古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「徳川家康暗殺未遂疑惑」について、ちょっと思ったこと。

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 最近、物を書く気力が続かず、更新が滞り気味です。なので、あまり堅く構えずに最近気になったことをメモ代わりに思いつくままに書きていきたいと思います。(前書いていたことと、かぶるかもしれませんが。)

 

 それで、表題の「徳川家康暗殺未遂疑惑」についてな訳ですが、別に三谷氏が大河ドラマで「新発見」するまでもなく、以前から、秀吉の死後より石田三成徳川家康の暗殺を企てた「とされる」とか「いわれる」という記述は、この時代の歴史関係の一般書にはよくあるのですね。

 

 要注意なのは、歴史関係(に限りませんが)で、書籍で、この「とされる」とか「いわれる」とかいう記述は、要は書いている著者自身も確信がつかめない、史実なのか自信が無い」という意味なのです。(この指摘は書いている自分にも跳ね返ってきますが・・・・・。)

 

 酷い記述(といっても一般書だとよくあるのですが)になると、「とされる」とか「いわれる」とだけ書いていて、そう推測した根拠史料の記述がないこともあります。そうすると、読者の側でその根拠となった史料を推測しないといけず、しかし結局よくわからないことも多いです。研究者の方には、難しいかもしれませんが、「とされる」とか「いわれる」という記述はなるべく避けていただき、やむを得ない場合はその推測をした根拠史料を提示していただきたいと思います。そうしないと、読者が調べ直すのに非常に大変です。(調べ直してほしくなんてない、ってことなのでしょうけど。)

 

 さて、今回は時代考証担当の先生のおかげで元ネタが江戸時代の姫路藩松平忠明徳川家康の外孫)の著した『当代記』であり、その『当代記』にすら「物言(噂話)」としか書かれていないことが分かり、三谷氏の「新発見」とやらは、客観性に疑問のある元史料からすら逸脱したデタラメだということが判明しました。

 

 実は、この事件の他にも江戸時代の二次史料によれば、三成による「徳川家康暗殺未遂疑惑」事件はあったと「される」のですが、結局全部根拠のない風聞にすぎず、三成による徳川家康暗殺計画」など存在しなかったと私は考えます。

 

 なぜなら、実際にこの時代には別の「徳川家康暗殺未遂疑惑」事件が発生しているからです。それは、石田三成によるものではなく、前田利長浅野長政らによる「徳川家康暗殺未遂疑惑」事件です。現代ではこの疑惑は「濡れ衣」(つまりは、前田利長らは徳川家康暗殺など企てていない)だという見解が多いのですが、それでも疑惑を持たれた浅野長政は配流となり、前田利長は実母を江戸に人質に出さなくてはならなくなりました。

「疑惑」だけで、家康サイドは疑惑を持たれた側をこれだけの窮地に追い詰めることができるのです。石田三成が本当に暗殺を企てていたならば、当然家康はこの機会を逃さず三成を窮地に追い込み処分していたたでしょう。そうした史実が一切ないことが、三成が家康暗殺計画など実際には企てておらず、すべては風聞(というより徳川サイドが流した自作自演のデマ)だという何よりの証拠となるでしょう。

 

 三谷氏も自分で書いていて、これはおかしいと思ったのか、なんと七将襲撃事件の原因を、三成による「徳川家康暗殺未遂」事件のせいにしてしまいました。こういう三谷氏の行為を「歴史の捏造」と呼ぶのですね。