古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」について。

※以下は、村上春樹「4月のある朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(『カンガルー日和講談社文庫、1986年所収)の感想です。

 

 この作品はタイトルだけで既に完結しているといってよい。このタイトルだけで純粋にまじりけなく完璧なものだ。これは、ある種の物語の原型である。この村上春樹氏の短編も、その原型から無限に発生するひとつのバージョンを切りとってデッサンしたものにすぎない。

 

 この原型の世界に恋い焦がれて、ある種の作者たちは物語を紡ぎ始める。たとえば新海誠さんの作品のその原型はひとつであるし、スピッツ草野マサムネさんも語っていることはひとつの世界である。

 

 その物語は「昔々」で始まるのかもしれないし、「ある晴れた昨日の朝だった」かもしれないし、「今から遠い未来」かもしれない。

 

 終わりは「悲しい話だと思いませんか」かもしれないし、「めでたし、めでたし」かもしれない。(ただ、「悲しい話だと思いませんか」の方が多いのかもしれない。そのほうが「リアリティ」があるのかもしれない。)

 

 この物語の表層は千変万化し、変遷し、伝えられる。古今東西の作者が、この物語を語り続けてきた。これからもバージョンを変えて多くの語り手に語り継がれることになるだろう。