古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ『真田丸』構成の考察・まとめ (第34話まで)

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※第34回の感想です。↓

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 真田丸も今週で第34話を迎え、このドラマのだいたいの全体の構成がみえてきましたので、このドラマの構成についての考察・まとめをしたいと思います。

 

(※この『真田丸』はフィクションです。これから、史実の人物名を使って考察しますので、「〇〇はこんな人物ではない!」と言われる方もいるかもしれませんが、この考察は、あくまで三谷脚本の『真田丸』の登場人物のことを書いているのであって、史実の人物とは全く違う人物です。ここで書かれる人物は、三谷世界の架空キャラクターだということでお願いします。)

 

1.このドラマのテーマは何か? 

「『義』とはなにか?」ということです。

 

「義」というと、非常に良い言葉のように聞こえます。しかし、実は三谷氏は「義」を全く評価していません。むしろ、これに懐疑の目を向け、登場人物に「それは『本当に、義といえるのか?』と疑義をぶつけていくのが、このドラマの骨格となっています。

 

 そもそも「義」とは何か?このドラマでは、比較的シンプルな回答となります。

「約束を守ること」です。「約束を守ること」、確かに美しいことです。

しかし、実際に約束を安請け合いして、それを守ることができなければ、それは「義」ではない、ただの「ええかっこしい」だ、と叩かれることになります。

 

2.「ええかっこしい」上杉景勝 

 この「ええかっこしい」を体現しているのが、このドラマの上杉景勝です。景勝は、自分を「義」に篤い男だと思っています。思っているというより、「義」に篤い男になるべきだと、義父謙信からの「約束」で自らを課しているのでしょう。だから、義に篤くあるべきだと思っている景勝は、何でも約束を安請け合いしています。なんでも約束してしまうことが、義に篤いことだと勘違いしているのです。

 ところが、約束を安請け合いしても、実際には守ることはほとんどできません。ほとんどの約束は果たされず反故となります。そもそも実行できない約束をすることが、本当に義なのか?それは、ただの「ええかっこしい」に過ぎないのではないか?と三谷氏は疑問をぶつけます。

 

 なぜ、景勝を「ええかっこしい」というキャラクター設定にしたのか?これは、第33回を見て分かります。

 

 第33回で景勝は、自分が家康を討つと三成に「約束」します。しかし、当然その未来の関ヶ原の戦いにおいて景勝は、関東に乱入しておらず、「約束」は果たされませんでした。

 

 景勝が関東に乱入する、あるいは乱入する構えを見せ続けるのが、西軍の生命線だったのです。景勝が関東を攻める気がないのを見て、家康は安心して大軍とともに西へ向かいます。景勝が関東に乱入しなかったのが、西軍が負けた主要な敗因です。

 

 三谷氏は、これを「こんなものは義ではない」と感じたのだと思われます。(史実の景勝がどうだったかというのは、この際置いておいてください。)自分が家康を討つと三成に約束しておきながら(これも史実ではどうかというのは置いといてください)、肝心な時に関東に乱入せず、西軍を結果的に見殺しにした景勝。そして、その後江戸時代には、素直に徳川家に屈し、大坂の陣には徳川方として豊臣家を滅ぼすために戦った景勝。こんな男はただの「ええかっこしい」であり、本当の義ではない、という三谷氏の景勝評であり、このイメージが原型として、「ええかっこしい」景勝というキャラクターが三谷氏によって創造されるのです。

 

3.「義から一番遠い」反面教師・昌幸

 信繫の父、真田昌幸は謀略を駆使して、各大名を渡り歩く謀将であり、「義」から遠く離れた人間として描かれます。生き延びるためなら、かつての同僚すら殺します。こうした「義」から一番遠い、父昌幸に幻滅した主人公は、父を「反面教師」として、「義に篤そう」にみえる景勝を「第二の父」として尊敬します。

 

 これが、ただの「ええかっこしい」にすぎないと分かったあとでも、信繫の景勝の尊敬は幻滅に変わりません。幻滅した「義から一番遠い」父親が「師」とはどうしても思えないのです。それよりも義は果たせずとも、少なくとも義であらんと志している景勝の方がまだ、マシに見えます。

 

 これに対して、上洛した時に景勝が、信繫にひとつの呪いを投げかけます。「お前は、わしのようになるな」と。これは、義を貫けない「ええかっこしい」の自分みたいになるな、お前は「義」を貫けという、景勝から信繫に投げかけられた、「約束」です。信繫は、この「約束」を受け入れます。

 

 このドラマでは、「約束」というものは、「呪い」でしかありません。誰もが勝手に他人に「約束」を押し付け、義に篤いと思っている人間は、その「約束」を受け入れることこそが「義」であると勘違いし、その「約束」を愚直に守り続けようとします。この約束を守り続けようとすること、それが「義を貫く」ことなのだと思う事こと、これこそが「義」の「呪い」です。

 

 信繫は、本来は景勝こそを反面教師とすべきでした。守れない約束を安請け合いすること、そして、それがはじめから分かっていた通り果たせないこと、それらすべて「ええかっこしい」で、それは「義」ではなく、「悪」なのです。果たせない約束だと分かっているなら、はじめからしない方がいいのです。

 

 しかし、信繫は、本来は反面教師とすべき、景勝の「約束」を受け入れ、「義を貫く」ことが自分の使命と感じます。果たすことができない約束をしてしまい、なおかつその約束を守ることが自分の使命と信じ、それを本当に貫こうとする男の先に待っているのは「死」しかありません。景勝との約束を果たすことが、自分の使命であり「義」だと勘違いしてしまった男の運命がこのドラマの枠組みです。

 

4.「勘違い」石田三成

 もうひとり、「義」という「勘違い」を果たそうとする人物が石田三成です。石田三成もまた、「義」という呪いに取り憑かれた男です。

 

 死に瀕した秀吉が三成に言ったことは「家康を殺せ!」でした。主君秀吉に忠誠を捧げてきた三成は、この秀吉の言葉を「遺言」と受け止め、その「遺言=約束」を守ることこそが、秀吉に対する「義」を果たすことと勘違いし、家康を殺すことに固執します。

 

 それは盟友大谷吉継にすら「耄碌した老人のたわ言」を真に受けた「狂った」行為だとしか見られない、ましては全然事情を知らない人には完全に「狂った」行為にしか見えなませんでした。現在の我々は、家康が、秀頼を殺すことを知っていますので、三成が「家康を殺さなければ、やがて秀頼様が殺される」という焦燥を少しは理解できる(いや、それでもほとんどいないでしょう)かもしれませんが、その未来を知っている我々でさえ、このドラマの三成は「狂っている」と思う人が多いでしょう。 

 

5.死に瀕した秀吉の頃の三奉行・四奉行の不在 

 こうして考えると、秀吉の死の直前になぜか三大老、四奉行が不在だったのかが自明となります。はじめ見た時に「NHKも予算も少ないのかな、なんでこんなに人が少ないのかな」と思っていましたが、次回の31回にワラワラと突然新登場人物が沸いてきたのを見て、「あれ、NHKは予算が少ない訳じゃないんだ、だったら前回から出せばよかったのに」と感じたものです。

 

 しかし、三谷氏は、あえて秀吉の死の直前に三大老、四奉行を出さなかったのです。それは、「家康を殺せ!」という秀吉の「約束・遺言」を聞くのが、三成だけという状況に持っていくためです。あと、秀吉の生前に出てくる大老景勝のみ(秀吉の生前に出演しているにも関わらず、死の直前にはいない大老宇喜多秀家との差異に注目)は「家康に何かあれば関東に乱入せよ」という家康を警戒した「約束」を示されます。他の四大老・四奉行はそのようなメッセージを全く受け取っていません。この「遺言」を聞くのは、三成と景勝だけでなければいけません。それは「彼らだけしか、この『約束』を聞いていない」というブラックボックスに彼らを追い込むためです。

 

 だから、三成は孤立するのです。秀吉からの「約束=義」を受け取ったのは自分しかいません。だから、自分の受け取った「約束=義」を果たす行為を、誰も理解してくれないのです。唯一打ち明けた友の吉継にすら(吉継は直接聞いていませんので)「耄碌した老人のたわ言」と切って捨てられます。吉継にすら、切って捨てられるのだから他に信じる者はいないでしょう。

(第34回で三成は清正に耳打ちしますが、その内容は多分この事(「殿下は「家康を殺せ!」と仰せられた。自分が謹慎した(あるいは死んだ)後は、お前が秀頼君を家康から守ってくれ」)でしょう。しかし、この時点では清正は三成の言う事を信用せず、後になってこの事を思い出し、秀頼上洛に至ってはじめてこの「約束」を守ろうとします。)

 

 絶望する三成に唯一理解を示すのが景勝のみです。彼だけは「家康に何かあれば関東に乱入せよ」という、家康を警戒せよという「約束」を三成とは別に、唯一受け取っています。それが故に、なぜ三成が家康打倒に執着するのか景勝のみが理解するのです。

 

 第31回の二人が抱き合うシーン、これはこの世界で、自分達の思い、「約束=義」を理解するものが二人しかいない、という絶望を示しています。

 

6.秀吉の認知症は、信繫・三成の「義」を「勘違い」とするため

 このドラマでは、秀吉の認知症を3回連続で執拗に描きます。しかし、この時期の秀吉が認知症だとする明確な史料はありません。なんで、こんなにしつこく書くのかな?と思ったのですが、これは秀吉の「遺言」は「耄碌した秀吉のたわ言」だとするためです。この「耄碌した秀吉のたわごと」を信繫と三成は「約束」と勘違いし、これを守るのが「義」だと勘違いするための設定です。

 

 こうして、秀吉の認知症とすることで、秀吉の「遺言」を守ろうとする2人を「お前らが守ろうとしているものなんて、認知症の老人のたわ言に過ぎないんだよ」と「勘違い」にしてしまうのが三谷氏の狙いです。「義」への懐疑をテーマとするこのドラマにおいて、秀吉の「遺言」「約束」は「認知症の老人のたわごと」でなければいけません。

 

7.三成は「コミュ障」というクッション

 三成は「コミュ障」というのは、近年(主にゲーム発信ですね)になって作られたフィクションに過ぎません。しかし、三谷氏はこの現代のイメージを、このドラマではうまくクッションに利用できることに気が付きました。

 

 ごくごく普通の男が、秀吉の遺言によって、「義」に目覚め、「遺言」を絶対の命令と固執して狂ってしまうというのは、さすがにホラーで、ダークでドン引きでしょう。実際には、このドラマの三成は(三谷氏視点からいって)「狂っている」のですが、狂ってしまった人間をそのままストレートにTVに出してしまうと鬱なドラマ、あるいは人格が急変する不自然なドラマにしかなりませんので、近年流布している「三成は『コミュ障』」設定を利用して、三成の「自分の『義』を誰も理解してくれない」狂気を、「あれは元々、ああいう変な奴だから」というエクスキューズに変換することによって、「別に、気が狂った人物を描きたい訳じゃないですよ」という風にクッションを入れているわけです。それを見ることによって、三成の狂気も、「ああ、空気読めない奴が馴れないことをして空回りしている」に過ぎない「あるあるドラマ」に卑小化することができ、あまり深刻にならずに見ることができます。笑いもとれます。その「卑小化」こそが三谷氏のねらいです。

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8.三谷氏の「惣無事」の「勘違い」

 三谷氏は「惣無事」をやたら連呼します。(正確には「三成に連呼させます。」)これは、三成が「惣無事」主義者だと三谷氏が解釈しているからだと思われます。これは、三谷氏は単純に「惣無事」そのものの解釈を間違えているからです。

 

 ドラマの説明を見ていると、「惣無事」というものを、三谷氏は「AとBがいがみ合っている。→そこへ、秀吉が喧嘩の仲裁に入り戦争をやめさせる→結果、平和=平和主義」というものだと勘違いしているのだと思います。(あるいはあえて曲解している?)だから、「惣無事」主義者=「平和主義者(なるべく戦争が起こらないのが望み)」=石田三成というのが、おそらく三谷氏の見解です。だから、三谷世界では、三成は「惣無事」に反するからと、北条攻めに反対するのですね。

 

 しかし、「惣無事」というのは、そんなものではありません。「1.まず、大名同士(AとB)の争いを一般的に禁ずる。2.ただし、大名Aとそれに本来従属すべき非大名Bの戦いなら認める。(それを決めるのは秀吉だ。)3.禁じた命令を守らないならば、守らない方を秀吉が踏みつぶす」というもので、はじめから(いざとなったら当然戦争する)秀吉の強大な軍事力を背景にしたものであり、秀吉の命令に従わないものは、戦争で踏みつぶすのが「惣無事」です。北条攻めは「惣無事」そのままです。だから、三成が(三谷氏誤解のではなく、本来の)「惣無事」主義者なら、北条攻めに反対する訳がありません。

 

 なんで、こんなことを長々と書くと、たぶん三谷さんは、三成を「惣無事」主義者=「平和主義者」と描きたいのだと思うのですよ。これは、別に三成のことを評価している訳ではありません。三谷氏は、自分(三谷氏)の誤った(あるいは曲解した)「惣無事」観に基づき、「惣無事」=「平和主義者」であるはずの三成が天下に大乱を起こしてしまった、という皮肉を書きたくて仕方がないのではないかと思われます。(実際には書かれないことを祈ります。)三谷氏にとって、こういう皮肉は大好物でしょう。

 

9.登場人物達への冷たい眼差し

 三谷氏は、登場人物に対して冷たい目を向けます。この西軍の人物は、みな「義」を唱えおかしくなっていくからです。三谷氏としては、「義」ってそんなに大切なもん?お前らバカなん?と史実の人物に懐疑の眼差しを向けているのです。

 

 景勝は、「ええかっこしい」で結局「約束」を守れない人間であって実際には「義」ではありません。

 

 三成は、「耄碌した老人のたわ言」を「約束=義」と勘違いし、誰も理解してくれない「義」を貫こうとして、暴走し、親友にすら見捨てられ、自滅する「『義』に狂った男」です。(ここから、あえて狂った三成につく吉継の「友誼」は、かえって三谷氏すら、うち消せないものになりますが、それをどう描くかは今後の話です。)

 

 では、その側に居続けた主人公信繫は、どうなのか?本来、景勝は「自分にできない『約束』はそもそもするものではない」という反面教師だったのですが、信繫は、それを認めず、「景勝殿にできなかった『義=約束』を自分は貫く」という斜め上の理解になってしまいました。

 

 また、秀吉の死後、信繫が三成の側に居るのは「佐吉を頼む」と秀吉に言われたからでした。これは侘しいです。形見分けの時は「お前は誰じゃ」と言われ、遺言のときは本来秀吉が頼みたいはずの直接「秀頼を頼む」ではなく、「『秀頼を頼んでいる』佐吉を頼む」に過ぎないなのです。自分なら泣いちゃいますね。しかし、信繫は律儀に「秀吉との約束」を守ります。そこで、三成のサポートに移るわけですが、結局まったく役に立ちません。それは、そうです。三成の「狂気」を信繫は共有していないからです。

 

 このドラマに本来は、島左近は不要です。三成の「狂気」を景勝以外誰も理解しない、主人公の信繫も理解しないというのが、このドラマの本来の前提なのです。

「狂った」三成は、誰からも理解されないまま、暴走し、空回りして、裏切られ、自滅して当然の最後を迎えます。(唯一理解した景勝にも最終的に約束を破られます。)

 

 これは、三谷氏の三成に対する冷ややかな視線、「お前の『義』など勘違いに過ぎない」という断罪です。思えば、三谷氏は秀吉を悪辣な男として書いてきました。別に、三谷氏に限らず、正直現代において秀吉というのは、性格残忍な悪辣な男、人たらしサイコパスとしての印象が一般的です。このドラマにおいて「秀吉政権」というのは「悪」に過ぎません。その「悪」の秀吉政権に忠義をつくす三成も、結局は、そもそもの「悪」であり、それを「義」と勘違いしている男に過ぎないのです。

 

10.「悪」の政権・秀吉政権、三成の「義」への三谷氏の懐疑

 このドラマでは、秀吉の残忍な所業を、延々と描きます。ただ、そもそも秀吉のやっていることなんて本当に残忍な所業の連続ですから、ただ羅列するだけで、そのまま自然に残虐な所業になってしまいます。さすが、秀吉、ラスボスです。聚楽第落書事件、北条攻めの約束違反(これは江戸時代の史料にしかなく、当時の資料にはありませんが)、「唐入り」の凄惨(むしろ各方面への配慮からか、この描写は薄目です)、秀次切腹事件、秀次妻子の虐殺、26聖人殉教事件・・・・・・。

 

 この、ドラマが従来と違うのは、晩年の秀吉が耄碌して「おかしくなった」のではなくて、「昔から」彼はこうした残虐な恐ろしい人物だと描いているところです。この分なら、この秀吉は死ぬまで耄碌しないだろうと思っていたら、上記6.で書いた三谷氏の設定上の都合で秀吉は認知症になってしまいました。

 

 また、三谷氏は、三成について①聚楽第落書事件で命がけの諫言をさせたかと思えば(これはフィクションです)、②(三谷氏の曲解している)「惣無事」に反するとして、北条攻めを反対させたりする(これもフィクションです)一方で、史料に残っている③「唐入り」反対、④秀次事件で秀次家臣達を匿う、⑤26聖人殉教事件で被害者が少なくなるように尽力するエピソードは無視しました。特に⑤なんて、あまり真田家のエピソードに関係ないものを取り上げたにも関わらず、そのエピソードをスルーしたのは違和感を持ちました。

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 単純に三谷氏が③~⑤のエピソードを知らなかったと考えるのが自然ですが、三谷氏は、おそらく①のエピソードだけで(といっても三谷氏のフィクションなのですが・・・・・・)、三成が「諫臣」であるというエピソードは十分と考えたのでしょう。(②のエピソードは、8.で書いたとおり「惣無事」=「平和主義者」であるはずの三成が天下に大乱を起こしてしまった「皮肉」を描く前フリです。)

 

 あれだけ、秀吉に諫言を繰り返す三成という人物はそもそも秀吉とは本質的に相いれない人物なのではないか?いつも残虐な行為をする秀吉の、その尻拭いをしなければいけない、いつも誅殺の可能性に怯えながら、命がけの諫言をしなければいけない、そんな人間が、暴君秀吉が死んだら、忠義どころか、むしろ「暴君は死んだ!あとは自由に生きるぞ!」という発想に普通はなります。

 

 三谷氏は、「お前が本当の『諫臣』で、自分が『諫言』していることに、自分の強固な意思をもっているならば、むしろ秀吉が死んだら、お前は秀吉を見限り自由に生きるべきなのではないか?お前の『諫言』とやらは、本質的に秀吉の否定だろ?」と考えたのかもしれません。本質的に秀吉を否定している性格のはずの三成が、(三谷エピソードでは「耄碌した老人のたわ言」を信じ、)豊臣を守るのを「義」だと叫んでいるというのは、三谷氏にとって、三成のその「義」は、ただの「勘違い」・「感傷」に過ぎないと切って捨てるべきものであると考えているのかもしれませんね。まあ、そこまで三谷氏は考えていないかもしれませんが。

 

11.共依存真田信繁

 視聴者の意見で、「信繫の秀吉に対する感情は認知症の哀れな老人を介護していて、次第にそれが同情に転じているようで、とても『義』にはみえない」という感想をよく聞きます。正解です。三谷氏は意識的に、信繫の秀吉への「同情」が「義」だと、信繫自身が勘違いしているように描いています。信繫もまた「勘違い」男なのです。

 

12.信繫の「小田原開城交渉」は不名誉な行為

 信繫が小田原開城交渉をしたというのは、フィクションであり、そのエピソードを描くために黒田官兵衛の存在を消去したのは、一部で批判されました。(つーか、私も批判しました。)

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 しかし、この三谷ドラマにおいては、小田原開城交渉は、別に名誉でもなんでもない行為なのです。氏政は、信繫の説得もあって、小田原を開城し降伏します。しかし、そこで出た秀吉の命令は氏政の切腹と北条氏の改易。信繫は、所領安堵(といっても相当減封されるでしょうが)、北条氏の家名が生き延びるように交渉しています。これが最終的な秀吉の結論通り、北条氏の滅亡、氏政の切腹がはじめから条件であれば、むしろ、どうあがいても北条氏は助からない訳ですから、氏政にとっては降伏よりも戦って死ぬ方が名誉です。

 

 信繫は氏政を騙すつもりはなかったのですが、結果的に騙す役になってしまいました。三谷氏にとって、この小田原開城交渉は「汚れ役」であって、決して名誉なものではないのです。信繫に「汚れ役」を押し付けることによって、何らかの感情(「降服するのは必ずしも名誉ではない」かな?)を信繫に生み出すのが、このエピソードの役割です。

 

 三谷氏にとって、この小田原開城交渉は名誉な役ではなく、信繫になんらかのトラウマを植え付けるエピソードですので、当初から出す予定のなかった黒田官兵衛を、わざわざこの不名誉なエピソードのために特別出演させる気はなかったのかもしれません。

 

13.昌幸の凋落

 信繫の父、真田昌幸は、このドラマでは「最も義から遠い男」で、第一部では情報を駆使し、謀略を使って各大名間を渡り歩きます。しかし、第二部では、突然三谷氏の作為により、情報からも謀略からも程遠い無能な時代遅れの人物に成り下がります。

 

 最初は三谷氏の歴史的無知によるかと思ったのですが、そうでもなく意図的なもののようです。(ただ、実際にドラマを見ていると、三谷氏が「与力大名」とは何か、全く理解していないことが分かります。(おそらく時代考証担当が)三成の台詞を使って「与力大名」を解説させているにも関わらず、昌幸はその後でも「家康の家来とは・・・・・」と、まだ理解していない模様でした。これは、昌幸が理解していないのではなく、三谷氏が理解していないのですね。

 昌幸が上洛を延引し続けたのは、まさに「家康の家来」になることを拒否するためです。それで秀吉政権が家康と昌幸の両方の顔を立てるために考えたのが「家康の与力大名(主君は秀吉になり、家康の家来ではありません)」という条件でした。しかも、この条件(家康のための軍役)は一度も発動されないまま、北条攻め後、真田は与力を解除されます。「与力大名」の意味を昌幸が知らない訳がありません。「与力大名」となって秀吉の直接の庇護を受け、家康の脅威を防ぐのが昌幸のまさに上洛延引交渉の目的だからです。 

「家康の家来」になるということは、昌幸に恨み重なる家康によって、いつ何時、暗殺や上意討ちされるか分かったものではない事態になるのですね。そもそも、昌幸は家康によって室賀正武に暗殺されそうになっているのです。家康の家来ということになると、昌幸粛清は家康家中の出来事として、秀吉もノータッチで闇から闇へ葬り去られかねません。真田家にとって、家康の家来になることは屈辱とかではなくて、生命、家の存続の危機だったのです。

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 ちょっと、脱線しましたが、このドラマにおいて、昌幸が第二部において情報に疎い時代遅れの無能な男に凋落するのは、つまりは関ヶ原合戦においての昌幸の決断(西軍に付く)ことが「愚行」であるとするためです。

 

 信繫は、秀吉の遺言とかのしがらみで「義」という勘違いで西軍(三成方)につくことは解説しました。しかし、「義から最も遠い男」昌幸が西軍に付くことには新たな解説が必要です。

 

 ここまでの流れでは、昌幸は「狂った」味方の少ない三成方についた方が、乱世が深まる、そうすれば、戦によって自分の取り分が増える、そうすれば、自分の夢・野望である武田の旧領(甲斐・信濃)の回復(といっても真田が支配する訳ですが)も達成できるという発想で西軍につくことになります。

 

 このドラマの三成は弱すぎて、とても勝てるようにはみえませんので、まさに昌幸の「夢・野望」は時代がみえない、情報がみえない、時代遅れの男の自業自得の「愚行」として描写されることになります。そこに三成への「義理」は当然ありません。

 

14.なぜ、石田三成と真田家との「縁戚・取次」関係、三成と信幸(信之)との友誼は描かれない?

 これは、はじめから非常に疑問だったのですが、第33回を見てようやく分かりました。このドラマの第一部を見ると、時代考証担当から詳細なレクチャーを三谷氏が受けていることが分かります。その中で、時代考証担当がその著作で詳細に書いている石田三成と真田家との昵懇な「縁戚・取次」関係が完全にスルーされているのは、私は、これもまた三谷氏の歴史的知識の無知だと思っていたのですが、考えてみればそんな訳がありません。この、石田三成と真田家との「縁戚・取次」関係は、本来は「なぜ、昌幸・信繁が西軍についたのか」のか、大きな核の理由となる史実な訳です。当然、時代考証担当が三谷氏にレクチャーしなかった訳がありません。

 

 三谷氏はレクチャーを受けて、あえて、ここら辺のエピソードを無視したのです。これが、ドラマでこうしたエピソードを詳細に描いた上で、犬伏で昌幸に「わしは、三成のために西軍につくのではない。己の野望のために西軍につくのだ」と言わせたらどうでしょう。視聴者の中には、「昌幸はなんだかんだ言っても、石田家、大谷家との義理で西軍についたんだな、このツンデレめ」と誤解する人が多く出て来るでしょう。

 

 あくまで、「最も義から遠い男」昌幸は、己の野心・時代遅れの夢のために、自業自得の愚行として西軍につく、という三谷氏のストーリーを誤解の余地のない行為として示すために、石田三成と真田家との「縁戚・取次」関係は、三谷氏にとっては絶対無視して抹消しなければいけないエピソードだったのです。

 

 愚鈍な昌幸・信繫とは違って、時代を正確に見渡している、賢い長男信幸にとって、信幸と三成の友誼は、三谷氏が規定した信幸の人物像に全く必要ないエピソードですので、当然無視します。

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15.家康の「不義」の不問

 ここまでのドラマの展開から見ると、三谷氏の史観は「豊臣家滅亡自業自得史観」というものに基づいているのが分かります。

 

 これは確かにごもっともなのかもしれませんが、これを強調しすぎると結局、家康の「不義」を擁護することになります。

 

 何が、「義」なのか?これは「正義」「道理」とは何なのか、という際限のない話になります。結論は出ないでしょう。ここで「義」の儒教的定義について延々と論争してもきりがありません。

 

 これに対して、「不義」は逆に分かりやすいです。

 

「義を見てせざるは勇なきなり」という有名な孔子の言葉があります。確かにごもっともです。でも、なんで正しいことをするのに勇気が必要なんでしょう?なんの抵抗もなければ簡単ですよね?孔子は乱世に生きた人物なのです。つまりは乱世には不義がはびこっていた。これをただそうとしても、不義の人物ほど実は強大な力を持っている。これをただすためには、時には死を覚悟しなくてはいけないかもしれない。だから義をもって不義をただすには勇気が必要なんです。

 

 家康は「不義」か?現代に生きて過去を知っている我々にとってこれは自明のことです。もちろん「不義」です。豊臣家の大老である(つまりは豊臣家の家臣である)家康が、主家豊臣家を滅ぼすのは「不義」、秀吉から後見を託された子秀頼を殺したのは「託孤殺し」で「不義」、孫の千姫と婚姻させた義孫秀頼を殺したのも「不義」、残念ながら家康のやったことは「不義」の大罪であり、未来永劫その汚点はぬぐえません。どんな言い訳を重ねても実際にやってしまったことはどうしようもないのです。これを「不義」と呼ばなければ、そもそも「不義」という言葉そのものがなくなってしまいます。

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 こうした大罪を信長や秀吉ですら、恐れていたのです。信長は将軍足利義昭を追放しましたが殺していませんし、秀吉は織田家の次男信雄を改易にしましたが、殺していません。三男信孝は、切腹に追い込みましたが次男信雄がやった形にしています。本来の後継者信長の孫秀信も岐阜の大名として豊臣時代は存在しています。

 残虐といわれる信長や秀吉すらやっていない「不義」の大罪を家康は行いました。ここで、別に家康を私は糾弾したい訳ではないです。結局「義」も「不義」も当時の価値観にすぎません。ただ、「義」というものを論ずるならば、「不義」もまた論ずることは避けられません。

 

 実際のところ、当時(秀吉死後、関ヶ原の戦い前)の人間たちは、しばらくは家康が「不義」だと確信していませんでした。関ヶ原の戦いまで西軍の主要人物達は、実は家康の内心が「義」か「不義」なのか(豊臣政権の「護持」か「打倒か」)、反家康急進派とされる三成すらも含めて、判断に迷っていたのです。

 

 家康詰問事件の前田派と徳川派の最中の慶長四(1599)年二月九日、三成は伊達政宗を茶会に招いています。この時期は、反家康派の急先鋒(このイメージすら、関ヶ原の戦いを知っている後世の人達の思い込みかもしれませんが・・・・・)とされる三成すら両派の和解に動いていました。

 

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 七将襲撃事件で三成が謹慎後、石田家も家康の命令で、(家康暗殺疑惑で詰問された)前田利長攻めの準備のために出陣しています。(この辺、三成が出陣したという記述のある史料があるのですが、謹慎中の三成が出陣したとは正直疑問に思うので、三成の兄か長男が出陣したのが誤って伝わったのではないかと思いますが・・・・・)しばらく、石田家は「大老」家康が仕切る「豊臣公議」に従っていたのです。

 

 それが、結局なぜ西軍諸将が立ち上がり、関ヶ原の戦いになるかといえば、それはその後の家康の横暴があまりにも酷かったからです。

 具体的には、

①家康暗殺未遂疑惑事件で、前田利長を屈服させ(暗殺の疑いを晴らすために利長の母(まつ)を家康の人質に出しました。家族を主君に人質に出すこと自体は、当時としてもよくあることです(というか基本的に秀吉は各大名の家臣を人質にとっていました)が、それを、豊臣家の家臣である家康の地元の江戸に出させるのは異常事態でした)、

②宇喜多家の御家騒動に介入し、

③毛利家における毛利秀元の所領配分に介入します。

 こうしてみると、まず大老前田家を屈服させ、次は他の二大老の内部事情に介入し「仲裁」を口実に彼らの力を削ごうとしている家康の動きがみえます。

 そして極めつけが、残る一大老を「征伐」しようとする④上杉征伐です。

 

 しかし、この④上杉征伐準備まで、お人よしの西軍の面々は、家康に豊臣家に対する叛意はあるのかないのか分からないと決めかねていました。(宇喜多騒動の介入、毛利秀元の所領の「仲裁」自体は、大老の役目としては認められることです。けれども、いずれの裁定もその大名の力を削ぎ、弱めるような裁定でした。ただ、別に「役目」としては認められるので、これだけで家康に叛心ありと決めつけることはできません。)

 

 しかし、上杉征伐の強行で、ようやく家康の目的が、家康が他の四大老を潰し、天下の実権を握ろうとする意図であることを四大老、三奉行も気が付きました。

 まさに『注文の多い料理店』で猟師たちが「壺の中の塩をたくさん(筆者注:自分達の体に)よくもみこんでください」という段階になるまで、彼等は確信を抱けず決めかねていたのです。しかし、まあ、ここまで総合的に見せつけられると、家康が他の四大老を潰し、天下の実権を握ろうとするのはバカでも分かるでしょう。

 

 ということで、さすがにお人よしの西軍の面々も立ち上がりましたが、その頃には西軍ははじめから結束力がなくガタガタであり、総大将毛利輝元の無能、怯懦が原因で崩壊することになります。

 

 脱線しましたが、つまりは西軍が「義」とされる場合は、まさに現代からの視点で、家康が秀吉から託された秀頼を殺すという、擁護のしようない最大の「不義」を家康が犯し、家康が「不義」だということが自明だからなのです。「不義」を討つのは「義」であり、そして「義を見てせざるは勇なきなり」です。西軍が「義」か否かを問うには、家康の「不義」は当然問われます。

 

 しかし、今作は、西軍の「義」への懐疑が主なテーマです。三谷氏が家康擁護者という訳ではないでしょうが、西軍の「義」を疑問視するためには、家康の「不義」はぼやかされ、相対化され、不問とされなければいけません。

 

 すでに第33回の段階で、三谷氏の西軍の「義」への懐疑・否定への傾向は伺えます。秀吉の「たわ言」を信じて、一方的に家康を敵視し、殺そうとする三成を守るため、家康を守ろうと武将達が集まるのを見て、「これは天下が取れる。三成がそれを気付かせてくれた。三成のおかげじゃ」という感じのセリフを言います。

 

 こうした、三成が一方的に家康を敵視し、暴走したがために、三成が本来成し遂げようとしたかったこととは全く正反対の効果を引き出して(はじめは天下取りの野心を持っていなかった家康が、一方的に敵意を持つ三成に対抗しているうちに、それまでは持っていなかった天下取りへの野心を(三成に引き出されて)明確に持つようになる)失敗し自滅するという「皮肉」なストーリーは、三谷氏の大好物ですので、よろこんでこういう展開にします。

 

 つまりこれは、はじめは家康が天下を取る気はなかったが、三成が一方的に敵視して仕掛けてきたから、それに対抗しているうちに、天下を取る気になった、という「相手が仕掛けて来たんだから、それに対抗しただけだ。相手が悪い。私(家康)は悪くない!」という家康擁護の典型的な「徳川史観」ですね。

 

 三成の家康暗殺計画そのものが、徳川時代に書かれた徳川よりの二次史料にしかなく、しかも一次史料の流れを見ると、最低でもドラマのような流れになるわけがないのですが、三谷氏は自分の描きたいストーリーを書くためならば歴史を捻じ曲げます。今回は、自分の描きたいストーリーを補強するのに使える二次史料(『当代記』)があったので使っていますが、この二次史料にすら、「うわさ話」としか書かれていません。

 詳細は下記エントリーをご覧ください。↓

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 今後の流れでは、家康は少なくとも豊臣家は存続されるように願っていたが、淀殿が非常識な言動を繰り返し、家康は本当は大坂の陣などしたくなかったのに、「仕方なく」戦をはじめ、「仕方なく」秀頼を殺す、という「豊臣家滅亡自業自得史観」に基づいた展開になる可能性が高いと思います。(あくまで予想で、予想が外れることを祈っています。)

 

 江戸時代には御用学者によって作られた、豊臣家の自滅は当然、神君家康公は悪くない、という資料はたくさんありますので、今後は、三谷氏は補強する史料に困ることはないでしょう。

 

 しかし、ですね。家康というのは「天下人」で自立した明確な意思を持ち、強大な力を持った「大人」です。はっきり言って、やってしまった歴史的事実は、もうどうしようもないのです。信長・秀吉ですら当然生き残らせるとそれだけのリスクがあるにも関わらず、それだけは避けていた行為をやってしまった以上、これは最大の「不義」と言われても仕方ありません。

 

 彼は、相手の行動に受動的な反応していたらこうなってしまったんだ、彼の意思じゃない、相手のせいだ、って擁護するのは、擁護しているように見えて、実際には家康を主体的な意思を持ってない、その力もない、相手の行動に受動的に反応しているだけの「ただの馬鹿」だと愚弄しているのと同じです。ちゃんと家康を主体的な意思決定を持って主体的な行動をする、それができる絶大な力を持った「天下人」「大人」として評価することが、家康の正しい評価になるでしょう。

 

16.まとめ~「徳川史観」の立場から、敗者の「西軍派(信繁・三成ら)」の「義」への勘違いを同情するストーリー 

 三谷氏の史観は「豊臣家滅亡自業自得史観」であり、滅亡するのが当然、自業自得「豊臣政権」にあえて、「義」を唱えてつこうとする信繫・三成らに、お前らの、その「義」とは本物か、ただの「勘違い」ではないかと、懐疑を投げかるのが、このストーリーの骨格といえます。

 

 しかし、三谷氏自身は気が付いてないのかもしれませんが、三谷氏がベースとする「豊臣家滅亡自業自得史観」そのものが、現代の我々が刷り込まれている、従来からの「徳川史観」に基づくものです。

 

「徳川史観」というのは、家康の「不義」を免罪するために、「関ヶ原の戦いは奸臣石田三成による反乱、豊臣家の滅亡は淀殿の暴走による自業自得の自滅、だから神君家康公は悪くない、悪いのはあいつら(三成・淀殿)」という徳川政権の擁護のための政治的ストーリーであり、「史観」というと聞こえはいいですが、要は歴史というより「徳川イデオロギー」「プロパガンダ」なんですね。ところが、時の徳川政権が長々と、これが「正しい歴史」だと刷り込んできた訳ですから、現代にいたるまでその刷り込みがなかなか抜けない。

 

 いや、もう徳川幕府が滅んで150年近くも経つんだから、現代の我々はそんな「徳川史観」から自由だろ、と言いたくなるかもしれませんが、実際にはそうではありません。なぜなら、歴史というのは史料に基づくものだからです。だから、江戸時代の史料や逸話は基本的に「徳川史観」に基づいていますので、その史料を使って歴史を描くとそれはそのまま「徳川史観」になってしまう。いくら、現代の我々が客観的に史料を見ているつもりでも、そもそもの江戸時代の史料そのものがほとんどすべて「徳川史観」のフィルターを通したものなんで、逃れようがないのです。

 

 幸いにも、関ヶ原の戦いの前までの豊臣時代の一次史料は当然「徳川史観」には汚染されていませんので、一次史料を分析することによって、「徳川史観」に汚染されていない豊臣時代の実像を構築することが可能なのですね。近年この時代の歴史研究は飛躍的な進歩を遂げており、従来の「徳川史観」に基づいた豊臣時代観、関ヶ原の戦い等は根本的な見直しが進んでいます。

 

 しかし、こうした近年の歴史研究の成果をスルーして、三谷氏は従来からの「豊臣家滅亡自業自得史観」「徳川史観」に基づいて、彼らの「義」に対する懐疑をテーマとするストーリーを構築してしまった。その上で、三谷氏は「勘違い」にあがく信繫・三成に対して同情的な視線を送っている。ある意味、こうした「勘違い」にあがく人間こそが人間らしい人間なのだ、というのが三谷氏の視点なのでしょう。けれども、三谷氏は新しいことをやったつもりだったのでしょうが、全く新しくない。旧態依然に戻ってしまった。

 

 近年、従来の「徳川史観」に反して、西軍の石田三成直江兼続上杉景勝)・真田幸村ら西軍諸将こそは「義将」であるという、なんか彼らの「義」を称えるようなブームが起きているんですね。これは実の所、歴史ゲーム発信なんだと思いますが。この、ゲーム発信の西軍を「義将」と称えるブームそのものに、三谷氏は懐疑を抱いているのだと思います。だから、この「義」にたいして、懐疑を抱くストーリーを作ることが「新しい」視点だと思ってしまった。しかし残念ながら、そうした西軍の「義」の否定というのは、徳川時代に「徳川史観」に基づいて延々とやられた従来の見方に過ぎないのです。

 

 三谷氏は、西軍の「義」への懐疑が新しいと思ってしまったが、それは、ただ単にぐるっと回って、江戸時代の「徳川史観」に先祖返りしてしまい、カビの生えた古臭い歴史観に戻ってしまっただけなんですね。だからまったく新しくない。

 

 ただ、旧態依然としたストーリーというのは、それなりに安定していますので、これはこれで良い、という方もいるでしょう。視聴率も悪くない。ただ、多分三谷氏はこのドラマで色々と新しい試みをしようと模索し、全く新しいドラマを構築しようと意欲を見せていたように見えるので、三谷氏が当初目的としたところとは別の地点に着地してしまったのではないかと思ってしまうのです。

 

※第35話のエントリーです。↓

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