古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り

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※以前のエントリーです。↓

伊達政宗と石田三成について(1)

伊達政宗と石田三成について(2) 

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 

 

 文禄4(1595)年7月に豊臣政権を揺るがす豊臣秀次切腹事件が起こります。諸大名にも動揺が広がっており、大名達は事態の詳細を把握するために、秀吉の奉行衆に照会をして情報収集に努めます。

 

 このうち、伊達政宗の家臣針生盛信も、三成に詳細を問い合わせる書状を発し、書状に対する三成の返書が『伊達家文書』に残っています。以下、引用します。

 

「預飛札本望二存候、今度関白殿御逆意顕形二付而、御腹被召、一味之面々悉相果、毛頭無異議相済候迚、可為御上洛間、期面談不能詳候、

                  石田少

                    三成(花押)

     七月廿五日

        針(針生)民舞太輔殿

                 御返報

                   (大日本古文書『伊達家文書』六六四号)

◇急便を嬉しく思う。この度関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた。すべて問題なく片付いたことをうけ、御上洛されるとのことなので、面談の時を期して詳しい事を述べない。」(*1)

 

 針生盛信という人物は、「蘆名一門であり、蘆名義広の家老を勤めた人物である。これが奥羽仕置ののち、伊達家に転任するという経緯をもつ。したがって、政宗家中の中では三成と昵懇の間にあった。こうした関係を前提とした文書のやりとりであろう。」(*2)

 

とあります。前述した通り、以前に伊達政宗と対立していた佐竹義宣及びその弟である芦名義広を三成は秀吉政権の取次として支援していましたので、当時義広の家臣であった針生盛信とはその頃からの旧知の仲なのでしょう。

 

 上記の書状は、秀次切腹事件に対する文禄4(1595)年7月25日時点における豊臣政権の「公式見解」として注目されることが多い書状ですが、一方で、この書状が誰に送られた書状なのか注目されることが少ないと思われます。

 

 この書状を見て分かるのは、家臣の針生盛信を通じて、以前より伊達政宗石田三成は交流があり、秀次切腹事件という重大事態に対して、伊達政宗が情報と対処方法を頼ったのは石田三成だったという事です。

 

 よくドラマなどでは、「石田三成が以前から伊達政宗を敵視しており(これも上記で書いた通り、以前に伊達政宗vs蘆名・佐竹連合の戦いで、三成は秀吉政権として蘆名・佐竹連合を支援する立場であったということで、政宗を個人的に敵視していたわけではありません。)、秀次事件を契機として(政宗は秀次の反乱に与していたという理由をつけて)政宗を除こうと画策し、政宗は堂々と反論してあやうく難を逃れた」ような話が描かれます。

 

 しかし、この書状を見ると、現実には伊達政宗は三成にこの事件の情報や対処方法を尋ねており、秀吉政権の中では三成を頼りにしていたことが分かるのです。また、この書状は以前から三成と政宗との間に交流があったことをうかがわせます。

 

 

 結局、秀次事件において政宗連座させられるような事はありませんでした。その時に三成の取り成しがあったという史料はなかったかと思いますが、少なくとも三成がこの事件で政宗を陥れようとした史実はありません。むしろ、三成は政宗を擁護する立場にあったのではないかと、この書状から推測されます。

 それは前にも紹介しましたが、慶長三年七月一日の政宗の三成宛書状「三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」(*3)という記述からもうかがえます。(もし、三成が秀次事件で政宗陥れようとした史実が本当にあるなら、こんな書状が書かれることはありえません。)

 

 今回の書状や、前回のエントリー

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 

で紹介した書状などを見ると、従来の見方とは違って三成と政宗は互いに敵視したわけではなく交流もあり、またある意味互いに信頼できる関係でもあったのではないかと思われます。

 

関連エントリーです。↓

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 注

(*1)中野等 2017年、p259~260

(*2)中野等 2017年、p260

(*3)福田千鶴 2014年、p57~58

 

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)

福田千鶴『(歴史文化ライブラリー387)豊臣秀頼吉川弘文館、2014年