古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第6章(当たり前の話ですが)豊臣秀頼は石田三成と淀殿の間の子ではありません。

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☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

 上記のタイトルの通りですが、なぜこんなことをわざわざ書くかというと、NHKはなぜか、過去の大河ドラマでこの手のファンタジー話が好きなようで、確か『秀吉』『功名が辻』『江』あたりでも、三成と淀殿の「あやしげな」関係を描いていました。すいませんが、天下のNHKさんがこうした創作話を描かないでほしいんですね。描くのは歴史上の実在の人物なんですから。

 

 まず、物理的な話。秀頼が生まれたのは、文禄二(1593)年8月3日。

 石田三成は、天正二十・文禄元(1592年)6月6日に名護屋から軍目付として朝鮮に向かい、文禄二(1593)年9月23日に名護屋に戻るまで、(文禄二年5月13日から24日の間の一時帰国を除き)、朝鮮に在陣し続けます。

 対して淀殿は、その間当然日本にいますので、そもそも物理的に秀頼の父が三成であることはありえません。

 

 以上、終了の話なんですが、この時代の三成と淀殿の関係が何かないかと思って調べてみても、むしろ、「接点なさ過ぎじゃね?」て、感じがしてしまうのですね。三成と淀殿との(公的な意味での)関係がうかがえる文書がほとんどないのです。(まあ、あったとしても関ヶ原の戦い以降、破棄されてしまったのかもしれませんから、何ともいえませんが。)

 むしろ、西軍諸将と淀殿との関係の薄さこそが西軍敗北の原因のひとつだったのではないかと思ってしまいます。

 

 これに対して、石田三成は次女小石を北政所の侍女としており、後に彼女は北政所の執事の孝蔵主の義甥の岡重政と婚姻、三女辰姫は秀吉死後に北政所の養女となっています。大谷吉継の母東殿は北政所侍女、小西行長の母わくさ(洗礼名マグダレナ)も北政所侍女、宇喜多秀家は秀吉・北政所養女の豪姫(実親は前田利家)の婿殿、彼ら西軍諸将は北政所ファミリーといってよいです。

 

 関ヶ原の戦いの間、北政所淀殿は険悪ではなく、むしろ大津城開城のために協力しあってはいるのですが、淀殿の内心としては、「西軍諸将は、所詮は北政所ファミリーであり、自分自身(淀殿)の味方ではない」と思われたかもしれないなー、と思います。そこら辺が淀殿関ヶ原の戦いにおける消極的な姿勢に反映されたのではないでしょうか。