古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

木食応其(深覚坊応其)と石田三成について

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 高野山の僧、木食応其(深覚坊応其)と石田三成の交流について、白川亨『真説 石田三成の生涯』2009年、新人物往来社p5~7にまとめられていますので、以下引用します。

 

「(前略)

 その二として、三成の人間性を表現する言葉として、多くの歴史学者は高野山の深覚坊応其の次の言葉を引用している。

「石田治部という人は、その意に逆らうと報復の怖い人である」とする三成評である。

 それでは深覚坊応其の経歴と、三成との関係に触れてみよう。

 深覚坊応其は三成と同じ近江の出身で、近江佐々木氏の家臣であったが、佐々木氏が没落した後は大和の越智氏に仕え、越智氏も没落したため三十七歳で高野山に上り出家された方である。

 天正十三年(一五八五)、関白秀吉が高野山を攻略しようとしたとき関白秀吉に拝謁、高野山の無事を嘆願し、高野山の安泰を成し遂げた方である。

 そのとき三成は深覚坊応其のため関白秀吉の説得に努めている。深覚坊応其と三成の関係はそのときに始まったと考えられる。(注1)

 その後の深覚坊応其の足跡を辿ると、三成とは常に一体となった行動をとっている。

九州征討のときはもちろん、関ヶ原合戦のときには阿濃津城や大津城の開城交渉に奔走している。特に大津城の開城交渉は、北政所の執事・孝蔵主が同行し、京極高次に開城を求めている。

 また深覚坊応其は高野山の伽藍の荒廃や僧侶たちの堕落を嘆き、自ら木の実を食べ難行を繰り返した高僧であり、そのことから世の人々は木食上人と呼んでいる。

 それに先立つ天正十八年(一五九〇)、一寺を草創して「興山寺」の勅額を賜り、それ以降は興山上人とも呼ばれている。

 石田三成もまた天正十九年(一五九一)興山寺に六角経蔵と経典を寄進し、自らの逆修墓(生前の墓)を建立している。

 そのとき三成の義弟・熊谷半次郎(内蔵允直盛)もまた、その祖先に当たる熊谷次郎直実の供養塔を建立している。

 三成の逆修墓と熊谷次郎直実の供養塔は、現在も残されている。

 (中略)

 慶長四年(一五九九)三月三日「内府(家康)の御意に入り度(た)く体」の七将の襲撃によって佐和山に隠退した三成のもとに、慶長五年(一六〇〇)正月、深覚坊応其は年頭の挨拶に訪れている。

 正月二日、深覚坊応其は豊国社に参詣に訪れ、神龍院梵舜や祝(はふり)衆に贈り物をし、その足で佐和山城に三成を訪ねたようである。そして正月七日の帰路、豊国社を再び訪れ、石田三成に託された金子を奉納、高野山に帰っている(『舜旧記』)。

 前述のように関ヶ原合戦のとき深覚坊応其は、西軍のため阿濃津城や大津城の開城交渉に奔走している。

 そのため敗戦の報せに近江の飯道寺に逃れ、高野山には帰らなかった。その後、徳川家康使者に詰問を受けている。

 そのときの深覚坊応其の言葉が「開城交渉により一人でも多くの命を救うのが、多くの寺塔を建てるより大事なことである」と述べたあと、「石田治部はその意に逆らうと報復の怖い人であり、そのため阿濃津城や大津城の開城交渉に奔走せざるを得なかった」と答えたのである。

 仏者の言葉に「嘘も方便」という言葉がある。「嘘をつくことは悪いことだが、ときと場合によっては物事を穏便に解決する手段として容認される」という意味である。

 苦労人であり人の心の底を見抜けない徳川家康ではない。あえて黙認したものであろう。

 さらに佐和山城に目付として家康が送り込んだ津田清幽(きよふか)に伴われ、佐和山城を脱出した三成の三男佐吉を家康は助命し、津田清幽に命じて深覚坊応其に託し出家させたのである。

 深覚坊応其は津田清幽の恩義を忘れないようにと、佐吉に「深長坊清幽(せいゆう)」の坊安名を与え、甲斐国(山梨県)河浦山薬王寺の法弟に託したのである。その後、津田清幽は家康の命により大坂城に配されたが、間もなく尾張義直公に配されている(『津田家譜』)。

 その深長坊清幽(佐吉)が寛永年間、河浦山薬王寺の十六世住職に就任するが、そのとき三代将軍家光は寺領を寄進している(『薬王寺文書』)(注2)。さらに四代将軍家綱は寺領のほか村名主一〇名に対し米一〇俵の拠出を命じている(『薬王寺文書』)」

 

 関ヶ原の戦い後、木食応其は弟子の文殊院勢誉に高野山を託し、近江の飯道寺に隠棲し、慶長十三(1608)年に73歳で没しました。

 

(注1)和多昭夫氏の「木食応其考(承)」『密教文化』

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1962/61/1962_61_82/_pdf

によりますと、『高野説物語』では「「其比、近江侍の道心木食にて有けるが、いにしへは世にある武士の由にて、心けなげなる利発者、殊に石田治部少輔懇意なれば、かゝる山の難儀なる時節一働仕へきとおもひ」」(前掲論文p83)とあり、これによれば元々木食応其と石田三成は懇意だったということになりますが、前掲論文では続けて「数多い応其史料の中高野説物語以外にそれを物語るものがない事もそれが疑わしいもの」(前掲論文p84)であり、木食応其・石田三成旧知説を疑わしいものとしているため、やはり白川氏の指摘の通り、深覚坊応其と三成の関係はそのとき(高野山の降服交渉)に始まったと考えられます。

 

(注2)将軍家光が薬王寺に寺領を寄進したのは、石田三成の次女の孫(お振りの方)が家光の側室になった関係からでしょうか?

 

 参考文献

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

和多昭夫「木食応其考(承)」密教文化』

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1962/61/1962_61_82/_pdf