関ヶ原の戦いにおける西軍決起の首謀者たちは誰か?
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関ヶ原の戦いが起こった慶長5(1600)年の7月15日付島津義弘(惟新)の上杉景勝宛て書状(現存するのは控えです)というのがあります。
7月17日に三奉行による「内府(徳川家康)違いの条々」が発出する直前の書状であり、関ヶ原の戦いの西軍の首謀者を考える上で貴重な資料といえます。以下引用します。
「雖未申通候、令啓候、今度内府貴国ヘ出張二付、輝元・秀家を始、大坂御老衆・小西・大刑少・治部少被仰談、秀頼様御為二候条、貴老御手前同意可然之由承候間、拙者も其通候、委曲石治 ゟ 可被申候、以上、
羽兵入
(慶長五年)七月十五日 惟新
景勝 人々御中 (『薩摩旧記雑記後編』三-一一二六号)
◇いまだ書信のやりとりはございませんが、ご連絡いたします。このたび内府(徳川家康)が会津へ出陣された件で、毛利輝元・宇喜多秀家を筆頭に大坂の御年寄衆、小西行長・大谷吉継・石田三成らで御談合なされ、秀頼様の御為には(家康ではなく)あなた様との連携こそがとるべき途との結果に至りました。拙者もその通りと考えます。委しいことは、石田三成から連絡があると存します。」(*1)
上記の書状の内容が正しいとすると、以下のことが分かります。
1.関ヶ原の戦いの西軍決起直前の7月15日時点での首謀者は、毛利輝元、宇喜多秀家、御年寄衆(前田玄以・増田長盛・長束正家)、小西行長、大谷吉継、石田三成、島津義弘であるということです。
ここで、「首謀者」と書いたのは、上記の人物達は西軍決起の事前謀議に加わった人物であり、毛利輝元の上坂クーデターや、「内府違いの条々」発出に引き摺られて、事後的・受動的に西軍に加わったわけでないという意味です。
三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)、島津義弘、あるいは毛利輝元が事後的・受動的に西軍に加わったような説がたまに見受けられますが、それは史実に反します。彼らも西軍決起の事前謀議を行った首謀者なのです。
2.特に「島津義弘は、はじめは西軍につく気はなく、事前の家康の要請で伏見城に入ろうとしたが、城番をしていた徳川家康家臣の鳥居元忠に断られ、(周りは西軍だらけなので)やむを得ず西軍についた。」という話がありますが、これは島津家が江戸時代に作った徳川家向けの言い訳です。
実際には上記の書状の通り、島津義弘は西軍の事前謀議に加わっており、西軍の首謀者のひとりとなっています。家康の義弘への伏見城入城への事前要請は、口頭のものであり、また別に義弘を信頼したためというよりは、
① 島津は西国の大名であり、遠国である会津征伐に従軍するに及ばない(この時代の戦役は戦地に近い大名ほど軍役の義務が高くなります)
② 九州の大名でも黒田長政のように自発的に会津征伐に従軍した大名もいますが、家康は黒田家ほど島津家を信頼していない(島津家は三成と取次関係にあり、特に義弘は三成と昵懇の仲です)ため、やんわりと会津征伐の従軍を不要とした。
という理由によるものかと思われます。
鳥居元忠は家康の義弘に対する伏見入城要請の話は聞いていない、といって義弘の入城を断りますが、仮に家康の要請の話を前に聞いていたとしても、その頃は二大老・三奉行等による西軍決起など想像もしていない時点の話ですので、事情が全然違います。
上記のように義弘はすでに西軍に加わっていますので、元忠が義弘の話を信じて、島津軍を伏見城に入城させていたら、あっという間に伏見城は陥落していたでしょう。元忠が義弘の入城を断ったのは、賢明な判断であったといえます。
3.7月15日付の時点ではじめて書信のやり取りをしていることから、上杉景勝が西軍決起の事前謀議に加わっていないことが、この書状からも裏付けられます。
*ちなみに、上杉景勝の事前謀議がなかったことについて、渡邊大門氏の『謎解き 東北の関ヶ原 上杉景勝と伊達政宗』には以下のように記載されています。
「事前盟約がなかったことを明快に論じたのが、宮本義己氏である(「内府(家康)東征の真相と直江状」)。宮本氏は三成が真田昌幸に宛てた二通の書状を根拠にして、兼続と三成の事前盟約説を否定している。
まず、(慶長五年)七月晦日付石田三成書状(真田昌幸宛)を掲出することにしよう。(「真田家文書」)。
私(三成)から使者を三人遣わしました。そのうち一人は昌幸が返事を書き次第、案内者を添えて私(三成)のほうへ下してください。残りの二人は、会津(景勝・兼続)への書状とともに遣わしているので、昌幸のほうからたしかな人物を添えて、沼田(群馬県沼田市)を越えて会津へ向かわせてください。昌幸のところに返事を持って帰ってきたら、案内者を一人添えて、私(三成)まで遣わしてください。
この書状の冒頭の部分では、三成が挙兵する計画を事前に知らせていなかったことを昌幸に詫びている。このような事情を看取すると、この時点で、昌幸にさえ西軍決起の情報が届いていなかった様子がうかがえる。
そして、この書状を見ると、昌幸を通して景勝のもとに使者を向かわせていることが判明する。文中の案内者とは、土地の事情に詳しい者という意味である。つまり、宮本氏が指摘するように、これより以前に三成は、景勝との交渉ルートを持たなかったと考えられるのである。(後略)」(*2)
上記の「これより以前に三成は、景勝との交渉ルートを持たなかったと考えられる」の意味が判然としませんが、三成は七将襲撃事件で佐和山城に隠遁するまで、ずっと上杉家との取次を務めていますので、文字通りの意味(三成は、景勝との交渉ルートを持たなかった)ならば単純に間違いです。
「三成が七将襲撃事件で佐和山城に隠遁した以降に、内密に上杉家と交渉するルートを(物理的、地理的に)持たなかった」という意味であれば正しいといえます。
(令和2年5月30日追記)
呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018年、p287・305)に、上記の七月十五日付上上杉景勝宛て島津義弘書状について、これは(真書であるか)「軽々には信用はできない。」「偽文書の疑いがある。」としています。
その理由として、
①「そもそも右の文書は写しであ」ること。(p287)
②「前日の十四日島津義弘が本国(薩摩)にいる島津忠恒(義弘の息子で島津家当主)に宛てた書状には「爰元乱劇」としか記されておらず、義弘が西軍の構成を知悉していとは思えない。」(p287)
をあげ、③「西軍に属して敗者となった島津氏としては、徳川の天下においては、「上方で西軍が成立していたので、仕方なく参加した」と正当化する必要があったのではないだろうか。」(p287)
と記述されています。
上記の記述について下記に検討します。
①「そもそも右の文書は写しであ」ることについては、一般的に歴史上「写し」である全ての書状に疑義があることになりますし、写しである書状全てについて、これが「真書」であることの証明は原本がない限り不可能です。
このため、この指摘については全ての「写し」書状についてあてはまる話ですので、これについては反論しようがありません。(どこまでいっても全ての原本のない「写し」は真書ではない可能性がつきまとうことです。)
②「前日の十四日島津義弘が本国(薩摩)にいる島津忠恒(義弘の息子で島津家当主)に宛てた書状には「爰元乱劇」としか記されておらず、義弘が西軍の構成を知悉していとは思えない。」
についてですが、国元の忠恒に今回の陰謀の詳細を知らせていない事については、特に不審な点はありません。この書状の日付は慶長五年七月十五日であり、三奉行による『内府違いの条々』が発出され、世間に公表された七月十七日以前のものです。七月十五日の段階では、西軍決起の陰謀はまだ秘すべき機密情報な訳で、息子の忠恒といえども軽々に漏洩するような情報ではありません。国元の忠恒に伝えるということは、国元家中にもすべて伝わるということであり、これでは機密でもなんでもなくなります。
特に、その後の動向をみると、忠恒は(おそらく龍伯及び国元家臣達の意向で)「内府違いの条々」が発出されても、挙兵にまったく非協力的であり、事前の陰謀の段階では協力を求めても拒否され、むしろ止められることが義弘には分かり切っていたので、陰謀の話は忠恒には伝えなかった可能性が高いと考えられます。
③「西軍に属して敗者となった島津氏としては、徳川の天下においては、「上方で西軍が成立していたので、仕方なく参加した」と正当化する必要があったのではないだろうか。」
についてですが、そもそもこの書状は、(1)島津義弘は「内府違いの条々」が発出される以前の七月十五日に島津義弘が西軍諸将と事前通謀していた、(2)この書状の文面を読む限りでは島津義弘は事前通謀に参加することに積極的な意思があった、という内容でしかありません。
「仕方なく参加した」という言い訳をむしろ否定する内容であり、江戸時代の島津家が自分の立場をわざわざ危うくするような書状を偽造する意味がありません。(私も、島津氏は西軍決起の通謀に積極的な意思があったとは現在考えていませんが、この書状とは関係なく、他の状況を勘案してのことです。)
以上から、この書状が「写し」であることから、書状が真書であることは確定できませんが、少なくとも呉座氏が考える理由からは、この文書が「偽造」と疑う理由にはならないと考えます。
また、この書状から西軍諸将と上杉景勝が以前から連携していたと考える方もいるかもしれませんが、この書状を見れば分かる通り「いまだ書信のやりとりはございませんが」とあり、むしろ七月十五日以前には、西軍諸将は上杉景勝と連携してはいなかったということを証明する書状になります。
七月十七日以降も、西軍は上杉景勝との連絡ルートを確立することに苦慮しており(間に東軍方の大名を挟んでいるため)、七月十五日に書かれた書状が即日上杉景勝に送られたとは考えられません。どちらかといえば、この書状は島津義弘を西軍決起の事前通謀に巻き込むための「念書」的意味合いが強いのでしょう。(島津義弘にこの書状を自発的・積極的に書く意思はなく、「書かされた」感のあるものだったのではないでしょうか。)
※参考エントリー↓
(令和2年8月1日 追記)
谷徹也氏が、「総論 石田三成論」(谷徹也編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』戎光祥出版、2018年所収)で以下のように述べています。(p62~64)
「では、三成やその他の諸将の動向がどのようなものであったか、家康への宣戦布告である「内府ちがいの条々」が出される七月十七日までの経過を整理してみよう。
七月十二日、増田長盛は家康家臣の永井直勝に対して書状を送る。その内容は、樽井で大谷吉継が病気となり、二日ほど留まっていること、三成の出陣に対して不穏な動きがあることが大坂で噂になっているというものであった。この書状は①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの、②三成らとは共謀がなされているものの、家康にも通じて密告したもの、③三成らとは共謀がなされておらず、家康に不審な動向を報告したもの、という三つの捉え方できよう。また、同日付で大坂の三奉行(玄以・増田・長束)が毛利輝元に出した連署状についても、④三成らの動向を受けて、事前の協議通りに対家康のための上坂を依頼したもの、⑤三成らの不審な動向による混乱を治めるための上坂要請、という二つの考え方がありうる。
事前の謀議の存否については、七月十五日付の島津義弘書状が重要な手がかりを与えてくれる。義弘は、毛利輝元・宇喜多秀家・三奉行・小西行長・大谷吉継・石田三成らが共同戦線を張っていることを上杉景勝に伝えるべく書状を記してる。この時点でも共謀がない場合、三成が義弘に虚勢を張ったことになるが、関ヶ原で「西軍」に属したのと同じ面々が挙げられていることや、嘘であれば、当時は反家康の行動を起こす主犯格と見られていた加藤清正の名前がないことも不審であり、義弘が伝えた情報は事実である可能性が高い。
A七月十五日の時点で輝元や三奉行が三成に与同していたのであれば、輝元の居所が広島であることから、光成準治氏も指摘する通り、少なくとも七月十二日以前に彼らの内で共謀が成立していたと考えるべきであろう。Bよって増田書状は①か②、C三奉行書状は④と解釈するのが妥当である。①か②かは決め難いが、もし①であるとすれば、その目的はいかなるものだったのだろうか。
同書状の記す三成と吉継の不穏な挙動は七月十一日前後の出来事であろう。佐々正孝の得た情報によれば、三成側から吉継に使者を派遣して談合が行われたようであり、三成の主体性が認められる。江戸と上方の距離を勘案すれば、三成の挙兵は、七月十二日家康の江戸到着の報せを受けたものと考えられられよう。当時、会津攻めの後発隊として、彼らの他、安国寺恵瓊や玄以の子である茂勝らが東へ向かって進軍中であった。しかし、彼らの行軍は緩慢であり、一部が三成らに同調して戻っていったのである。三成らは挙兵後に自らの領国に留まるように伝言を送ったとされ、上記のタイミングを考慮すると、D家康を会津へは向かわせず、江戸に釘付けにすることが彼らの狙いだった可能性がある。」(下線・アルファベット記号は筆者)
谷徹也氏の論考をまとめると、以下のようになります。
A 慶長五年七月十二日以前に、毛利輝元・三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)・石田三成らの内で西軍決起の共謀が成立していたと考えるべきであろう。
B 慶長五年七月十二日付永井通勝(徳川家康家臣)宛増田長盛書状は、①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの、②三成らとは共謀がなされているものの、家康にも通じて密告したもののいずれかと考えるのが妥当な解釈であり、①か②かは決め難い。
C 慶長五年七月十二日付毛利輝元宛三奉行(玄以・増田・長束)連署状は、④三成らの動向を受けて、事前の協議通りに対家康のための上坂を依頼したものと考えるのが妥当な解釈である。
D 慶長五年七月十二日付永井通勝(徳川家康家臣)宛増田長盛書状の狙いが、「①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの」だった場合、家康を会津へは向かわせず、江戸に釘付けにすることが彼らの狙いだった可能性がある。
筆者も概ねこの論考が妥当と考えます。
(「慶長五年七月十二日付永井通勝(徳川家康家臣)宛増田長盛書状」及び「慶長五年七月十二日付毛利輝元宛三奉行(玄以・増田・長束)連署状」の書状の内容については、下記のエントリーに掲載しています。↓)
※ 関ヶ原の戦いにおける西軍決起計画の「主導者」について検討しました。↓
注
(*1)中野 等 2017年、p416~417
(*2)渡邊 大門 2014年、p138~139
参考文献