古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成と真田信之(信幸)の友誼について

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※前回の関連エントリー

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 前回の続きです。(といっても間に大河ドラマの感想が数回入ってしまいましたが。)

 

 前回指摘したように、石田三成と真田家は縁戚となり親密な関係にありましたが、現在伝わる文書で、三成が真田家の中でもっとも親しかったのは真田信之(信幸)ではないかとされています。もっとも、昌幸や信繫(幸村)との交流も当然あったものと思われますが、関ヶ原の戦いの敗将である昌幸や信繫の三成関係文書は(昌幸が信之に渡した文書を除いて)失われ、現在は見ることができません。このため現代まで残っている三成の真田家宛ての文書は信之宛て文書がほとんどということなります。真田家の中で三成は信之個人とのみ親しかったわけではなく、三成と真田家とは家族ぐるみで親しかったのではないかと思われます。

 

 真田信之は、関ヶ原の戦いにおいては、岳父である本多忠勝との関係をもって東軍につき、親子兄弟が東西に分かれることになります。(当時の婚家の父親との関係というものはかなり強固なものだったといえます。)これは、信之(信幸)の「真田家の中で東西二つに分かれれば、どちらかが勝利したとしても真田の家名を保つことができよう」という説得があったとされます。三成との友誼という私情より、真田家をなんとしても残す、という家の存続を優先させた信之の非情の決断がそこにはあったといえます。

 

 こうして東軍についた信之が、関ヶ原の戦いの後も敗軍の将である石田三成の文書を廃棄せず残しておき、この文書が現代にまで伝わっています。他の大名達が後難を恐れ、徳川に刃向った石田三成の文書を廃棄している中、残す必要もない三成との交友の私信の記録をわざわざ残している信之に、三成との秘められた友情と反骨精神を感じます。

 

 しかも、この文書は「家康公御拝領の吉光の脇差を納めた」とされる長持の中に入っていたのです。現代に伝わる逸話に、真田家代々に受け継がれた厳命としてこの長持を守るため常に家臣五人が不寝番を務め監視し続けたという伝説が残っています。この厳命は江戸時代を通して続けられ、明治になりその長持の中には何が入っているかと改めたところ、三成から信之への書状が沢山出てきて皆驚いた、といいます。三成からの書状を「家康公御拝領の吉光の脇差を納めた」とされる長持の中に隠したということは信之の豪胆さを示すものといえるでしょう。

 

 以下、丸島和洋氏の『真田四代と信繫』平凡社新書の、真田信之(信幸)と石田三成の交友についての抜粋の引用です。

 

「実に意外なことだが、信幸がもっとも親しく交際した豊臣政権の家臣は石田三成であった。「真田家文書」には一四通もの三成から信幸宛ての書状が残されている。

 たとえば、織田信長の孫の秀信が病気になり、信幸の領国内にある草津群馬県草津町)に湯治に出ることになったことがある。しかし、秀信は病気であったためか、不案内な地での旅が不安になり、三成を通じて信幸に、留守居衆に自分の世話をするよう一筆書き送ってほしいと依頼している。その際、三成は「貴方と私の半(仲)をお聞きになられてこのようになりました」と述べている。三成と信幸の交友関係は、広く知られたものであったのである。」(*1)

 

 この書状は、中井俊一郎氏の『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』サンライズ出版に、全文が掲載されていますので、こちらも引用します。

 

「近頃は私も忙しく、ご無沙汰しております。さて、岐阜中納言織田秀信)殿がお加減が悪く、あなたの分領地である草津群馬県吾妻郡草津町)での湯治をしたいとのことです。しかし彼の地は不案内なので、ご無心ながら留守居衆へ面倒をみるように手紙を書いてもらえませんか。そうしてもらえれば私も助かります。いつもこのようなことをお願いし、心中ご迷惑と思います。御意を得られますように。委細は使者にて。恐々謹言

 

 近日は手前煩敷故不承候、然者」岐阜中納言織田秀信)殿御煩二付て、貴殿御」分領草津ヘ御湯治有度之旨候、」就其彼地御無案内之事二候間、」乍御無心、御留守居衆ヘ馳走候」様ニとの折紙一通御所望二候、拙者二」被懸御目を二付て、貴所我等半被」為聞召、右の通ニ候、御馳走候て可」被遣候、於拙者可為本望候、度々」如此之儀申入御心中迷惑ニ候、委曲」使者可得御意候、恐々謹言、

 六月九日          三成(花押)

 年代未詳 真田信幸宛書状 真田家文書 真田宝物館蔵」(*2)(下線は筆者)

 

 上記を見ますと、丸島和洋氏が指摘するように「貴所我等半被」為聞召、右の通ニ候」(我等の半(仲)を(秀信が)お聞きになられてこのようになりました)とあり、三成と信幸の交友関係は、広く知られたものであったことが分かります。

 しかし、この書状を読むと、なぜ織田秀信関ヶ原の戦いの時に西軍についたのか、なんとなく分かるような気がしますね。

 

 再び丸山和洋氏からの著作より引用します。

 

「ある時には、三成の子息が病気になったと聞き、信幸はたびたび見舞いの書状を出した。三成は「息子の病気は良くなりました。寝ずに看病して、いささか草臥れた具合です。一両日中には出仕する予定です。ご帰国するとのお話は、心得ました。みな大坂へ下りますので、今日中にそろって(大坂へ)帰るでしょうから、それを済ませてご挨拶したいと思います。」(筆者注:他の方(中井俊一郎氏、黒田基樹氏)の著作では三成自身の病気となっており、どちらが正しいか分かりません。)などと述べている。

 信幸に送られた三成書状は概して短い。これは両者が不仲であったからではなく、親密な関係にあった証拠である。たとえば「「書状を拝見しました。宿で待っています」だけといった短信もあり、「城の番も近日中にあくので、その折に積もる話を伺いたい」などという書状もある。」などという書状もある。後者では、「急ぎの御用があれば、『糊付』の書状にて承りたい」と続けている。「糊付」とは戦国期まれに見られるもので、その名称の通り、糊で封をした書状である(近世になると一般化する)。通常の書状は紙縒で縛るだけだから、糊付は隠密の用向きに用いられた可能性が高い。両者は、密書をやりとりすることもある関係だったのである。」(*3)

 

 黒田基樹氏も『豊臣大名真田一族』洋泉社で、以下のように述べています。

 

「最初に取りあげるのは、最も点数が多い、信幸に宛てられた石田三成の書状群である。その点数は十二通(筆者注:研究者によって数がまちまちです(丸島和洋氏は十四通、中井俊一郎氏は十五通(これは三成から真田家(信幸だけではない)への書状の数のようですが)です。一連つづきの書状を分けるかひとつとするかでカウントが違うのでしょうか?)にのぼっている。石田三成の書状がこれだけまとまっているのは、他に例をみないほどといってもよい。信幸は関ヶ原合戦の際に、三成に味方しないで、徳川家康に味方したことから、三成と深い関係になかったと思われがちであるが、先にもみたように、豊臣政権の取次は、この三成もよって、むしろ両者は極めて密接な関係にあった。この十二通の三成からの書状の存在は、何よりもその証拠になる。」(*4)

 

 

 面白いのは、三成と信之の岳父である本多忠勝の関係です。再び黒田基樹『豊臣大名真田一族』洋泉社より引用します。

 

「四日付(筆者注:書状からは年代・月も不明です。このように月すら省略する書状は日常的な交流をうかがわせるものといえるとのことです。)では、御書状を読みました、私は昨日夜中に秀吉に言われて、早朝から城に留まっていたが、今屋敷に帰った。私も信幸に会いたいが、今日は夜も更けたので、明日、お会いしたい、と述べられている(「真田家文書」信一八・五二六)。

 六日付では、三成は、約束してもらっていた鷹を贈られたことについて礼を述べるとともに、こちらからも鷹を贈らなければならないが、少しも尾羽が付かないため、遅くなっていると述べたうえで、昨夕信幸から屋敷への来訪をうけたことに対して、私も会いたいが、とにかく秀吉の御前での用務に忙しく、実現できていない、秀吉の病気のためずっと詰めているので、屋敷に帰ることもできない、と状況を伝え、本多忠勝も来訪してきたことについて、こうした事情なので、会って用件を聞くことができなかったことについて、了解を求めている。そしてさらに追伸で、面倒でしょうが、この書状を本多忠勝に遣わして欲しいと依頼している((「真田家文書」信一八・五二七)

 ここからは、信幸から三成に、かねてから約束していた通りに鷹が贈られ、三成はその鷹について「さてもても見事のたか」と称賛している。その一方、三成も信幸に鷹を贈ることにしていたらしいが、こちらはまだ贈れる状態にないことを述べている。こうした鷹の贈り合いのようなことが行われていたことがうかがえる。また信幸の舅にあたる本多忠勝も、三成を訪問したことが知られる。本多忠勝はおそらく家康の上屋敷に滞在していたであろうから、三成屋敷とは隣同士にあたった。ただ本多忠勝に書状を遣わして欲しいと依頼しているので、直接の交流は希薄であった様子がうかがわれる。

 七日付のものは、これに関連するとみられるので、その翌日のものの可能性が高い。信幸からの書状と本多忠勝からの返書にすぐにこちらから返事するので、それについて「かの方」からお尋ねがあったら、そのように答えておいて欲しい、明日は屋敷に帰るつもりなので、そうしたら用件を聞く、と述べている(「真田家文書」信一八・五二七)。信幸と本多忠勝からの連絡は、「かの方」の意向によるものであったことがうかがわれるが、そうすると「かの方」とは、本多忠勝の主人である徳川家康であったかもしれない。このことは、信幸と三成との関係を通して、三成と徳川方との連絡が行われていたことを示していよう。」(*5)

 

 前に以下のエントリー「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」 

koueorihotaru.hatenadiary.com

でも触れたのですが、三成と家康の「公的」な交流文書は実は一通も存在しません。これは三成と家康の個人的な仲の悪さを示すものではなく、秀吉が意図的に三成と家康を交流させることを控えさせた、いや、もっと積極的な意味で「阻んだ」と考えるのが自然です。

 

 その理由は、秀吉は三成を家臣として「家康を警戒する役割」として位置付けていたのかもしれませんし、各大名との取次を務め(取次・外交官としての)人望の高い三成と豊臣傘下の最大の大名である家康が親交を深め親密になれば、あまりに三成と家康の権力が巨大になってしまうため、秀吉はあらかじめ両者が親密にならないように分断をはかったものとも考えられます。秀吉は三成・家康も含め部下のことなど誰一人信用していません。(織田信長織田家の一番の重臣である明智光秀に暗殺され、秀吉自身が主家である織田家を押しのける形で天下人になったことを考えると、秀吉としては「第二の明智光秀羽柴秀吉を自分の部下から出してはいけない」という考えになるのはやむを得ません。)このため、秀吉は特定の部下に権力や人望が集中することを望みません。

 

 しかし、そうはいっても奉行として各大名に豊臣政権の政策を伝達・場合によっては指南することもある立場の三成が、豊臣傘下の最大の大名である家康と全く連絡ができないという状態も現実には支障をきたします。三成は秀吉のこの扱いには困惑したでしょう。

 

 家康との直接の交流を禁じられた三成が構築した家康との交流ルートが、三成-信幸-忠勝-家康というルートといえます。三成がこのような交流ルートを構築し、なんとか家康とのコミュニケーションをはかったのをみても、三成と家康が、個人的に仲が悪かったことは無いといえます。

 

 ただ、この三成の書状から家康との外交的な側面だけを強調してしまうと、この一連の書状の価値を減じてしまう事になるでしょう。こうして三成からの信幸への書状を見ていくと、三成と信幸の交友は、ただ家康との外交ルートとしての肩肘張ったような付き合いではなく、もっと深い人間的な繋がり、厚い友情を感じさせるものであったことがよく分かります。

 注

(*1)丸山和洋 2015年、p267

(*2)中井俊一郎 2012年、p267

(*3)丸山和洋 2015年、p267~268

(*4)黒田基樹 2014年、p66

(*5)黒田基樹 2014年、p68~70

 

 参考文献

黒田基樹『豊臣大名真田一族』洋泉社、2016年

中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』サンライズ出版、2012年

丸島和洋『真田四代と信繫』平凡社新書、2015年