進の頭を投げつけ「何進が謀反を起こしたので誅殺された」と言います。

何進の部曲将の呉匡と張璋が、何進が暗殺されたことを知り、兵を率いて宮中に入ろうとしますが、宮閣が閉ざされます。袁術は呉匡等と共に之を攻め、中黄門は兵を持って守ります。日が暮れると袁術は南宮の九龍門及び東西宮を焼いて張譲等を脅して出させようとします。

張譲等は何太后に「大将軍何進の兵が反乱を起こし、宮を焼いている」と言って、太后・帝・陳留王を連れて複道より北宮に逃れます。

盧植が矛を持って複道の窓の下で、段珪を咎めると、段珪は懼れて太后を解放します。

袁紹と叔父の袁隗が、詔と偽って樊陵・許相を召し出して之を斬ります。

何苗袁紹は兵を率いて朱雀闕の下に屯して、趙忠等を捕まえ斬ります。

・呉匡は、何苗が宦官と手を組んで何進を殺したのだと疑い、董卓の弟奉車都尉董旻と共に攻めて何苗を殺します。

袁紹は北宮の門を閉じ、兵を率いて宦官を皆殺しにします。誤って殺される者もありました。死者は二千余人。袁紹は更に兵を進め端門(宮の正南の門)の屋に上って禁中を攻めます。

張譲段珪等は帝と陳留王等数十人を連れて穀門(洛城の北の中央の門)を出て、徒歩で小平津に逃げます。盧植王允の部下の河南中部掾の閔貢がこれを追います。

 閔貢が数人を斬ると、張譲段珪等残りの宦官等は皆河に投じて死にます。

董卓は、遠く火の起こるのを見て、兵を急いで進み、未明に城の西に至ります。帝が北芒山に避難しているのを聞き、行って奉迎します。

 

5.まとめ 

 以上の流れを見て考えるのは、竇武・陳蕃の時の失敗とは違って、今回は宦官誅滅に成功した理由は宮城に火を放って攻める等、何進が暗殺された直後の袁紹袁術等の動きに躊躇がなく、この機に宦官等を速やかに殲滅することで何進の部下達の意思が一致していたからでしょう。もし、宦官を殲滅するために宮城を燃やすような「蛮行」を行うことに躊躇を示したり、あるいは宦官の反撃の切り札である詔書に誰かが従ってしまったりすれば、逆に、宦官の反撃で誅滅されていたのは反宦官側だったと思われます。きわどい戦いだったといえます。

 

 宦官達は帝を握って逃亡を試みており、仮にどこかへ一旦逃亡に成功した後、袁紹らを逆賊として詔を出して誅滅せよと命じることがあれば一気に形勢が逆転する危険性もありました。何進が外部から兵を召し出し、都の周囲を包囲する事がなければ、逃亡される可能性もありました。実際には結果的に外部の兵を使わなくても、宦官の誅滅ができた訳ですが、それは結果論です。

 

 また、袁紹らが危惧の念を抱いていたのは、何進が途中で宦官誅殺をあきらめ宦官と和睦してしまうことでした。そうすると宦官誅滅の旗を振っていた自分達が、宦官に睨まれ殺される危機になります。実際に何進は何度もためらっています。外部から兵を召し寄せさせることで、もう後戻りできないと何進自身の決心を変えさせないようにすることは、彼らにとって必然だったといえます。

 

 結果として、董卓の暴虐で後漢は滅亡の危機になり、実際に後漢は滅んでしまうため、何進袁紹らが董卓を召し寄せたのは厳しく批判されますが、外部の兵を召し出す計画がなければ、何進自身が何太后の意向に負けて誅滅計画を撤回する等して計画が失敗していた可能性が高く、そうしたリスクの高い計画を立てることは袁紹らにはできなかったのだと思われます。

 

 まあ、外部の将を召し出すにしても、董卓だけ呼ばなければ良かったのでしょうが、これは未来人の事後予言に過ぎません。(史書に残っている同時代人の董卓を危険視する発言も「事後予言」の可能性が高いということは、前のエントリー(三国志 考察 その22 なぜ、何進・袁紹は董卓を召し寄せたのか?①で指摘しました。)また、宮中に董卓の弟董旻がいることを考えると、おそらく以前より何進董卓とは親交があり、何進董卓に対して何らかの信頼関係があったのではないかと思われ、何進が外部から将を呼ぼうと考えた時に優先的に選ばれる武将だったのかもしれません。

 

 注

(*1)『後漢書 何進列伝』第8冊、p279

(*2)『後漢書 何進列伝』第8冊、p279

(*3)『後漢書 何進列伝』第8冊、p282

 

 参考文献

范曄撰、李賢注(吉川忠夫)『後漢書』第8冊、岩波書店、2004年