古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

真田昌幸はなぜ、上洛を延引し続けたのか?②

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※前回のエントリーです。↓

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 真田昌幸はなぜ、上洛を延引し続けたのか?①の続きです。

 

1.秀吉の「徳川の与力大名」というマジック 

 

 丸島和洋氏の『真田四代と信繫』平凡社新書より引用します。

 

天正一四年一一月二一日、秀吉は真田昌幸に赦免を通達し、改めて上洛を命じた。秀吉は上杉景勝にも昌幸に赦免を伝えるよう指示している。命令を受けて昌幸が上洛したのは天正一五年三月①のことで、徳川家臣酒井忠次が同席した。これは思わぬ副産物を産んだ。昌幸は秀吉と直接交渉を持っていたため、戦国大名上杉氏に従う国衆として処遇されるのではなく、中央政権に直接仕える豊臣大名になったのである。②上杉家との立場は、基本的に対等なものへと変化した。その上で、家康の与力大名という扱いを受けることになった。秀吉直属の大名だが、戦争時には家康の指揮下に配属されるという処遇である。③

 さらに、昌幸にとって幸運だったのは、秀吉がいったん「沼田領問題」を棚上げすることを承認したらしいということである。これにより、上野沼田には嫡男信幸が入った。真田氏は後に「沼田領問題」の裁定で、沼田領三分の二を北条方に引き渡すことになる。その際、三分の二の替地は徳川家康が用意している。③つまり、信幸を保護する責任者は徳川家康であった。徳川氏はこの後、同盟国北条氏の豊臣政権服属交渉に従事していく。その際、家康が信幸のいわば「後見人」という立場についたことは、真田氏にとって思いがけない僥倖となった。家康は、一方的に北条方の主張を呑む立場ではなくなったからである。昌幸が忌避した徳川与力大名という立場が、かえって真田家に有利に働いたのである。

 ここに昌幸は上田領三万八〇〇〇石、嫡男信幸は沼田領二万七〇〇〇石の豊臣大名として、新たな道を歩み始めることになる。父子合計で、六万五〇〇〇石の大名である。」(*1)(下線、番号筆者)

 

 上記についてコメントします。

 

  ①で「三月」とありますが、前のエントリーで書いた通り、「二月」と思われます。これは三月一日から秀吉は九州征伐に向かっているので不在のためです。

 

  ②のように、上杉傘下の国衆でもなく、徳川傘下の国衆でもなく、昌幸は「中央政権に直接仕える豊臣大名」になりました。これは、真田家の身分保障は豊臣家によって行われるということです。徳川家(あるいは上杉家)の傘下(家来)ということになってしまいますと、その大名が真田家の主家ということになってしまいます。そうすると、主家の判断で気に入らぬことがあった際に、改易等の処分がされる可能性が出てきますし、最悪「上意討ち」などで殺されたとしても、基本的にその「主家家中の問題」として扱われ、不問にされてしまう可能性すらあります。

 

 真田氏が豊臣の直属大名となったことにより、徳川氏が主家として、真田家の処遇を定めることはできなくなりました。昌幸が一番の懸念としていた問題が、この秀吉の措置で解決されたことになります。

 

  ③その上で、真田氏は「家康の与力大名」という扱いを受けます。与力大名とは、丸島和洋氏の説明にある通り、「秀吉直属の大名だが、戦争時には家康の指揮下に配属されるという処遇」です。なぜ、このような処遇にしたかといえば、おそらく豊臣家と徳川家が和睦した際に、徳川に信濃の支配権を認めたためでしょう。信濃の支配権を認めた以上、信濃の国衆である真田家は本来徳川の傘下となるはずですが、昌幸が家康を不安に思いゴネたため、豊臣直属大名として昌幸を扱うことによって昌幸を安心させ、家康に対しては、真田家を「家康の与力大名」という扱いにすることにより、和睦条件の信濃の支配権という約束を守り、徳川の面子を保ったということになります。

 

 しかし、この「家康の与力大名」という扱い、実はだいぶ有名無実なものです。というのは、この後、実際に真田家が「戦争時には家康の指揮下に配属されるという処遇」を受けたことはないのです。その後、最も「戦争時には家康の指揮下に配属される」ことが期待される、豊臣と北条の合戦においては、真田家は前田利家上杉景勝らの東山道を通って攻める部隊に従っており、家康の指揮下に入っていません。北条滅亡後は、後述するように徳川の与力から真田家は外されており、実質的に真田家が「戦争時には家康の指揮下に配属されるという処遇」を受けたことはありません。

 

 一方で、大河ドラマ真田丸』で秀吉が言ったように、家康は自分の「与力大名」が攻められたら「後見人」として、これを守らなければいけません。これは一般論や抽象的な話ではなく、天正十五(一五八七)年二月の段階(昌幸上洛の時期)に、真田家は沼田を北条家に攻められています。沼田の問題は「今ここにある危機」の問題であり、北条が「矢留(停戦)」を破って、沼田を攻めた場合、北条家の同盟大名・縁戚である家康が真田家のために体を張って、北条から沼田を守られなければいけないという話になります。

 

 更に、上記③にもあるように後に「沼田領問題」の裁定で秀吉は、沼田の三分の二を北条家に、三分の一を真田家に引き渡すように裁定を下しますが、その際に真田家が失う所領の替地を徳川に用意させています。

 

 以上を見ると昌幸は、

(1)豊臣家の直属大名の扱いとなった。(徳川家の家来にならなくて済んだ。)
 
(2)「家康の与力大名」という扱いにはなったが、実際には家康の指揮下で戦うことはなく、一方、家康は「後見人」として北条から真田を守らなければいけなくなった。
 
(3)沼田領の三分の二を北条に引き渡す時も、相応の替地を(秀吉の命令により)徳川が支給してくれた。

 

 という条件を勝ち取ったことになります。

 

 昌幸が上洛を延引し、粘り強く豊臣家と交渉を続けた結果、ほぼ、昌幸の望み通りの回答を豊臣家から引き出すことができました。満額回答といっていいでしょう。昌幸は「タフ・ネゴシエーター」と呼ばれてよいと思います。(丸島和洋氏はこれを「思わぬ副産物」「幸運」「思いがけない僥倖」などと評していますが、この結果は偶然ではなく、昌幸が粘り強い交渉を続けた結果の話です。)

 

 上洛後、昌幸は三月十八日駿府に赴いて、家康に挨拶をしていますが、大河ドラマ真田丸』では家康が、昌幸が頭を下げてきたと満面の笑みで迎えています。しかし、実際にはこの条件交渉で最も割を食っているのは家康です。昌幸は頭を下げながら、こんなに真田家にとって有利な条件を豊臣・徳川が呑んでくれるなら、いくらでも頭を下げるわい、と思ったことでしょう。

 

2.なぜ、秀吉は真田家に有利な条件を呑んだのか?

 

 さて、なぜ秀吉は真田家に有利な条件を呑んだのでしょう?この時期、北条家は秀吉に服属していません。最終的に戦いになるかもしれませんし、後に、実際に戦いになり北条家は秀吉に滅ぼされました。豊臣が北条と戦う際に、最も気になるのは、北条の同盟大名・縁戚である徳川の去就です。家康は上洛して臣従したものの、ついこの間まで戦っていた相手、北条と戦うということになった場合に、北条につく可能性はあります。

 

 以前のエントリーでも書きましたが、秀吉に限らず戦国大名の外交術は「和戦両様」です。対北条との今後のパターンとして、

 

(1)北条は臣従、徳川も臣従を続ける

(2)北条とは戦争、徳川は臣従を続ける

(3)北条と戦争、徳川も北条と同盟して戦争

 

の3パターンが予測され、秀吉としてはこの3パターンのどれに転んでも対処できるようにシミュレーションを練らなければいけません。

 

 秀吉にとって最悪なパターンは、(3)北条と戦争、徳川も北条と同盟して戦争ですが、軍事・外交というのは最悪なパターンを予想して、最善な対処をする必要があります。

 

 もし、北条が徳川と結び、秀吉と戦うとしたら、真田を徳川の家来にしてしまうのは危険です。真田は信濃・上野双方に領地を持っており、信濃と上野を結ぶルートである碓氷峠を抑えている形になります。真田を徳川傘下とし、もし北条と徳川(の傘下の真田も含む)が結んで豊臣と戦った場合、豊臣軍は東山道碓氷峠ルートを敵に抑えられてしまうことになり、この方面からの攻略が相当に困難になります。

 

 仮に北条との戦争が始まった場合に、東山道からの交通の要所といえる碓氷峠を抑えるためには、その地の支配者である真田家を徳川の傘下ではなく、直臣大名、絶対に豊臣の味方となる大名としてなんとしても抱え込む必要がある、と秀吉は判断したのだと思われます。

 

 後に秀吉は沼田裁定の際に、沼田の三分の二を北条家に、三分の一を真田家に引き渡すことになりますが、その際沼田の全部を引き渡せと主張する北条に対し、昌幸は「名胡桃(昌幸が主張した三分の一の地一帯)は祖先の墓があるため引き渡せない」と主張します。この昌幸の主張は「明確な嘘」(*2)(祖先の墓などない)ですが、その嘘の主張を黙って秀吉は認めます。これは、上野側に真田の領地があること、つまり碓氷峠のルートを真田が確保すること(北条には確保させないこと)が、秀吉にとっても重要事項だったからでしょう。

 

3.そして、「豊臣大名」へ

 

 天正十八(一五九〇)年三月にはじまった豊臣と北条との戦いは七月、北条氏が降伏することによって終結します。(豊臣と北条が戦う原因となった名胡桃城事件については、書くと長くなりますので省略します。(本当は省略しちゃいけないですが、長くなりますので(笑)))

 

 その後、七月二十六日秀吉は下野宇都宮に到着しました。

 以下、黒田基樹『「豊臣大名」真田一族-真説関ヶ原合戦への道』洋泉社より引用します。

 

「秀吉はここで、関東・奥羽の大名・国衆に対する処置、すなわち没収した北条氏およびその国衆らの領国についての新たな知行割(所領の配分)を実施した。それは新たに制圧した関東・奥羽を羽柴領国に組み込む政策であった。これを「宇都宮仕置」あるいは宇都宮「関東仕置」と呼んでいる。そのなかで二十九日、昌幸についての処置が取り決められたらしく、その内容を秀吉から伝えられた徳川家康駿河大納言)は、この日に、秀吉側に対して承諾の旨を返答している(「水野文書」信補遺上・六九八)。

 具体的な内容までは記されていないものの、その後の変化から考えて、昌幸には本領信濃上田領を安堵し、また嫡子信幸に旧領であった上野沼田領全域を与え、さらに昌幸はそれまで家康に与力として付属されていたが、それを解除して、秀吉直属の「小名」(筆者注:「小名」とは「(従下五位下の位階と相応の官職を称した諸大夫)、領国も一国に満たないものの、自律的な領国支配を展開していたような存在を指したとみられる」(*3)とのことです)とする、というものであったに違いない。ここに昌幸は、秀吉に直属する「豊臣大名」の地位を成立させることになった。」(*4)(下線部筆者)

 

とあります。

 

 また、従来引き続き徳川家康の与力だったのではないかとされる真田信幸についても黒田基樹氏は否定しています。

 

「なお信幸については、関東に領国を持ったことから、引き続いて徳川家康の与力になったとする見解があるが、前著『真田昌幸』でも指摘したように、そのことを示す史料は一つもみられず、また逆に、これからみていくように、豊臣政権への様々な負担は、父昌幸とともに務めていることからも、そうした見解は誤りである。信幸も、昌幸と同じく、秀吉に直属する「小名」の地位を成立させたのであった。」(*5)

 

 そして、

 

「ところで宇都宮仕置により、徳川家康と、昌幸以外の与力大名、それに徳川氏従属国衆は、すべて関東に転封となった。信濃には、与力大名として筑摩・安曇郡小笠原秀政木曽郡木曾義昌、従属国衆として佐久郡の松平依田康国(ただし小笠原合戦で戦死)、諏訪郡の諏訪頼忠、伊那郡の保科正光らがいたが、彼らはすべて家康に従って、関東に転封となった。その結果、信濃の国衆で、信濃に居残ることができたのは、真田氏だけとなった。」(*6)

 

とあり、他の信濃国衆とは違って、いかに真田氏が破格の優遇措置を豊臣家から受けたか分かります。この秀吉の破格の処遇に対する昌幸・信繁の感謝が、関ヶ原の戦いの時に昌幸・信繁が徳川軍に対して上田城で奮戦し、大坂の陣で豊臣家のために信繫が奮闘することに繋がっていくのです。

 

 注

(*1)丸山和洋 2015年、p156~157

(*2)丸山和洋 2015年、p164

(*3)黒田基樹 2016年、p13

(*4)黒田基樹 2016年、p12

(*5)黒田基樹 2016年、p13

(*6)黒田基樹 2016年、p16

 

 

 参考文献 

黒田基樹『「豊臣大名」真田一族-真説関ヶ原合戦への道』洋泉社、2016年

丸島和洋『真田四代と信繫』平凡社新書、2015年