古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」

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 光成準治氏の「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」(「(渡邉大門編『家康伝説の嘘』柏書房、2015年所収)を読了しました。以下、感想及び豊臣政権と家康の関係の変遷について検討してみます。(以下は上記を読んでの筆者の個人的感想であり、書籍の要約ではありませんので、よろしくお願いします。)

 

1.秀吉の対家康外交の2つのルート

 光成氏によると、「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのかという問いに対する答えは、イエス・アンド・ノーと言えるだろう。家康と三成の間に私的な交流があった形跡はなく、(相田:二〇一一、中野:二〇一一)、その意味ではイエスである。しかし、そのような二人の没交渉は、家康を牽制しようとする秀吉の意図に基づくものであり、両者間に個人的な感情の対立があったわけではない。その意味では仲が悪いという表現は相応しくなく、ノーである。」(*1)という結論です。筆者もその見解に同意します。

 

 つまり、天正12(1584)年以降、秀吉と織田信雄の対立が激化し、徳川家康織田信雄と同盟を結ぶとまず、秀吉の対家康外交として家康を牽制しようとするルート(A)ができました。その後、小牧・長久手の戦いを経て、家康と和平を結び秀吉政権に取り込もうとするルート(B)の2つが作られました。和戦両様が秀吉外交の基本であるため、家臣の一方には戦争準備をさせ、家臣の一方には和平交渉をさせます。右手でこぶしを振り上げつつ、左手で握手するのが秀吉(というか当時の戦国大名、いや現代国家でも同じでしょう)の基本的な外交戦術であり、対家康外交で牽制ルート(A)を担ったのが石田三成ら、後に和平ルート(B)を担ったのが富田一白や津田盛月、のちに浅野長吉(長政)らということになります。

 

 そして、「敵の敵は味方」理論で、「対家康陣営」という関係で、その他の戦国大名の交渉ルートも色分けされていきます。(三成らの対上杉ルートは家康以前のものですが。)

 

 この2つのルートは、家康の臣従後は北条、伊達に対する牽制or和平ルートに拡大します。徳川家康は北条氏と同盟関係にあり、北条氏と伊達氏は同盟関係にあったためです。これにより、

 

対家康牽制ルート(A) 豊臣秀吉石田三成増田長盛

上杉景勝真田昌幸佐竹義宣・宇都宮国綱・相馬義胤・結城晴朝

 

対家康和平ルート(B) 豊臣秀吉-富田一白、浅野長吉ら

徳川家康(同盟)北条氏政・氏直(同盟)伊達政宗

 

の2つの外交ルートが秀吉政権下で発生しました。特に、光成氏が指摘するように「北条史滅亡以前の三成らは、徳川氏と同盟関係にあった北条氏に敵対する大名・領主(上杉氏・真田氏・佐竹氏・宇都宮氏など)の「取次」的役割を担っていました。このため、北条氏滅亡後に徳川氏が関東へ移封された結果、三成が「取次」的役割を担っていた大名・領主によって家康は包囲されることにな」りますが、これも三成が意図してそうなったというより、秀吉が徳川と対立していた時代から家康牽制ルートを三成らに担わせ、その後は主に(徳川と同盟を結んでいた)北条と対抗する大名と牽制のため取次関係を結ばせていたために、結果的にそうなってしまったということです。

 

 そして、北条が滅亡(天正18(1590)年)して、徳川家康が関東へ移封された後は、秀吉は方針を変え、家康の東国支配強化を支援することになります。

 

 北条の滅亡以前の天正17(1589)年に真田昌幸の長子信幸と、徳川家康の養女(本多忠勝の実娘)小松姫との婚姻があり、これで真田氏は徳川氏の与力大名ということに正式になります。これは既定路線でした。

 

 面白いのは、これに対して昌幸次男の真田信繁(幸村)は大谷吉継の娘と婚姻しており、また石田三成真田昌幸は縁戚関係にあるということです。

 石田三成の妻は宇多(尾藤)頼忠の娘でした。寺島隆史氏によると、宇多頼忠の息子の宇田頼次が後に三成の父正継の養子となり、「石田刑部少輔」と名乗っていますので、頼次と三成は義兄弟の関係にあります。この宇多(石田)頼次と真田昌幸の娘が婚姻しており、これにより石田・大谷氏と真田氏は縁戚関係となりました。(真田昌幸正室宇多頼忠の娘であり、石田三成真田昌幸は相婿であるという説も有力ですが、寺島隆史氏によりますと、上記の関係が誤って伝わった誤説であろうと否定されています。(*2))

 

 これに対して白川亨氏は、宇多(尾藤)頼忠の兄の尾藤知宣の嫡男が頼次である(つまり頼次は頼忠の甥)と述べています(*3)が、いずれにしても宇多(石田)頼次は三成の父正継の養子となっていますので、三成と頼次が義兄弟であることに変わりはありません。(ちなみに、白川亨氏は、真田昌幸夫人=宇多頼忠の娘説(*4)をとっていましたが、後に真田昌幸夫人=宇多頼忠の妹説(*5)を唱えています。)

 

 この三成と尾藤(宇多)家との関係については後のエントリーで検討したいと思います。

 

 この縁戚関係のため、後に関ヶ原の戦いでは真田信幸が東軍につき、昌幸・信繁は西軍につくことで、真田氏内で敵味方に分かれることになります。

 

 そして、天正18(1590)年、下総の大名、結城晴朝の養子に次男秀康を送り込み、秀康は結城氏を相続します。

 

 また、会津に移封された蒲生氏郷の死後の文禄4(1595)年、同年後を継いだ秀行と家康の娘振姫との婚姻が決まります。(文禄4(1595)年は婚約、慶長3(1598)年11月5日輿入れ)はじめ、秀吉は氏郷の死後に重臣の出した検地目録の内容を疑い、秀行の近江国内堪忍分2万石を残して所領を没収しようと考えますが、家康・前田利家の尽力により、ことなきを得たとされます。(*6)

 

 しかし、慶長3(1598)年3月、秀行は秀吉の命令で会津92万石から宇都宮18万石へ移封されます。これは、蒲生家臣団の重臣同士の対立を秀行が制御できなかったためです。(蒲生氏郷の死亡に三成毒殺説があり、また秀行の移封に三成讒言説がありますが、これらは根拠のない俗説であり誤りです。これについても後のエントリーで検討します。)

※ 以下、参考エントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

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 蒲生秀行が会津から宇都宮に移封されたのは、家臣団の対立を制御できないようでは、秀行は奥羽への抑えとしては期待できないと秀吉に判断されたためです。元々初めの蒲生氏郷会津移封自体が氏郷個人の能力に期待して大領を任されたものだったので、会津の大領は当たり前に世襲できるものではありません。若年の秀行には元々荷が重いものでした。

 

 秀吉としても、若年の秀行には荷が重いと考え移封を考えたものの、これを家康に後見させることによってどうにかなるかもしれないと考えた訳ですが、家臣団の内紛でこれではもう任されられないとしたのが、後に秀行の転封となります。

 

 ちなみに、会津に移封された大名の役割は、家康を牽制するためだと誤解する人がいますが、蒲生秀行が家康の娘振姫との婚姻を条件に、会津領の存続を許されたことで分かるように、会津に移封された大名の役割は、家康勢力の牽制ではなく奥羽の対秀吉不満勢力の牽制です。

 

 天正18(1590)年の奥羽仕置により、北条征伐の際に秀吉の元に参集しなかった奥羽の大名が取り潰されました。また、その後秀吉政権は検地を強行し「京の流儀」を奥羽の地に強制しました。このため奥羽は、秀吉不満分子の火薬庫の状態になっており、何度も一揆が発生しています。会津に移封された蒲生氏郷は、こうした一揆に対抗する最前線基地としての役割を担わされました。それは、後に移封される上杉景勝も同じことで、秀吉の死後、彼が国元に戻った後に、景勝が軍事力の強化に努めるのは秀吉政権から求められる役割として当然のことだったのです。

 

 秀行の後任に上杉景勝会津に移封されますが、これは別に景勝が望んだことではなく、加増転封とはいえ馴染みの地である越後を失い、争乱に備える地である会津に行かされるというのは景勝にとってはいい迷惑以外の何物でもなかったでしょう。しかも、うまく統治できなければ佐々成政の如く改易の憂き目になり、しかし、移封を拒めば織田信雄の如くこれもまた改易となるわけです。景勝としては苦渋の決断として会津へ行くことになります。この時、三成は景勝の取次として、上杉家の会津移封作業に尽力することになります。

 

 また、秀吉は遺言で上杉家と徳川家の婚姻を進めるように伝えており(これは結局実現しませんでしたが)、つまり秀吉としては、東国の支配を上杉家と徳川家で協力して行うことを期待していたのです。秀吉が家康の牽制のために景勝を会津に移封していたというのはこの点でも誤りです。

 

 また、ここで気を付けないといけないのは伊達政宗と秀吉政権との関わりです。伊達政宗は奥羽一揆の煽動に加担したとして、咎めを受けるなど、要警戒の大名として秀吉政権では扱われますが、結局秀吉政権の判断として伊達氏を滅ぼそうとすることはしませんでした。秀吉政権としては、伊達氏を滅ぼそうとすると、奥羽の反秀吉政権勢力が伊達氏の元に結集して抵抗することになりかねず、天下大乱の原因になる可能性があると警戒したのでしょう。このため、伊達政宗を警戒しつつ、逆に政宗を豊臣政権に取り込もうとし、奥羽の反秀吉勢力が伊達氏の元に結集しないようにすることが基本戦略となったのだと考えられます。秀吉外交の基本戦略である「和戦両様」、「危険視しつつ、取り込もうとする」を理解しないと、この秀吉の対伊達氏の外交は理解できません。

 

 慶長2(1597)年、下野の大名宇都宮国綱が改易に追い込まれます。宇都宮国綱の改易の理由は、浅野長吉の三男を国綱の養子にしようとする工作を国綱が拒否したことにあるとされます。更に、この改易騒動は宇都宮氏と縁戚にある佐竹義宣にまで連坐されようとされましたが、三成の取り成しで事なきを得ます。

 

 以上の(①家康養女(本多忠勝実娘小松姫)と真田信幸の婚姻、②家康次男の秀康の結城晴朝の養子送り込み、③家康娘(振姫)と蒲生秀行の婚姻、④浅野長吉の三男の養子縁組を拒んだ宇都宮国綱の改易、⑤宇都宮国綱改易の佐竹義宣連坐計略(未遂))を見ると、家康が徳川氏の東国支配強化に動いていており、そして秀吉政権の家康の取次である長吉らはこの家康の東国支配強化に協力し(これは取次として当然の行動です)、秀吉はだいたいの場合はこれを承認していることが分かります。

 

 三成・長盛らを秀吉東国支配強行派=中央集権派という研究者がいますが、実態は全く逆で、家康・長吉らを徳川東国支配強行派=徳川東国集権派と呼ぶのが正しいといえます。これに対して、三成・長盛ら徳川牽制派は、むしろこの徳川東国集権派の動きに押されまくりであり、かろうじて佐竹氏の領地を安堵させることで踏みとどまっている観があります。

 

 これは、この家康の東国支配強化を基本的に秀吉-長吉ラインも承認しているためであり、結局、秀吉の中での結論では東国支配は家康に任せるという意向のため、家康の東国支配強化を承認する流れにあったためでしょう。秀吉が承認している以上、三成・長盛ら徳川牽制派には否も応もありませんが、彼らも取次先大名の利益を守ることができなければ武士としての面目が果たせません。

 

 もっとも家康を優遇する一方で秀吉は家康をそれなりに警戒もしており、あまりに支配権を強化させるのは危険だと認識もありました。はじめは、その牽制役を三成らに担わせていた訳です。この家康に対する「信頼し優遇しつつ、一方で警戒する」という二律背反した秀吉の態度は、別に家康に対してだけではなく、要は「誰も信用することができない」ということです。これは、戦国大名の宿阿といえるのかもしれません。

 とはいえ、最終的に秀吉は家康の権限拡大路線を承認し、結果的に反北条(徳川)大名の弱体化をさせ、家康の勢力を拡大させることになります。

 

 そして秀吉の晩年になってからは、秀吉は前田利家の官位を上げることなどによって、家康警戒ルートを、前田利家が中心になるように人事を進めています。

 

 もともと三成と家康が個人的な感情として仲が悪いことありませんでしたが、秀吉の天下統一の戦略上、反家康・反北条・反伊達ルートを職務として担わされた三成としては親家康になりようがありませんでした。同じような立場の増田長盛には家康の奏者となっていた事例があり、「ある程度の親交があったものと推測される」(*7)ことを考えると、「最後に三成についてであるが、家康からの単独受給文書、秀吉発給文書の奏者となった事例のいずれも確認できない。(中略)そもそも家康からの単独受給文書、秀吉発給文書の奏者となった事例は存在しなかったのではないだろうか。」(*7)というのは、かなり異例な事態です。

 

 奉行・外交官として第一人者である三成が、秀吉を除いては最大の大名である家康に対して「公的に」一度も交渉した事実がないというのは異常事態です。「公的に」一度も交渉した事実がないというのはつまりは、これは秀吉の指示によるものだということです。

 

 三成は秀吉により家康の牽制役をすることが期待され、そのため暗に秀吉から家康との交流も禁じられ、その指示に忠実に従うしかなかったといえます。三成と家康が「公的に」没交渉なのは秀吉の強い意向だったためです。これは、人間というものは一度でも面と向かって交流すると情がわいて仲良くなってしまうものであるためであり、秀吉から三成は家康との交流を禁じられたためだと思われます。三成まで「家康派」になってしまうと、あまりにも家康が強大化してしまうと秀吉は警戒したのでしょう。

 

2.対家康・北条・伊達牽制ルートの残骸

 

 光成氏は「家康と三成の関ヶ原における対決は、秀吉によって宿命づけられていた。家康に対抗する存在として「取次」的役割を媒介に構築されていた、三成・長盛と、毛利・上杉氏らの同盟関係が基軸となり、反家康闘争としての関ヶ原の戦いが勃発したのである。」(*8)と指摘しています。

 

 光成氏の指摘通り、結果的には、この家康牽制同盟が関ヶ原の西軍の基軸となりました。しかし、晩年の秀吉が本来考えていたのは、前田利家・利長の主導による四大老五奉行による家康牽制であり、利家が死亡し、利長が家康に屈服した以上は家康を牽制する主導者はいなくなり、現実的にはどの大名も家康に対抗するのは困難だったでしょう。長盛・三成らの東国の家康牽制同盟は、秀吉自身の家康優遇策によりボロボロになっていました。

 

 確かに結果的に、この東国家康牽制同盟が、関ヶ原の戦いの西軍の母体のひとつとなりましたが、秀吉があらかじめその自身の死後のために想定した前田利家主導の対家康牽制同盟とは違い、この同盟は昔の対徳川、北条、伊達牽制同盟の残像に過ぎません。秀吉が自らの手で家康勢力を強化してしまった以上、秀吉の死亡後の家康牽制の目的の同盟としてはほころびが大きく、目的や動きもバラバラで、この事が関ヶ原の戦いの西軍の大きな敗因となりました。

 

 もし、この東国家康牽制同盟を本当に家康の天下取りを牽制するために作るならば、秀吉はこの同盟を強化すべきでした。具体的にはこのまま佐竹・宇都宮・結城・蘆名等の反北条・伊達系大名をそのまま家康の牽制勢力として使うべきだったでしょう。実際にはそうはならず、秀吉は家康を懐柔するため、むしろこれらの大名を弱体化させました。この判断は大きな誤りだったといえるでしょう。

 

 

 佐竹義宣も三成が取次として、検地による佐竹氏の領国の支配権の強化や、国綱改易時の取り成し等で佐竹氏のために尽力していたことは知っており、三成個人に対する感謝の念はありました。しかし、結果として佐竹氏は希望していた蘆名氏(蘆名義広佐竹義宣の弟です)の会津復領は叶わず、縁戚である宇都宮国綱は改易され、更にはその連坐により改易されそうになるような状態であり、トータル的にみれば豊臣家の佐竹家に対する処遇はとしてはマイナスといってよく、秀吉政権そのものに感謝するいわれはありませんでした。 

 

 この事により、関ヶ原の戦いの時に義宣は上杉と密約を結び西軍について関東乱入をしようと考えますが、父義重をはじめ家中の反対にあい、西軍にも東軍にもつけないまま時を過ごすことになります。

 

 上杉景勝にしても、それまでの三成の取次、また会津移封の際の尽力に感謝の念はあったでしょうが、上杉家としてみれば、関東管領にあたる権限は家康に奪われたに等しく、代わりに与えられたのは火中の栗を拾いに行くに等しい会津の地、決して満足のいく処遇ではありませんでした。

 

 このため豊臣政権と上杉家との仲は盤石とは言い難かったのです。特に七将襲撃事件で三成が失脚した後は、豊臣政権と景勝の関係は薄れ、景勝が国元に戻ると、大老家康によって上杉家は監視・敵視され上杉討伐に繋がります。

 

 俗説にあるような、三成と上杉家が事前謀議していたという事実はなく、三奉行が内府違いの条々で家康を弾劾するまで、景勝は「豊臣政権」から征伐を受ける状態にあり、事前謀議どころではありませんでした。連携を持ちかけられたのは、毛利輝元と奉行衆が決起した後で、事後的な場当たり的な連携でした。

 

 連携後の景勝の動きは、この争乱がしばらく続くのを睨み、その間に自己の勢力をいかに拡大させるかということが第一目的となり、家康打倒は第二目的(といいますか輝元や三成を除く奉行衆も適当なところで家康と和睦するつもりだったと思われます)となりました。このため、三成が希望するように景勝が関東乱入することはありませんでした。この景勝の行動は特異なものではなく、他の大名でも例えば西軍の総大将の輝元自身がそのような行動ですし、東軍でも伊達政宗黒田如水はこの期に自勢力の拡大を第一目的として動いています。

 

 秀吉の生前より、家康を牽制することが前提として景勝が会津に配置されたのだとしたら、家康に対抗するための事前謀議は当然あったということになり、景勝も予定された行動として関東へ乱入していたと思われます。それに与力する大名もあらかじめ付属されて配置されていたはずです。こうしてみても、景勝が家康を牽制するために会津に移封された訳もなく、関ヶ原の戦いの事前謀議もなかったと考えるのが自然です。

 

 関ヶ原の合戦時に、急戦で敵勢力を打倒すべし(あるいは打倒しないと、こちらがやられる)と思っていたのは、家康と三成であり、家康軍は家康の指示の元、統率がとれていましたが(といってもこれは結果論であり、豊臣恩顧の大名が自分から離反するのではないかと家康は警戒していたため、しばらく家康は江戸から動けませんでした。)、三成は西軍の総大将ではなく、他の西軍の首脳(毛利輝元上杉景勝)は、この期に自己の勢力を伸ばして、あとは和睦する(それまで家康は攻めてこない)という自分達にとって楽観的な展望を描いていました。結局三成の急戦策は西軍の戦略としては通らず、総大将輝元らの楽観策が西軍の実際の戦略となりました。これに対して、西軍打倒の急戦策の意思で統率された家康軍が関ヶ原の戦いで勝利したのは必然でしょう。

 

3.改めて三成と家康の関係について

 

(平成29年9月18日追記・訂正) 

 その後検証した結果を、下記のエントリーで詳細に述べましたが、秀吉から公的な交流を阻まれていたにも関わらず、三成と家康の間には縁がなかった訳ではなく、秀吉の生前から石田家と徳川家は縁戚となっており、また共通の縁戚である真田家を通しての連絡を交わしていたことも分かり、また蒲生騒動を巡って共同で対処しており、交流もあったことが判明しました。

 このため、石田家と徳川家に、実際には友好関係といえるものはあった、というのが結論になります。

 詳細については、下記をご覧ください。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 また、秀吉の死後、一時期「三成」が家康に接近したという説もありますが、これは七将襲撃事件以後、三成が佐和山で謹慎した時期の話であり、(主に兄の正澄を中心に)石田家は確かに家康に協力的ですが、謹慎している三成本人の心中は不明です。

「石田家」が家康に協力的なのは、以前からの縁戚関係に加え、形式的には家康の差配で当主三成を助命してもらい、家の存続も認めてもらった形になっている訳ですので、石田家は感謝の意を家康に示さざるを得ませんし、また、実際このまま豊臣公議最大の実力者である家康についていった方が家の繁栄に繋がるであろう、というのはこの時代ほとんどの大名の認識でした。(家康自身に豊臣公儀転覆の意思はないであろう、というのが前提になりますが。)

 特に七将襲撃事件以後の、伏見・大坂の石田家の動きや、軍の派遣については三成は謹慎しているため、主体的には関与していないと思われます。

「三成の心中は実際どうだったのか」については結局七将襲撃事件を、どう三成は捉えていたのかという話になります。七将襲撃事件の黒幕が徳川家康ではないかという認識は、当時においても複数出ています。

 家康が七将襲撃事件の黒幕でも関係者でもなく、ただの善意の仲裁者であるならば、三成・石田家ともに家康は感謝すべき存在ということになります。

 これに対して、七将襲撃事件の黒幕が徳川家康であるとするならば、自らが三成を危機に陥れ、その後で何くわぬ顔で(自分が元凶であるにも関わらず)善意の仲裁者を装う卑劣漢ということになります。

 三成にとっては家康は、善意の仲裁者なのか、自分を罠にかけた卑劣な人物なのか、判断に迷うところだったでしょう。この迷っている段階から、「やはり七将襲撃事件の黒幕は家康」と確信するに至った事件が家康の「上杉征伐の強引な挙行」ということになるかと思われます。

 これは後のエントリーで検討します。

※ 七将襲撃事件事件以降の石田家の動きについては、↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

※ 慶長五年六月頃の石田三成の動きについては、↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 最後には三成は、家康に天下乗っ取りの野心ありと確信し、それは佐和山における挙兵、そして最終的に関ヶ原の戦いに発展します。三成は、秀吉の死後も強きになびかず豊臣家への義に殉じたとえいえるでしょう。

 

 注

(*1)光成準治 2015年、p155~156

(*2)寺島隆史 1999年、p170~171

(*3)白川亨 1997年、p263

(*4)白川亨 1995年、p67~68

(*5)白川亨 2009年、p151

(*6)藤田達生 2012年、p186

(*7)光成準治 2015年、p149

(*8)光成準治 2015年、p149

(*9)光成準治 2015年、p156

 

参考文献

白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年

白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年

白川亨『真説石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

寺島隆史「真田昌幸の妻妾」(小林計一郎編『真田昌幸のすべて』新人物往来社、1999年所収)

藤田達生蒲生氏郷-おもひきや人の行方ぞ定めなき』ミネルヴァ書房、2012年

光成準治「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」(渡邉大門編『家康伝説の嘘』柏書房、2015年所収)