古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ 『真田丸』 第30話 「黄昏」 感想

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※前回の感想です。↓

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 今回で節目の30話の感想を書きます。

 

 秀吉の認知症が続き、信繫と視聴者の不安を引っ張り続けますが、前回と今回と次回とで3回続けるのはあまりにも引っ張り過ぎで冗長ですね。小日向さんの演技は良いのですが、あまりにもドラマとしては小日向さんの演技に頼り過ぎではないでしょうか。(前回で書いた通り、史料的には晩年の秀吉が認知症であった証拠はなく、死の直前(1~2ヶ月前くらい)まで意識は明晰だったと思われます。が、ドラマなのでこうした脚色自体は別に構わないでしょう。)

 

 また、そろそろ関ヶ原の戦いに近付いている訳ですが、これまでのあまりの布石のなさに正直がっくりしています。

 

 第一に、ここまで前田利家が出てきません。出演者は決定していますので、今後出てくるのでしょうけど、『軍師官兵衛』みたいに、いきなり秀吉の死後にぽっと出て、出てきた回の中であっという間に亡くなってしまう展開なのでしょうかね。

 

 前田利家は、秀吉の晩年からその自身の死まで豊臣体制の浮沈の鍵を握った重要人物な訳です。これは秀吉が一番信頼できる親友として、利家に秀頼の後見を託しており、意図的に家康の対抗馬となるように官位等も引き上げて処遇しているためです。五大老五奉行体制といいますが、その中で家康と利家は突出した地位にあり、二大巨頭体制ともいえます。秀吉死後、家康を警戒する豊臣家臣達が利家の下に集うのは自然な流れでした。

 

 ところが、この利家が早くに亡くなってしまうことによって、家康警戒派は結集軸を失って、その死の直後から家康派の怒涛の反撃(七将襲撃事件、前田利長の家康暗殺未遂疑惑事件、上杉征伐・・・)を受けて反家康派は一旦瓦解していく訳です。

 

 関ヶ原の戦いは、この反家康派が再結集した戦いといえますが、この間の家康派の反撃が効いており、西軍はまとまりを欠いて(利家の息子利長は、家康暗殺未遂疑惑事件の際に母まつを家康に人質として差し出しており、東軍につきました。)結局、関ヶ原の戦いの前に崩壊します。(関ヶ原の戦いの前日に、西軍の総大将毛利輝元は家康に密かに降服しており、関ヶ原の戦いとは「既に負けている戦い」なのでした。)

 

 また、毛利輝元五大老の一人ではありますが、結局は、豊臣家にとっては織田時代からの「昔の敵」なのであり、いわゆる「外様」といってよい大名です。(それを言うと家康も同じなのですが、少なくとも家康は秀吉の妹を妻に迎え(関ヶ原の戦いの前には亡くなっていますが)形としては秀吉の義弟です。)このため、輝元を主軸・総大将とする豊臣政権というのも、外見的にいまいち正統性を欠いているように見えるというのも、東軍から西軍に流れる武将がほとんどいなかった理由となっているでしょう。

 

 これに対して利家は、織田時代からの秀吉の親友であり、自分の娘(豪姫)を秀吉の養女としており(この婿が宇喜多秀家)、直接秀吉から遺言として秀頼の後見を頼まれているので立場が全然違います。

 

 ということで、利家が秀吉晩年から死後までの時代の鍵を握る重要人物であることは自明のことで、この時期の豊臣政権を描くならば普通に描写しなければいけないところです。その利家がいまだに現れず、延々と秀吉の認知症シーンで引っ張るというのは、力の配分を間違えているのではないかと思いますし、どうせ秀吉の死後いきなり現れて、あっという間に亡くなり、「誰、あのおじさん?」状態の書き方になるのでしょう。現時点の利家抜きの晩年の秀吉描写で、関ヶ原の戦いに至る流れが非常に薄っぺらいものになる可能性が極めて高いと思われるので、今からがっくりしてしまいます。

 

 第二に、結局これまで、真田家と石田三成との親密さを示す、取次関係や縁戚関係、三成と信幸(信之)の友誼を示す書状などは一切触れられませんでした。(時代考証担当の先生方の著作に詳細に書かれているにも関わらず、です。)多分、今後も描かれることはないでしょう。

 

 1年も尺がある大河ドラマで、これまでこうした真田家と石田家の昵懇な関係を描く機会がいくらでもあり、それを普通に描けば、なぜ真田昌幸・信繁が西軍につき、東軍についた信幸(信之)が三成からの書状を破棄せず、現代に残したか普通に分かるのに、そうした描写は一切描かれませんでした。

真田昌幸・信繁と石田三成大谷吉継については下記をご覧ください。↓

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石田三成真田信之(信幸)の友誼については下記をご覧ください。↓

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 ここまで見てきて思うのは、これは、三谷氏はそういった史実を分かっていてあえて書いていないのではなく、おそらく時代考証担当の先生の本を事前に読まないで脚本を書いているのではないかと思うのですね。

 

 いや、そんな訳ないだろ、でなければ時々妙に(時には最新の学説を反映した)史実の描写が出るんだ、というツッコミがありそうなんですけど、三谷氏のコラムなどを読むと、だいたいこの大河ドラマの脚本のできあがり方が分かります。

 

 まず初稿で三谷氏が脚本を書く→その初稿を、時代考証担当を含めたスタッフが見て直しを入れる→その直しを受けて三谷氏が書き直す(の繰り返し)・・・・・みたいな流れのようです。

 以上の流れは、もしかして脚本の書き方としては普通の流れなのかもしれませんが、これを見て気が付くのは元々脚本家に歴史知識がなければ、時代考証担当やスタッフは、大枠としては直しようがないということです。後から、スタッフ・時代考証担当が細かい直しを入れても、それは細部の部分であり、大枠を直すのは、要は脚本を一から書き直すということになってしまい、そんな暇はないでしょう。

 

 つまり、時代考証担当の手が入るのは、細部で手直しできる部分に限られるのであり、そのため大枠としては史実としてはありえない展開なのに、細かい部分では史実に忠実な妙な脚本ができてしまうのですね。

 

 大枠については、三谷氏が時代考証担当の先生の本を事前に読んで、初稿の段階から脚本に入れないと反映させようがありません。やはり、今までの脚本を見ると三谷氏の資料の読み込み不足(あえて自由に書くために読んでないということも考えられますが)が感じられます。

 

 第三に、最近とってつけたように細川ガラシャの描写がでてきますが、最期はどう描くのでしょう。細川ガラシャの最期の描写を描くには、三成以外の他の三奉行の動きを描かないとよく分からないことになるかと思いますが、このドラマは五奉行のうち、三成の他の奉行は存在しません(出演予定もなさそう)ので、描きようがないと思います。まさか且元にやらせる気じゃないでしょうね?どちらにしても史実と大きくかけ離れた描写になりそうで、今から不安です。ちなみに細川ガラシャの最期の考察については以下に書きました。↓

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 さて、今回(30回)についての感想というか、史実との異同についてです。

 

1.慶長伏見大地震における、「地震加藤」は近年の研究ではフィクションとされていますので、その描写がなかったのは良かったです。

(「地震加藤」・・・(石田三成の讒言で当時謹慎していた加藤清正が、慶長伏見大地震で真っ先に秀吉の元に駆けつけ、感激した秀吉から謹慎を解かれるという逸話)は、近年の研究ではフィクションとされています(謹慎そのものの史実がない(当然、三成の讒言もない))。またその日は、清正は伏見にはいなかったので「真っ先に」というのはちょっと疑問ですし、「地震加藤」のように軍勢を率いて駆けつけるのは反乱とみなされかねず、ありえません。ただ、「真っ先に駆けつけたという」のはドラマとしては許されるでしょう。)

 

2.サン・フェリペ号事件については、以下のエントリーで書きました。キリシタンの被害者を減らすために尽力する三成が描かれなかったのは残念ですが仕方ありません。

 サン・フェリペ号事件及び日本26聖人殉教事件については下記を是非ご覧ください。↓

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3.上杉景勝会津転封の処理に伴い、石田三成は慶長3(1598)年1月会津へ向かっています。そして、5月3日に佐和山へ戻っています。つまり、3月15日の醍醐の花見の時に三成はいません。まあ、細かいことなのでどうでもいいといえば、どうでもいいのですし、別にドラマで三成が醍醐の花見に列席しようとしまいと、ドラマの描写的にはどうでもいい話です。

 

 しかし、この時の三成の「不在」は、いろいろ三成にとっての後の歴史にとって大きいのではないかと思うのですね。後から振り返ってみれば秀吉の最期の年の1月から5月まで京に不在だったというのは、三成にとって不幸だったのではないかと思うのです。

 

 慶長の役(このドラマではほとんど描写がありませんが)の際に、三成がそこから遠い奥州の出張を命じられたのは、三成が慶長の役に関する役目を外されたことを示しています。人によっては、これを「左遷」とみなす人もいるかもしれませんが、左遷ならそもそも五奉行の列から外されてしまっていたでしょうから、左遷という訳ではないでしょう。むしろ、三成を直々に派遣させる必要があると考えるほど、秀吉が上杉景勝の奥州転封をそれほど重視していたことが分かります。(当時の奥州は反乱・一揆の相次ぐ危険地帯で、それを陰で炊きつけているのでないかと疑惑をもたれている伊達政宗の存在があり、その抑えとして期待されたのが上杉転封でした。増封とはいえ、上杉家にとってはあえて火中の栗を拾いに行くに等しく、この転封は豊臣政権にとっては絶対に成功させなければならない大事業だったのです。)

 

 このドラマでは、上杉の会津転封の理由は「家康の抑え」と秀吉が言っていますが、どこまで秀吉にその意図があったのか不明です。(秀吉は遺言で徳川家と上杉家の縁組を指示しています。結局実現しませんでしたが。)

 

 ともかく、三成はこの時期、慶長の役に関する役目を外されています。そして、1月から5月まで奥州へ行っているのです。そして、4月に慶長の役の軍目付が帰国します。

 これについては以下に書きました。↓

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以下、再掲します。

「 慶長の役のときに明・朝鮮連合軍に攻められ、加藤清正蔚山城に籠城します。清正を救援するため、毛利秀元、鍋島直茂黒田長政蜂須賀家政らの軍が救援に向かい、明・朝鮮連合軍を打ち破り、追撃しました。この時の追撃戦(追記:どうも、追撃戦ではなく、その前日(?)の戦いの先手当番だったにも関わらず二人は戦わなかったようです。あと追撃戦そのものが無かったように誤解している書籍もありましたが、追撃戦はありました。)に黒田長政蜂須賀家政が参加しなかったことを軍目付の福原長蕘(石田三成の妹婿)らが秀吉に報告し、長政・家政は秀吉から叱責を受けます。

 

 この事で長政、家政は三成を恨みに思い、後の三成に対する七将襲撃事件の原因のひとつに発展にします。(当時の常識からいえば、「身内の不始末(ではないのですが・・・)は自分の不始末」ですので、妹婿の行いは「石田三成がやった事と同じ」と思われても仕方ありません。)

 

 これが4月の時であり、繰り返しになりますが、この報告を受けた秀吉が長政・家政を叱責したことを、長政・家政が恨みに思ったことが、後の三成に対する七将襲撃事件の原因とされます。(もっとも筆者的には、七将襲撃事件は、徳川派と反徳川派の対立の延長で起こった事件ととらえるべきであり、この叱責事件は七将襲撃事件の「口実」であって「原因」とするのは過大な扱いであると考えていますが。)

 

 この時、「軍目付の報告を受けた三成が、秀吉に報告し」みたいな記載がある著作がありますが、4月に三成は奥州にいますので、三成が秀吉に報告できるわけがありません。福原長蕘らは三成不在の中、自分達の判断(まさか奥州にいる三成に書状を送って、その返事を待つまで秀吉に報告を待ってもらう訳にもいきません)で報告をしないといけませんでした。

 

 そして、彼らは1月に起こった戦を、4月に帰国して秀吉に報告しているのです。つまり、彼らが黒田長政蜂須賀家政をかばって、虚偽の報告をしても既に秀吉には別ルートで戦の状況が伝わっている可能性が高いです。彼らとしては、虚偽報告をしてもばれる可能性が高く、そうなれば秀吉から処罰を受けるだけでなく、縁戚の三成も連坐して処罰を受けかねないような虚偽報告はできなかったでしょう。

 

 この時三成が京にいれば、彼らは三成に相談してもう少し事態が悪化しないように対処をはかることができたかもしれませんが、そのような暇もなく彼らは事実をありのままに秀吉に報告するしかなかったのです。(彼らの報告を、「讒言」と言う人が現代でもいますが、日本語で「事実を報告すること」を「讒言」とは言いません。まあ、「事実を報告すること」を「讒言」と呼ばれる狂った時代なのだとはいえます。事実を報告するのも地獄、虚偽を報告するのも地獄、ということです。)