真田昌幸はなぜ、上洛を延引し続けたのか?①
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以前より、なぜ真田昌幸は豊臣秀吉の上洛命令になかなか従わず、上洛を延引し続けたのか疑問ではありました。疑問といっても、特に改めて調べようと思ったわけでもなかったのですが、今回の大河ドラマ『真田丸』の昌幸の扱いがあまりにも酷かったので、自分なりに調べてみました。以前ブログの『真田丸』感想で、断片的に考察をしましたが、ここら辺でまとめてみます。
1.大河ドラマ『真田丸』の印象(興味ない方は読み飛ばして結構です)
大河ドラマ『真田丸』では上洛を引き伸ばし続ける昌幸の行動の理由は「信長に臣従したら、その直後に彼は本能寺の変で死んでしまった。秀吉の勢いも今がてっぺんで、あとは急速に衰えていくのではないか?」という分析が主だったようです。このドラマの昌幸は秀吉の天下統一に至る勢いを見誤り、軽視し続けしました。その結果、上洛を遅らせ続け、土壇場に追い込まれて遅れて上洛しても、はじめは直接の謁見すら許されず、旧敵である家康の傘下に入ることを命じられるという屈辱を味わう、という筋書きでした。
しかし、このドラマの描写、正直言って「いやそんなに昌幸ってアホだっけ?」と疑問なのですね。元々『真田丸』の青春編でも、徳川・北条・上杉といった大大名の中を渡り歩き、虚虚実実の駆け引きを行う「策士」だった昌幸が、大坂編になった途端に時流を見誤り、秀吉と何の駆け引きもしない愚鈍な人物として描かれ、びっくりします。
特に、このドラマでは上杉に付いていった主人公信繫がそのまま秀吉の馬廻り衆となってしまう、という筋書き(これはフィクションです)でしたので、「なるほど、これから信繫を介しての昌幸と秀吉の駆け引きが始まるのだな」と思って見ていたら、このラインは全く機能せず、なんのためにこんなフィクションの筋書きを挿入したのか意味不明となってしまいました。
今回のドラマの脚本では昌幸に限らず特に説明もせずいきなり悪い方へキャラ改変してしまうので、支離滅裂な印象を受けます。これだけ訳の分からないキャラ改変を行っても、相変わらず評判は悪くなく視聴率は高いらしいので、あまり皆さん疑問に思ってないようですが。
また、ドラマではなにか昌幸の「老い」を感じさせるような描写でしたが、昌幸が上洛した天正15年(1587年)2月のときは、昌幸はかぞえで41歳。(研究書では3月とする書籍もありますが、3月には秀吉は九州征伐に向かっていますのですので、2月が正しいようです。これについては後述します。)いくら人生五十年の時代といっても戦国武将としてはもっとも油の乗り切った年齢であり、老け込むような年齢ではありません。見ている皆さんも、演じられている草刈正雄さんの実年齢の印象に引き摺られているような気がします。
2.昌幸が素直に上洛に応じていたら?
大河ドラマでは、「愚鈍」とされる昌幸の動きでしたが、逆に昌幸がはじめから素直に上洛に応じていたらどうなっていたでしょうか?
後に述べるように昌幸の上洛延引は旧敵である徳川家の傘下に入ることへの不満が主な理由でした。昌幸があっさり上洛に応じるということは、素直に彼我の差を認め、徳川傘下に入ることを認めたことになります。
この場合は、実質的に昌幸は家康の(本当の意味で)家来となり、沼田の裁定も家康の思いのままとなり(おそらく北条に引きわたされる)、後の家康関東移封の際も徳川に同行して関東に行き、そのまま家康の家臣として一生を終えるという流れになっていたでしょう。
既に沼田の北条引き渡し時点で、名胡桃城事件⇒北条征伐というのがなくなり、史実とは全く違う世界線になってしまいますので、ifの世界線を予測するのは困難ですが、他の家康傘下となった信濃国衆の動きを見れば、真田も同様の扱いをされるであろうと予測されます。
これを踏まえると、おそらく素直に昌幸が上洛に応じた場合は、その後どういう展開にせよ家康の家来となっていたと思われます。家康は昌幸に恨みを持っていますので、徳川家臣としての真田家の扱いは過酷なものが予想され、適当な理由をつけて改易されて名跡のみは残し、旗本として徳川家に仕えるという流れになった可能性も高いのではないでしょうか。
上のような流れですと、真田家が豊臣家に恩を感じることもなく、徳川と豊臣の戦いがもし起こっても、真田一家は(家来ですので)すべて徳川家に従軍することになり、関ヶ原の戦いの時に昌幸が西軍について上田城で徳川相手に戦うこともなく、信繫が大坂の陣で豊臣方について奮戦することもなくなります。真田家は徳川家の無名の一家臣として歴史資料の片隅にのみ名前が残り、今のような大河ドラマの題材になることもなかったでしょう。
後の昌幸・信繁の豊臣家への忠誠・奮戦は、(他の信濃国衆と同様の扱いで)嫌っている徳川家の傘下と本来はなるはずのところを、秀吉が独立した大名として取り立ててくれたことへの感謝にあります。この点を踏まえないとその後の昌幸・信繁の行動が意味不明になってしまいます。昌幸の上洛延引(条件交渉)は、後の昌幸・信繁の行動の原因となる重要なポイントであり、その点が理解できていなかった今回の大河ドラマは非常に残念と言わざるを得ません。
3.史実の昌幸の上洛までの動き
前置きが長くなりました。実際の昌幸の動きを見てみましょう。
(前のエントリーと一部重複するところがありますが、ご容赦願います。)
天正十三(1585)年閏八月に行われた上田合戦の後の九月末から十月初旬頃に、秀吉に好詛を結びたい趣旨を認めた書状を送っています。これに対して秀吉はこれを喜び、十月十七日付けで昌幸に返書をよこしています。そして、「秀吉はその二日後の十月十九日に条目を送り、①家康は天下に対して表裏を構え許し難いので、成敗するつもりである、②家康討伐のため来年一月には出陣するので、その際には参陣すること、③信濃と甲斐のことは、小笠原貞慶・木曾義昌と相談し、計略を進めること、などを伝え」(*1)ています。
この時点で昌幸と秀吉は徳川打倒のための協力関係にあります。(しかし、以前から昌幸と秀吉が交流している関係であったことが『真田丸』では語られていません。)信濃の過半の国衆は秀吉方につき、また十一月十三日重臣石川数正が秀吉の元へ出奔し、家康は窮地に陥ります。
ところが、十一月二十九日に天正大地震が起こり、これで大打撃を受けた秀吉は家康と即時開戦に踏み切ることができなくなり、秀吉は徳川の和睦路線に変更せざるを得なくなります。
その後、秀吉は翌天正十四(1586)年四月に妹旭姫を家康の正室とします。これで、秀吉と家康の和睦が成立したといえます。そして六月には上杉景勝の上洛があります。この景勝の上洛の時に昌幸の扱いについて、秀吉は小笠原貞慶・木曾義昌とともに家康の麾下に編入するとの意向を提示し、景勝の内諾を得ています。
このことは真田を上杉の麾下から外し、家康の麾下に編入せよという意味です。また真田に限らず信濃の国衆について話しているように、つまりは、上杉は信濃の影響権を放棄し、信濃の支配権は家康に委ねよ、というのが秀吉の方針(これは、秀吉と家康の和睦条件のひとつだったと思われます)であり、その方針を景勝に要求しているのです。景勝はこれを認めざるを得ませんでした。信濃の支配権を秀吉が家康に委ねた以上、信濃の国衆である真田は自動的に家康の傘下ということになります。
秀吉は昌幸にも上洛を求めますが、昌幸は上洛に応じず、人質も出さず秀吉の怒りを買う事になります。
上記の流れを見れば、なぜ昌幸が上洛に応じないのか理由が、大きく2つあげられることが分かります。
ひとつめは、徳川傘下になること自体への不安です。真田氏は、元は徳川の傘下だったのが沼田の北条引き渡し要求に不満を持ち、家康の差し金である室賀信俊の昌幸暗殺未遂もあり、徳川に手切れを突き付けて上田城合戦で徳川を撃退したのはドラマでも語られているところです。
家康は真田に面目をつぶされて昌幸を恨みに思っています。そのような徳川の家来に戻ったところでその処遇は厳しいものとなるでしょう。無理難題を押し付けられ、できなければ改易されたり、あるいは室賀の時のように再び刺客を送り込まれたりする可能性があります。昌幸にとって家康に再び仕えるという事は身の安全が保障できない、きわめて危険なことでした。
ふたつめは、沼田の裁定です。秀吉が昌幸を家康の麾下に編入するとの意向を示したということは、沼田の差配を家康の意向に委ねた、という意味ととれます。そもそも徳川の傘下にあった昌幸が徳川と手切れをして、徳川と上田合戦で戦ったのは家康の沼田の差配(沼田を北条に与えよ、替え地については何も言わない)が不満だったからです。秀吉と誼を結んだのも沼田を守り徳川・北条と対抗するためです。それが、秀吉によって沼田の差配が家康に委ねられるというのでは、自分は何のために戦ってきたのか分かりません。沼田の裁定に自分の言い分が通らないのであれば、秀吉に臣従することはできないと昌幸は考えました。
この当時「上洛」とはつまり「臣従」ということです。「臣従」する条件が決まっていないのに、「臣従」することはできません。(特に条件交渉をせず上洛するということは、相手の言い分を(聞きもせずに)すべて従うという「無条件臣従」ということになります。)
だから、普通はどの大名も「上洛」する前に使者が行き交い、細かく条件を詰めていくわけです。昌幸が「上洛」の条件として出したのは、
① 徳川の家来になるのは嫌であること。(もし、どこかの大名の傘下になるのであれば他の大名にしてほしいということ。)
② 沼田を裁定する場合は、真田の言い分を聞くこと。
で、あろうと思われます。このような書状は残っていません(残っていたら、上洛延引が謎になっていません)ので、これは筆者の推測に過ぎませんが、その後の歴史を見れば昌幸がおそらくそのような条件交渉をしたであろうことが分かります。
(残念ながら、一般的にここら辺の下交渉の書状が残っていること自体が稀です。今でもTPPの交渉資料とかは国会ですらほとんど公開されませんので、こうした下交渉の書状はすぐに破棄されるか、あるいは書状すら作られず使者との口頭で交渉されるのが当時の慣習であったと思われます。(よく書状にある「委細○○申すべく候なり」というものです。))
さて、秀吉は上洛命令を素直に聞かず、条件交渉をしてくる昌幸を怒ります。しかし、この「怒り」は後の流れをみるとブラフであるというのが多くの研究者の見方です。ただの国衆に過ぎない昌幸が、いっぱしの大名ばりに条件交渉をしてくるのに呆れるとともにその豪胆さに興味を示したのかもしれません。
そして八月三日、景勝宛てに「昌幸は『表裏比興』なので、家康に命じて成敗することにした、一切支援するな」という書状を送り、八月六日には家康に昌幸成敗を認める条目を送ります。
しかし、その僅か一日後の八月七日には家康に真田昌幸との問題の仲裁をするので、家康に出馬を延期するように求めています。
おそらく、『真田丸』の片桐且元の家康訪問シーンはこれを再現したものでしょう。(ドラマでは「征伐のとりやめ」とはなっているが、実際には「出馬の延期」であることは既に指摘しました。)
九月二十五日に景勝へ宛てた書状で、昌幸の成敗を止めたことを伝えます。なお、この副状に増田長盛と石田三成が同様の内容を伝えています。これにより、真田赦免に上杉の「取り成し」があり、上杉の顔を立てる形で秀吉は「真田の征伐を取りやめる」ということを伝えたということが分かります。
その後、天正十四(1586)年十月に家康は上洛し秀吉に臣従します。ここで、改めて秀吉は真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌の3名の所領を家康に渡すことにします。(*2)
そもそも、かつてこの3名は徳川の傘下に入っており、その後(家康を裏切って)秀吉と誼を結んだものの、今回の家康臣従により、家康の傘下に「返された」ということになります。この時点でも、昌幸は家康の「家来」という扱いです。
その後の翌年の天正十五(1587)年二月に昌幸は上洛し、秀吉に臣従する訳ですが、驚くべきことに家康の上洛から更に四か月の月日が流れているのです。まあ、家康上洛の時点でも、真田は徳川の家来扱いとして家康に伝えられた訳ですから(このことは秀吉から景勝を通じて昌幸に知らされています)、つまり交渉に進展なし、昌幸としてはこの条件を認めて上洛できません。
これに対して、同年十一月二十一日、秀吉は昌幸に書状を送ります。
「その方事、家康と存分これあると雖も①、この方において直に仰せ聞かれ候。殿下(豊臣秀吉)も曲事に思し召し候し候と雖も、この度の儀は相免ぜられ候条、その意をなし、早々罷り上がるべく候。なお様子仰せ含まるべく候。委細尾藤左衛門尉申すべく候なり②。
真田安房守(昌幸)とのへ
秀吉は、昌幸が家康に対して思う所があるようだが、それはこちらで直接聞く。自分としても昌幸のやったことは道理に背いていると考えるが、この度のことは許そう。だから早々に上洛せよと命じたのである。」(*3)(下線、番号筆者)
この書状には2つポイントがあります。
①「家康と存分これあると雖も」とあるように真田家が家康の傘下に戻ることへの不安・反発が上洛延引の理由だと、秀吉サイドも理解しているということです。
②「委細尾藤左衛門尉申すべく候なり」とあるようにこの時の使者は、尾藤左衛門尉です。尾藤左衛門尉とは、秀吉の重臣、羽柴四天王(もっともこの呼称は江戸時代にできたそうですが)のひとりとされた尾藤知宣のことです。
この尾藤知宣の弟、尾藤(宇多)頼忠の娘が石田三成の正室です。つまり尾藤知宣は石田三成にとって義理の伯父になります。この時期では、当然尾藤兄弟の方が豊臣家の中では三成よりも地位は上ですので、三成は「尾藤人脈」の中の人物といえ、後の三成の真田との取次関係も尾藤知宣から受け継ぐ形でなった可能性もあるかもしれません。
また、尾藤(宇多)頼忠は武田の旧臣でした。近年否定的な研究者が多いですが、昌幸の正室は宇多頼忠の娘だという説もあります。この説が正しいか間違いかはともかく、同じ時期に真田昌幸と、尾藤(宇多)頼忠は武田家の家臣だったということであり、当然知己であった可能性は高いです。この関係が主な理由で、尾藤知宣が使者として真田に派遣されたのではないかと思われます。
「委細尾藤左衛門尉申すべく候なり」とあるように、委細は使者である尾藤知宣から話されました。この「委細」では「家康と存分これある」ことに対する昌幸の不安と、これに対して豊臣家が真田家の身の安全を保障することについての話し合いがあったのでしょう。
天正十五(一五八七)正月四日に秀吉は上杉景勝に書状を送ります。
「追つて、真田身上の事、その方に対し、赦免候。然らば、上洛の儀、申し付けらるべく候通り、その意を得候なり」(上杉家文書)と連絡し、彼の影響力を通じて昌幸を上洛ささせようとははかった。」(*4)
さて、昌幸上洛の期日が実ははっきりしません。複数の研究書では天正十五(一五八七)年三月としていますが、三月一日には秀吉は九州征伐に出陣していますので、三月では秀吉と対面できません。おそらく『真田丸』の通り、昌幸は二月に上洛しています。
むしろ、三月一日に秀吉が九州に出陣するのは既定事項ですので、二月中になんとしてでも上洛せよ、これが最終期限だと昌幸は秀吉からプレッシャーがかけられたのだと考えられます。最終リミットを突き付けられた昌幸は決断を迫られます。
ここで、興味深い書状があります。
「昌幸は二月一日、二十九日と二度にわたって秀吉のもとに書状を送った①が、それに対して二月三十日に秀吉は次の返書を送った。
二月朔日の書状、同二十九日に披見を遂げ候②。よつて家康こと、人質を抛(なげ)入れ、如何様にも秀吉次第の旨、種々懇望候の条、免じ置き候。然らば、信州おのおのの儀も関白の存分たるべき旨に候条、その意を得、矢留③の儀堅く申し付くべく候。猶道茂申すべく候なり。
真田安房守(まさゆき)とのへ」(*5)(下線、番号筆者)
前掲書で、「昌幸は二月一日、二十九日と二度にわたって秀吉のもとに書状を送った」①とありますが、書状の原文「二月朔日の書状、同二十九日に披見を遂げ候」②を素直に読めば二月一日の書状を二十九日に秀吉を見たという話になります。(つまり、二十九日の書状はない。)
昌幸が三月に上洛したという見解が多いのは、この返信の書状を見て昌幸が上洛したということによるものでしょう。しかし、前述したように三月一日以降秀吉は九州征伐に向かっていますので、三月上洛はありえません。また、前の書状では(重要事項として)必ず触れられている上洛要求に関する内容がこの書状にはありません。
この書状ですが、いくら交通事情の悪い戦国時代といっても、信濃の二月一日の書状が大坂に二十九日に届くほど遅いとは考えられず、ずっと前に書状が届いたにも関わらず、秀吉は書状を無視していたのだと考えられます。
なぜ、無視していたのか。おそらく、昌幸の二月一日の書状は上洛へ向けての最終の条件交渉状でしょう。しかし、この昌幸の書状に返信して、それをもって昌幸が上洛したとなると、結局、上洛前に昌幸に条件について言質を与えたこと(しかも書状の証拠付きで)になってしまいます。昌幸に交渉の主導権を与えたくない秀吉は、あえてこの書状を無視し、すべては上洛した後の話だという意思を暗に昌幸に示したのだと思われます。
そして、昌幸が上洛した後に二月三十日付の書状を送ったのでしょう。つまり、この二月一日から二月三十日の間に昌幸の上洛はありました。
この間の二月中旬、北条勢がまた沼田に来攻し、矢沢頼綱は撃退しています。(*6)沼田の扱いは将来的な課題ではなく、真田と北条との現在進行中の戦争の地の話なのであり、まさにその最中の昌幸の上洛であることに注意が必要です。
二月三十日付の秀吉の書状の「矢留」③(停戦)の話も抽象的な話ではなく、沼田を巡る争いについて真田・徳川・北条に停戦を申し渡したという意味です。停戦命令といっても、そもそも沼田を攻められているのは真田ですので、秀吉の停戦命令は昌幸としては願ってもないことです。上洛して臣従した昌幸に対する秀吉の恩恵のひとつとして、この書状があるといえるでしょう。
次回のエントリーでは、上洛後の真田家に対する豊臣家の取り扱い、徳川家の「与力大名」という秀吉のマジック、「豊臣大名」真田家の誕生について書きたいと思います。結果的に上洛の延引の際の昌幸の秀吉に対する条件交渉が後で効いてきて、真田家は豊臣政権下でその値打ちを高め、大名としての地位を得たといえます。
※次回のエントリーです。↓
注
(*1)平山優 2011年、p214
(*2)笹本正治 2009年、p149~150
(*3)笹本正治 2009年、p151
(*4)笹本正治 2009年、p151
(*5)笹本正治 2009年、p152
(*6)橋場日月 2004年、p136
参考文献
笹本正治『ミネルヴァ日本評伝選 真田氏三代-真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房、2009年
橋場日月『知れば知るほど面白い・人物歴史 丸ごとガイド 真田幸村 戦国を生きた知将三代』学習研究社、2004年
平山優『真田三代』PHP新書、2011年